3.姉上の尖った牙城
作:宴屋六郎
帰宅して。
姉の部屋を訪ねた。
僕には二つほど歳の離れた姉上がいる。仲は悪くない。かといって特別に良いわけでもなし。
つまりは、普通ってこと。
姉上は僕とは違い、聡明で、けれど変な拘りを持つひとだった。小難しいことを考えていると言うか、変なことばかり言うというか。
たとえば、と例を挙げようとすれば難しい。具体的なエピソードを挙げたとしても、姉上の変人ぶりというか、雰囲気を完全に表現できるわけではないからだ。
あえて何か逸話を出すとするならば。我が家には家族共用のグラスがあった。普段飲み食いする場面で、飲み物を入れる容器だ。同じ形のものが複数個あって、どれが誰のものなんて決まっちゃいない。決められるはずもない。姉上はそれらグラスを指して、皆違うと主張した。僕が客観的に見ても、どれも同じ形に見えた。そして全て同じ形をしているはずのグラスの中でも、自分のものと主張するグラスを家族が使用すると、たいへんお怒りになった。両親の放任主義的な性格による教育の結果もあって、姉上のグラスだけは家族とは別の場所に保管されることになった。
……でもこんなエピソードじゃ、姉のことは上手く伝えられない。とにかく、普通ではないんだ。
有体に言うと、姉は変人だ。
そんな姉は小さな頃から頭が良かった。現在は、全国的に名の通っている大学で、学生をやっている。
受験勉強をしている素振りなんて、見たことなかった。両親や僕なんかは、あんなもので進学などできるものだろうかと甚だ疑問だったが、姉上は難なく合格を決めていた。姉上の成績が、学校の中でもずば抜けていいことを担任の教師は知っていたし、両親にも知らされていたけれど、いまいち信じられない。人は、ろくに勉強せずに進学できるのだろうか。いや、できようはずもない。あれは、姉上は、どこか特別な人間なのだろう。
そんなに頭が良いというのなら、学校から推薦でももらえば良かっただろうに、と思ったものだけれど、姉は奇人変人であり、普段の素行が悪かった……というよりも、変だったので、無理だったとか。これは姉らしい理由だと感心したものだ。
姉弟で比較なんて、幸か不幸か、されたことはあまりないけれど、きっと比較するのが可哀相なほど、僕と姉上は種類の違う人間なのだろう。
そんな平平凡凡とした僕が、超人奇人変人な姉上の部屋を訪れた理由は単純明快で。単にお風呂が空いたので入るように促しに来ただけだ。
何度か姉を呼ぶ。返事はない。
よくあることだ。姉上が在室の場合、同時に何かに集中している可能性がある。そして、集中している姉上は、周囲の音なんて聞こえない。聞こうとしない。
三度ノックしても沈黙は変わらず。
小さく溜め息を吐いて、戸を引いた。
途端、煙が溢れて出した。
煙?
何かを意識する暇もなく煙を吸い込んでしまった。……この臭いは、紫煙。
姉上の部屋から、煙が流れ出てきている。少し前に嗅いだ記憶のある、それでいて嗅ぎ慣れない臭いが鼻を過激に刺激する。
室内は煙がもくもくと立ち込めていて、霞んでいる。姿はおぼろだけれど、奥のベッドに腰掛ける姉上の姿を発見した。
姉に喫煙習慣はなかったはずだけれど。
何か行動を起こそうという気力があるようには見えなかったので、意を決して部屋の中に踏み込んだ。
後ろ手に戸を閉める。放任主義の気色が強い我が家庭とはいえ、年頃の娘の部屋から大量の紫煙が流出している現状を母に見られたらなんと言われるかわからない。
窓を開け、夏から出しっぱなしであろう扇風機を窓に向けて回す。即席換気扇の出来上がり。
その一連の動作の間中僕はせき込んでいたし、姉はぼうっとしたままだった。昔からこういう人だ。
やはり煙草の煙は、臭いは、苦手だ。気持ちが悪い。
室内の煙が薄まった頃になって、やっと姉上が僕の存在に気付いた。伸び放題にしか見えない黒髪の中、眼鏡の奥の瞳だけが動き、僕の姿を中心に捉える。
「おお、すまんね」
姉は元気という言葉とは無縁な、いつもの小さな声で謝罪の言葉を投げかけた。悪びれている様子は一切なかった。
そのまま僕の顔を見つめているだけなので、部屋についての説明を求めようと思った。
「この部屋は?」
「試してみただけだ」
何を、とは僕も姉上も言わなかった。興味の湧いたものに、すぐに手を出してしまうのは、彼女にはありがちなことだ。それが今回は煙草だったということなのだろう。
ああ不味かったなあ、と心の底から吐き出すように言い、安物の携帯灰皿と思しきものに、手に残っていた紙巻きを突っ込んだ。
そして、まだ中身が残っていそうなパッケージと一緒に、そのままゴミ箱へと……ナイスシュート。思い出したように懐から取り出した百円ライターも、同じ運命を辿った。
仮にも火を点ける道具である。そんな扱いで大丈夫なのかと心配になる。
それから僕は、なんとなく出ていく気になれず、加えて本来の用事も忘れて、その場に座り込んだ。姉上とは、人間一人分の距離があった。
姉上がリモコンを手に取り、おもむろにテレビの電源をいれた。
「随分と表情に翳りが見えるが。なんだ、好きな女が煙草でも吸っていたか?」
心臓が。
止まるかと思った。
心を読まれたかのような感覚。いいや、当てずっぽうか、あるいは適当な妄想か。
姉はよく、こういうことをやった。
当たる確率は五分ってところ。
五分もあれば、十分だとも言う。
それでもたまたま当たっただけだと自分に言い聞かせ、焦りを表に出さないように苦心した。
「違うよ」
否定はしたけれど、姉は一切気にした風ではなかった。
姉上は他人の話なんか聞かない。自分が世界の中心であると、信仰して止まないからだ。そんな姉上を、変人ゆえに僕はちょっと感覚がずれてるな、と思う。
……では僕は、なにが世界の中心であると考えているんだろうか。
姉は否定されても意に介さず、話を続ける。
「『好き』とはなんなんだろうな」
「はあ」、と適当に相槌を打っておく。どうせ姉上の長話だ。真剣に聞く必要なんか、ない。
いつも突拍子もなく自分の中の問題を外に放出して、こちらが困惑しているうちに自己解決していくんだ。これも昔から慣れてること。上手く受け流さないと、姉は勝手に自己解決するくせに、自分は引っ張られていくのだ。今回も、受け流そう。
「真面目な話だ。あたしは他人を恋愛対象としたことがないから、よくわからん」
だというのに僕は、いつの間にやら思考を巡らせていた。
……誰かさんのせいだ。
「ただ、よくいるじゃないか。恋愛至上主義と言うべきかな。いる、というよりも、いまの風潮でもあるか」
恋愛至上主義。
恋愛をしなければいけない。
親に決められた結婚よりも、恋愛を経ての結婚が何となく尊ばれているような、雰囲気。
「あたしはきっと世間と感覚がずれている。だから、あたしよりは『普通』に近しいお前が、誰かを好きになったというのなら、興味深い。知りたい」
普通と言う言葉に反応しかけてしまった。姉上の言っていることなんか適当だ、と言い聞かせて押さえる。
「いやさっきから言ってるけどさ、そんなんじゃないから」
「そうか残念だ」
ほとんど即答に近い速度で、姉上が言った。心底残念そうな声色だった。
姉上の心は読めない。読みづらい。
もっとも、他人の心なんて、読めたことないけれど。
「好き、っていうのは、信仰なんだろうか」
「どうしてそうなるの」
「居間で観てたテレビでやっててな。人気のアイドルに密着取材だとかなんとか。まあそれはいいんだ。ただ、あたしが気になったのは、アイドル好きの連中は、恋愛感情なしでどうしてあそこまで熱中できるものなんだろうかってのがね」
「恋愛感情がある人だっているんじゃないの?」
「それはいるだろうさ。数が大きくなれば色んな人間があるわけだしな。ただ、大多数のファンは、実際に恋仲になれるなんて、妄想はすれど実現するなんて、思ってないだろう?」
それが、先程の信仰とどうつながるんだろう。
何となく姉上が言いたいことがピンときたので、言ってみる。
「偶像崇拝ってやつじゃないの。前、姉さんが教えてくれた」
「ああ……まあ、それもあるんだろうけどな……」
そう言って、姉はしばらく考え込むようなポーズを取った。昔からの癖だ。下唇に親指を当て、目線を下げる、昔から見慣れた姿勢。
その聡明な頭脳で、どんな思考を巡らせているのか。
僕にはわからない。
わかるはずもなかった。
「ファンってのは大抵の場合、対象のことが無条件に好きで、信仰と似てる」
「ああ、まあ、そうね。でも、姉さんは好きを信仰かもしれないって仮説を立ててるのに、ファンの感情は信仰でありながら恋愛感情はないのが多数って、言ってるよね?」
「そこなんだよ。ファンの信仰って、最初から最後まで信仰なのかね」
「それは……」
本人たちじゃないと、わからないだろう。
「想像しかできんが、恋愛感情を飛び越えた先に、信仰があるのかもしれない」
あるいはその逆もあり得るか、と小さく呟く姉。
「信仰――神様信じるってのは、疑っちゃいけないってことだろう。だから偶像を愛するほとんどのファンは歪んでるし、信仰そのものが歪んだ行為に、あたしには見えるね。こんなこと言ったら、宗教者に怒られそうだけどな」
なんともまあ無礼な主張だった。
正しい行為も、正しくない行為も、清濁あわせ飲んで、盲目的に信仰する。それは確かに、歪んだ行為のようにも思える。
けれど、それは僕らからみて歪んでいるのであって、本当に彼らが歪んでいるのか。
その尺度は、判断は、境界は。
誰が決めるのだろう?
「歪んだ行為でも、生きていくのに必要な行為だってたくさんあるしな。……話を戻そう。アイドルファンとかさ、スキャンダルなんかになったりしたら、怒ったり、大抵のファンは対象のことを残念に思ってしまうだろう? だからそれは純粋な好意は危険というか、やっぱり歪んでしまっているように思えるんだ。それがいいか悪いかなんて、あたしごときが決めていいもんではないけどさ、客観的に見てちょっと曲がってる感じはするよなぁ」
僕には姉が何を言いたいのかわからない。どんなふうにつながっていくのだろう。
「ま、大抵の人間は偶像に幻滅したらそのままファンと信仰をやめてしまうか、それでも偶像を崇拝し続けるかになるんだが。前者の場合、当然偶像は偶像でなくなり、感情の対象ですらなくなる。マイナス感情の対象になることもあるだろうさ。後者? まあたぶん想像できてると思うけど、これが信仰の本来あるべき姿なんだろう。好きも嫌いも受けいれて、好きでい続ける。自分の中の好きも嫌いも内包する。それでいて好きだと言える。曲がってない、まっすぐな状態さ。曲がった後に矯正されてるから、綺麗にまっすぐとはいかないが、それでもまっすぐだ」
好きも嫌いも受け入れていることが、信仰と言いたいのだろうか。
つなげると、本当はファンの恋愛感情が崩れた後に、真実の信仰が始まるとでも考えたのだろうか。
幻滅してからが、信仰。
それ以前は、歪んでいると、姉はそう言っている。
姉上の考えは、ファンと呼ばれるものに属している人間すべてを愚弄しているようにも思えた。
……いいや、所詮姉上の思考は、暇つぶしの言葉遊びに過ぎない。はず。
昔から苦労させられてきたんだ。
今日もからかわれたと考えた方が、精神的な健康を保てるだろう。
僕はずっと黙っていた。
姉もずっと黙っていた。
口を開いた。
「結局、何が言いたいんだ?」
「……ううん。やっぱり『好き』と信仰は別物だな」
なんじゃそりゃ。
今回は珍しく自己解決失敗したらしい。
「でも、恋愛感情の先に信仰があるって話は、良い線行ったと思うんだよ。なあ、恋する男の子?」
「…………」
引っ掛けだ。
しかし、先程の話は、なんとなく僕に当てはまりそうな気がして、不安に駆られる。
まさか姉は、僕のことを何もかも把握しているのではないだろうか。
いいや、そんなはずはない。無理だ。
人より聡いというだけで、他人の状況に察しがつくだなんて、そんなファンタジーは、あり得ない。
無理に決まっている。
――紫煙は、もう室内のどこにも残っていなかった。ただ、僕の寝巻に苦い臭いだけを残して。
窓から乾いた風が吹き込んでいる。
本来の用事を思い出した。
「姉さん、お風呂どうぞ」
「御苦労」
******
自室に戻った。
姉の部屋と同じで殺風景だと思う。インテリアにこだわりもなく、必要なモノを乱雑に配置している。子供の頃に買い与えられた学習机だけが、なんとなく浮いている感じがする。
ベッドに体を放り投げた。仰向けに転がる。
蛍光灯の白光が、網膜を緩やかに焼いていく。
こうやって横になっていると、全身に虚脱感があったことに気付く。疲れることなんて、何もしていないのに。
ああ、いや。
あったな。
今日の放課後に、ニノマエさんに教えられたこと。
僕は自ら望んで、普通に甘んじている。
僕は、忌み嫌っている普通に、自分で――。
目を細める。何も考えないように眠ってしまいたい。
けれど、僕の頭は姉が言っていたことを何度も繰り返していた。
忘れようと思っても、耳の奥にこびりついて離れない。まるで黴のように頑固に張り付いて、根を広げていく。
しかしその肝心な内容は、徐々に薄れつつあった。先程の話なのに、頭の中に靄がかかっている。考えれば考えるほど朧になっていく。まるで聴きたくないと耳をふさいでいるように。
強くこびりついている姉の話は……『ただ純粋な好き』が歪んでて……そして、あれは、そう、幻滅の話だった。
幻滅。
幻滅?
――ああ、そうか。
やっと理解した。
今日の放課後。そして昨日の放課後。ニノマエさんを見ていて感じた揺らぎと違和感。
幻滅だったんだ。
失望だったんだ。
僕はただのファンだと、ありのままの彼女を見ていることが好きだと自分で言っておきながら、僕は彼女の理想像を、勝手に作り上げていたのだ。
全く、自分のことながら――いや、自分のことだからこそ、嫌気が差す。
これまでと同じだ。僕は僕のことが嫌いだ。
では、翻って。
彼女のことは?
嫌いか?
好きだった、勝手に理想としていた彼女ではなく、現実に存在する彼女が、好きか?
答えは。
答えは?