4.彼女の症状

作:宴屋六郎


 翌日、学校には暗い気持ちのまま登校した。
 暗いというよりも、もやもやしている。頭の中を靄が覆っているような、そんな感覚。
 結局、昨夜は眠りがとても浅かった。特に何か夢を見たという記憶はないが、何度も何度も途中で覚醒しては、無理やり眠ろうとしたことで、変に体力を消費してしまった。
 欠伸が何度も出る。目尻に塩水が溜まる。
 相変わらずもやりとした感覚が頭を包み、寝不足で授業中に惰眠を貪ることになるだろう。
 授業の始まった教室で、椅子に座って下を向いている今も、瞼が落ちてくる。
 瞼の重みに逆らえないというのは、こういうことか。
 しかし、僕は知っている。これは爽やかさとは無縁の、真逆の眠気だ。つまり、良くないタイプの眠たさ。
 眠気が精神を沼へと引きずり込んでいこうとする。
 静かに、ぬるりと。どこか湿っている。
 姿勢を低くして、机に突っ伏した。湿った眠気に抵抗することは、もはや頭の中になかった。
 俯いているので、当然のように眠気とともに、精神はずっと下に落ちていく。
 ずっと、ずっと。底の方へと。
 今日は、屋上に行くのはやめておこうか。俯き突っ伏したまま、ちらりとニノマエさんを見遣った。
 授業を受けていながら今日も笑顔で、級友に囲まれている。彼女が楽しげならば、それは喜ばしいことだ、と僕は自分に言い聞かせた。
 そしてまた、身体を机に預けた。
 周囲の友達は心配してくれたけれど。まあ。



 なんとか日常をやり過ごして下校時間である。
 特別を、非日常を日常にしてはいけない。
 そう思い、まっすぐ自分の家に帰ることにした。
 体調だって悪いことだし。せっかくの金曜日だというのに、なんと運の悪いことか。
 歩く。
 いつもの通学路。遠くもなく、近くもない我が家と学校の往復路。
 日常の繰り返し。その代表とも言える通学路。まるで『普通』と『日常』をなぞるような帰り道。
 いつもの帰り道だ。さして意味なんかない。
 けれど、どうしてだろう。
 何かがぽっかりと空いているような――欠落したような感覚を覚える。
 ここ数日は屋上に通うことが習慣になっていたから? それとも、やはり体調が優れていないからか。
 わからない。
 僕にはわからないことだらけだ。
 改めて意識し始めると、落ち着いていた気分が急激に悪くなっていく。これは本格的に風邪でも引いているのかもしれない。
 ああ、いつかと同じく、喉の奥から激流が溢れそうだ。
 その場に座り込みたいが、そんなことをするわけにはいかない。
 何故?
 何故って。
 何故って……。
 ぐるぐると頭の中を同じことが回ろうとする。……とにかく、どこか、座っても問題のない場所に。
 焦点がしっかりと定まらなくなってきた。うまく機能しない視覚を通じて、周囲の確認。
 公園があった。そうだ、通学路の途中……たいした遊具もなく、砂場と広場とベンチしかないような、取るに足らない普通の公園。あまりにも取るに足らなくて、足を向けたことは一度もなかった。
 ふらふらと公園に這入り、ようやっとベンチに座った。そのまま深く腰掛ける。
 俯いて吐き気をやり過ごす。
 吐いてしまってもいいのだけれど、それは、なんとなく、嫌だった。
 息を大きく吸い込み、吐き出す。
 深呼吸を何度か繰り返すと、吐き気は小さくなっていった。
 背もたれに身体を預け、空を仰ぐ。
 青い空は、夕刻に近づくにつれ、色を失っていく。太陽はもう、あまり眩しくなかった。
 陽が傾きかけている。
 屋上のことを連想する。
 彼女は今日も、夕陽を見に行くのだろうか。演劇部の活動を終わらせたあとに。
 彼女は今日も、煙草を、吸うのだろうか。
 どうして、僕の前で煙草を吸うのだろうか。
 僕がいなくなったあとに吸えばいいのに。
 適当に残る理由を作って。そうすれば、勇気のない僕なんか、勝手に帰ってしまうのに。
「……ニノマエさんに、訊けば良かったな」
「何を?」
 目の前にいた。
 驚きすぎて、座っていたのに飛びあがった。
 急な運動のために、むせ込んだ。それをきっかけにして、吐き気が戻ってきた。
 気分が悪そうな僕を見て、彼女は隣に坐して背中をさすってくれた。
 どうしてここにいるんだ。せき込みながらそのまま疑問を口にする。
 ニノマエさん曰く。
 今日は部活が休みになっていることを知り、毎日屋上に行くこともなんだか悪いことをしているような気になって、帰ろうとしていたという。
 その途中で僕の後ろ姿を発見、驚かせてやろうとストーカーごっこを開始したのはいいものの、あまりに顔色が悪かったために機会を逃してしまっていた。それでも体調の悪そうな僕を放っておくことはできなかったので、そのままずるずるついてきた、ということらしい。
 なんとも、まあ。不思議な子というか。
 驚かされて収まりかけた吐き気がぶり返したけれど、憎めない。
 背中、さすってくれたし。
 話を聞いているうちにようやく吐き気が収まり、僕は大きく深呼吸した。身体の重たさは変わっていないけれど、さっきよりはだいぶマシになった。
 だから、口を開いた。
「ニノマエさんってさ、楽しそうだよね」
「何が?」
「生きてるのが」
 楽しいよ、と笑った。
 世界に愛された女の子。すべてから肯定される女の子。
 僕と対極にいて、どこまでも僕じゃない女の子。
 僕と対比させることすら、おこがましくって。
 僕とは違いすぎる。どこまでいっても、人間であるということ以外に、彼女と重なる要素が見当たらない。
 彼女とは、何も共有できない。
 何もかもが違いすぎて、彼女を見ていると嫌になる。
 自分に欠けている部分、自分に足りていない部分を、無意識に意識させられる。どこまでも明るくて、無垢な彼女を見て、自分の汚さを知るのだ。
 だから僕は、彼女のことが嫌い、なのかもしれない。
 ニノマエさんのことは好ましく思う。彼女の周りにいる人たちと同じく。
 僕は彼女のことを好ましく思っていた。遠目に眺めることが好きだった。彼女は美しかったし、遠くから見つめていると、好ましい存在だった。
 けれど、近くは、駄目だった。
 彼女のことは、好きなはずだった。ああ、彼女自身は何も変わらない。遠くで見ても、近くで見ても、一愛子は一愛子のままだ。
 影響の及ぶ範囲、近くいることで、彼女の影響を知った。太陽が近くにあっても、遠くにあっても、太陽という存在は太陽以外の何物でもない。
 でもすぐ傍にある太陽は、どこまでも有害なものだ。適正な距離を保っている者には光を恵むが、周囲のすべてを焼き焦がしていく。
 どうして彼女の周りにいる人間たちは、自分が嫌にならないんだろう。
 自分と相手を切り離して考えられるのだろうか。
 だって、僕らは同じ世界に生きているのに。
 ……重なる部分、あるじゃないか。
 ニノマエさんにも、悩みというものは存在するんだろうか。
 ふと思いついて、訊ねたくなった。
「ニノマエさん」
「なあに」
 けれど、そのまま訊ねるのも、躊躇われた。
 だから、僕は僕の悩みを、苦しみを、そのまま彼女にあてはめようと思って。
 口に出していた。
「ニノマエさんって、自分のこと、好き?」
 彼女は生きていることが楽しいと言った。
 前に話したときは、何でも好きだと言った。
 彼女はきっと、世界を愛しているのだろう。
 それに比べ、僕は、僕のことが嫌いだ。
 だからたぶん、僕はきっと。
 世界のことが嫌いなのだと思う。
 世界はつまり、自分の見ている視点だ。
 だから自分を含めて、自分が、世界なんだ。
「…………」
 沈黙が落ちる。
 隣に座っていたニノマエさんは僕の質問に対し、目を見開き、考え込んでしまった。
 意外だった。
 即答で、好きだよと返ってくると思っていた。
 それとも、これも僕の勝手なイメージだったのだろうか。
「わたしってね、歪んでるの」
 彼女は独り言をつぶやくように、言った。
「世界を愛してるってね、普通じゃない、よね? 普通の人は、そんなこと思わない、よね? 自分の変なところとか、本人だと気付きにくいんだろうけど、なんだか周りの人と違う気がしてならなかったの」
 僕にはわからなかった。
「でもわたしは、気付いたら世界を愛していたし、どんなものでも愛せるようになっていた。生まれついての性質っていうのかな。愛する以外のことができないの。お母さんやお父さん……ううん、それだけじゃない。その他のみんな、何かしら嫌いなものを持ってた。けれど、わたしにはそれがなかったの。わたしは嫌いっていう感情がわからない。どうして何かを嫌いになれるのか。わからないの。考え始めると、嫌いって言葉がゲシュタルト崩壊を起こすみたいに、ぐちゃぐちゃになっていくの」
 僕にはわからなかった。
「人ってね、嫌いなものを観たり、触れたり、聞いたりすると、本当にひどい顔をするの。わたしは人の顔をよく見てきた。人の顔を見るのが好きだった。人を見ているのが好きだったから。あんなにひどい顔をさせるものが、人には必ずあるの。必ず、あるはずなの。でも、わたしにはそれがなかった。これまで生きてきて、出会えなかった。だから、わたしは欠落しているんだと思う。人に必ず備わっている要素が、わたしには足りない。不足している。何かを愛することしかできない。それって、とっても歪んでいること、でしょう?」
 僕にはわからなかった。
「……そして、わたしはこんな自分でも愛してしまっている。好きなの。自分のことが好きなのよ。でも、それは選択肢が足りていない。否応なく好きでいるしかないの。自分のことすらそうなんだから、他のものも選択肢を強いられていると思わない? 自分が世界を愛しているのは、嫌いって感情がわからないからだって。でもやっぱりわたしは自分を許容してしまう。この好きだと思う感情はどこまでわたしの感情で、どこまでわたしが選んだ感情なんでしょうね」
 僕には、わからなかった。
「わたしは」
 わかっていなかった。
「世界を愛しちゃってるのよ」
 彼女は微笑んだ。
 彼女は泣いた。
 どっちだ。
 彼女の感情が果たしてどちらにあるのか、僕にはわからなかった。
 ニノマエさんは黒瞳を濡らし、微笑みながら、自分の宙ぶらりんとした感情に戸惑っているように見えた。
 ……愛すしかなかったんだ。
 なんて、欠落しているんだろう。
 周囲の人間も、彼女を愛すことしかできない、んだろうか。好きにしか、なれないのだろうか。
 誰かを、何かを嫌いになれない。
 世界とは自分を映す鏡なのだと、いつだったか姉上が戯言として言っていた。
 自分が愛しても、返ってこないことだってある。なぜなら、自分は何かを憎むことも嫌うこともある。それが返ってきているだけで、世界から愛されていないわけじゃない。お前は、人より自分を、世界を嫌う比率が人より多すぎるんだ、と。
 人はそうやって生きてきて、いい具合にバランスがとれていて。
 彼女はそうではなかった。
 バランスを欠いているがゆえに、どこまでも愛されていた。
 そして僕もまた、バランスを欠いていた。
 どこまでも自分のことが嫌いで、世界のことが嫌いで、好きになることなんて少なくて。彼女ほどではないにしろ、僕は嫌いなモノが多すぎる。
 そしてまた。

 僕は彼女のことすら嫌いになろうとしていた。