2.僕の奇妙な非日常
作:宴屋六郎
屋上での邂逅から数えて、翌々日。
僕が彼女から逃げて、翌日。
僕の机の前に、非日常がやってきていた。
一愛子が目の前にいる。妙にぷんすかしたような表情を顔に表出させて、隠すつもりもなさそうだ。
今朝の僕は、昨日から感じていた不安のせいか、いつもと違って自分の体は早起きというものを実行してしまっていた。物を考えるのも不安で仕方なかったので、気は進まないが早めの登校と相成った。
相成った、のだが、僕の早起きや早い登校自体が非日常であるというのに、さらに追い打ちをかけるようにして、これだ。ニノマエさんの登校も早かったようなのだ。
まだ教室の中にいる生徒はまばらで、片手の指で数えられるほどしかいないが、だからこそ彼女の態度は彼らの目を強く引いていた。
勘弁してくれ、と思うものの自業自得なのだ。
目の前のニノマエさんは、簡潔な言葉の中に、可愛らしい不機嫌さを孕んだ声色で訊ねてくる。
「昨日はどうして屋上に来なかったの」
僕には答えられない。
質問というよりは詰問だ。
彼女の責めるような視線を浴び続けることしかできない僕は、冷や汗だかなんだかよくわからない水分を生み出し始めていた。
周囲の級友たちには聞こえないように小声だったのが、せめてもの救いだった。
僕にニノマエさんが納得するような、いやそれ以前に自分が納得できるような理由があったのなら、彼女の問いにも、幾分かの見苦しい申し開きすることくらいできただろう。
が、できない。
何しろ理由がないからだ。
いや理由はあるにはある。が、それは自分をしても、理由とは呼べないものだった。
僕は、ただ逃げただけだった。
――真似事をしていたら、本物が飛び込んできた。
ニノマエさんは柵なんて、境界なんてはじめからなかったみたいに飛び越えてきた。
僕にはそれが怖かった。それ以外の理由はない。ただ、理由にならないような理由で、「なんとなく行きたくなかった」から逃げた。
それを話したところで、ニノマエさんは納得しないだろう。そもそも、僕自身理解できていないのだから。
非日常があっちの方からやってきたので、怖くて逃げました。
……駄目だ、どう好意的に解釈しても気違い以上の評価を得られるとは思えない。言えるはずもない。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
あと三点リーダを何回かセルフサービスで足しておいてくれ。結果は変わらない。視線を投げる彼女と、視線のキャッチに失敗した僕。目線を上げられないので、どうしても机とにらめっこ大会を開催する結果に。
うぅむ、敗色濃厚だ。
先程のように詰問でもいいから喋ってくれれば、無言よりも気分は楽かもしれない。背筋に冷たいものが流れる心地がした。
第一回人類対無機物にらめっこ大会がサドンデスに入った頃に、ニノマエさんが口を開いた。依然として目は憤りを秘めたままだったが、半分諦めの色も混ざっている、ように見える。
「わかった。今日の放課後こそは来てよね」
「……はい」
心中で随分と失礼でいい加減なことを考えている自覚はあったので、素直に返事をした。そうすることで彼女が簡単に認めてくれるとは到底思えなかったが、たとえ相手が赦しを与えることがなくとも、誠意を見せるのが人間という社会性動物の礼儀なのである。
しかし。
それだけで彼女の強い感情はほとんど消え失せてしまったようで、普段の柔和な表情に戻っていった。まるで最初の位置に戻ったみたいに、いつも横顔で見ている柔和な顔をしたニノマエさんが、目の前にいた。
不思議だった。
怒りとか憤りとか、そういうものがなくなってしまったように見えるが、それはつまり、僕を赦してくれたということにならないだろうか。
どうしてそんなに簡単に人を赦してしまえるのか。
不思議で仕方なかったので、僕は口もきけずに目を丸くしていただけだった。
すると登校してきたらしいクラスメイトの女子が数人やってきて、ニノマエさんを連れて行ってしまった。それでも僕は呆けたように不思議がっていた。
どうしてすぐに人をゆるしてしまえるのだろう。
僕と比較すること自体が大間違いであるとわかっているが、それでも自分と比較してしまう。いや、自分と比較しなくたって、ニノマエさんの感情リセットは不思議に思える。
人間、そう簡単に人を許容することなんかできないのだ。
感情は強い。感情の中にも強弱はあれど、感情とカテゴライズされるものは、人の心を強くゆすぶり、左右させる。
怒りでも悲しみでも喜びでも。
プラスにしろマイナスにしろ。
思考より感情の方が、圧倒的に強い。
思考は感情に勝てない。
十七年しか生きていない僕だけれど、これまで人間として生活を続けてきて、感情とはそういうものだと理解していた、つまりだ。他人を観察して比較して、他人も僕と同じなのだと理解して納得してきた。納得できるだけの経験がいくつかあった。
それでも、彼女が既に負の感情を失くしたみたいに、捨てたみたいに、笑顔とプラス面へすぐに戻っていったように見えたのは、何だったんだろう。
ぼうっと考えていると、クラスメイトが続々と入室してくる。ああ、電車通学組かとぼんやりする。彼らが入室してくる時間とタイミングは毎日変わることがない。卒業するまで、ずっと変化はないのだろう。
習慣とは日常である。しばらくするといつものように担任が入室してきた。すぐに日常の開始を告げるだろう。
ニノマエさんと朝から会話を交わしたということを除いて、僕の日常で変化したものは何もない。
非日常もいずれは日常の波へと呑まれ、埋没していく。
だからか。
ニノマエさんの感情についていくら考えても、何もわからなかった。
――そもそも彼女の感情は、本当に「怒り」にあったのだろうか?
******
ぼんやりとした疑問を胸の中に抱えたまま放課後を迎えた。
僕は非常に珍しいことに、勉強会へと出席した。数日前に見かけたあれだ。
自分のことだからこそ言うが、僕はそれほど勉強熱心な人間ではない。勉強は好きでも嫌いでもない、試験などの必要に応じてやる程度で、いわば、「普通」だった。
勉強会になんか、参加しようと思わない。思わなかった。
ただ、屋上へと向かう重い足取りの途中で、恰好の「逃避場所」を見つけただけだった。
初めての参加を、飛び込みでしてしまうほどに逃避したかった。
逃避の理由。
屋上でニノマエさんに会いたくない。
それだけだ。
けれど僕は平凡でとても弱い人間なので、そんな小さな、なんてことのない出来ごとでも、逃げたくなってしまう。
廊下からちらりと見えた勉強会は、僕にとって格好の逃げ場所だった。どうしようか足を止めていると、教師から早く入りなさいと催促されたことも、僕の背中を強く押した。
会はクラスを問わずに参加が可能なので、参加していた生徒は、あまりなじみのない顔ぶれだった。皆まじめそうな連中で、どうにも僕がそこにいることに違和感を感じずにはいられなかった。
けれど、やっぱり、今すぐ屋上へ向かうよりは、心の準備ができそうだと思った。
しかし、いくら時間をかけて心を整えようと思っても、そう上手くはいかないものだった。落ち着く為の時間を作ったために、逆に彼女と会うことが恐ろしく感じられるようになってしまったのだ。
全く勉強会の内容に集中できないまま時間が過ぎ、教師が解散を告げた(手の空いている教師が講師を務めるのだ)。
教師から課題のために配布されたプリントを眺め、座ったままぼうっとしていた。周囲の生徒たちは次々と退出していく。各々部活動や、あるいは帰宅に急ぐのだろう。
彼らと同じように帰りたい気持ちに支配されかけるが、今日も逃げるわけにはいかない、よな。
勇気を出せ、と心中でつぶやく。勇気の出し方も、勇気という不定形のものがどこに存在するかもわからなかったが、何度も繰り返すことで、行かなければという義務感は生まれた。
心の独白を実行に移すまで、たっぷり三十秒はかかった。
最後の一人として扉を開いて、閉じ、廊下を歩き出す。
これでもまだ僕の心の大部分は行きたくないという気持ちで埋まっている。でも、今朝ニノマエさんが直々に今日こそ来るようにと伝えにきたのだから、今日も逃げだすのはたいへんよくない。
でなければ明日また彼女を怒らせる結果になる。あるいは、もう完全に失望されてしまうか。それは良くない。だって僕は彼女の純粋なファンなのだ。憧憬の対象に嫌われるというのは、避けたい。
……しかし彼女の感情の落ち着き具合を見ていると、その二つも起こり得ないのではないかという気もしてくる。
僕にとっては不可解と言っても差し支えのない行動を取ったニノマエさん。彼女のあの感情変化は、気になるところだ。
一日中考えても、平凡な僕には理解できなかった。
だから、直接訊いてみるしかない。
彼女にそれを質問する勇気が湧くかどうかは、さておき。
――気付いたらもう階段を昇り終え、扉の前に立っている。冷たい金属製のドアノブをつかみ、手慣れた操作で解錠する。いつもの、非日常へと入っていく高揚感はなかった。
結果から言うと、彼女はいなかった。
まだ来ていないらしい。僕が道草を食っていたからか、それとも昨日のように顔を見せなかったから、僕を探しに行ってしまったのか。一番現実的なパターンとしては、演劇部での活動が長引いているか。
時間は初めてニノマエさんが屋上を訪れた時と大差ない。少々早い程度、だと思う。何せ一昨日のことなので、正確に覚えているはずもない。
僕は貯水タンクの根元にある段差に腰掛ける。
「ああ、夕陽を見れば」
あの時と時間を比べられるのか、とつぶやくか、つぶやかないかの間。
背後でがちゃりと軽い音。聴き慣れた解錠音だ。
ゆっくりと扉が開く。ここでニノマエさんではない人間が乱入してきたら意外だったのだけれど、果たしてそれは一愛子だった。
「やっほ」
「……うっす」
ゆるい挨拶が飛んできたので戸惑いながらもゆるい言葉を返した。
まったく、彼女であったことは必然だけれど、彼女そのものがまるで意外性の塊だ。
「間に合った」
昨日は間に合わなかったのか、と疑問が浮かんだが、僕が逃避したことについて言及してしまいそうだったので口には出せなかった。自分の責任においてやったことについて触れられたくないというその気持ちは、とても卑しい。
やはり僕は僕のことが嫌いで仕方なかった。一生好きになれそうになかった。
これも思春期にありがちな熱病なのだろうか。
今の僕には到底そうは思えなかった。
「よしよし。今日はちゃんと来てるね」
「……まあね」
ここでごめんなさいという言葉が出てこないあたり、僕という人間は最低だった。
本当は謝りたくても、実行できない。何故だかわからないけれど、それはとても怖いことのように思えた。
いいや、ただ勇気が出なかっただけだ。僕は現実から目を背けた。
気にしていない風なニノマエさんに、甘えた。
「もう沈み始めてるねー」
ニノマエさんが金網に手をかけた。僕は意外性の塊である彼女がそのままフェンスにのぼりやしないかと心配に思ったが、流石にそこまで突拍子のない女の子ではなかった。
金網の間に手をかけた彼女は、うっとりと夕陽に見入っているようだった。
僕はニノマエさんの隣に並ぶことも憚られ(理由は押して量る必要もない)、坐したまま夕陽を眺めることにした。
夕陽は眩しくとも、目を細めるほどではない。誰の目も惹きつける優美さで、静かに沈んでゆくだけだ。
――慣れようとしていた非日常。夕陽を特等席で見ることは、慣れかけた光景だ。
そこに本物の非日常が加わっている。
ニノマエさん。
僕の憧憬と羨望と嫉妬の対象。
それを意識したとたんに僕の胸中では混沌とした感情が渦巻き始める。
「――今日も来なかったら、軽蔑してたかも」
不意に放たれた言葉にどきりとした。全体を見ていた目の焦点を、彼女へと絞る。彼女は僕のほうに振りむいていた。
今朝、ニノマエさんは負の感情を既にリセットしているように見えたのは、僕の勘違いだったのだろうか。
顔に驚きが出ていたのか、振り向いたニノマエさんは微笑んだ。
嘘だよ、と。
そのままにこにこと笑み続ける彼女を、僕は正視し続けることができなかった。視線を逸らし、目を地面に落とした。
静寂。
僕とニノマエさんの間にはよく沈黙が落ちるな、と見当違いなことを考えていた。
目をコンクリートの無機質に落としている間でも、彼女の視線を感じる。それは、冷たいものではなかった。むしろ、温かいものであるように思った。
ありがちな思い違い、かもしれない。そう思ってしまうのは、僕に自信がないからか。
そのせいもあってか、彼女の笑顔を不思議に思い、僕はつい訊ねてしまう。
「……どうして、ニノマエさんは笑ってるの?」
「楽しいからだよ」
ほとんど即答みたいな速さでニノマエさんが答えた。
――楽しい?
ニノマエさんのように華やかな、僕とは絶対的に違う、プラスの側の人間が。僕のようなマイナスでネガティヴな人間なんかと一緒にいて、楽しいわけがない。
彼女はまた、笑う。
「きみは独り言がおおいんだね」
言われてはっとする。どうやら思っていたことを口に出してしまっていたらしい。思わず口を両手で押さえた。
顔の表面温度が上昇していくのを強く感じる。
「は、恥ずかしいやつだな、僕……」
「ねえ、どうして自分のことを卑下するの?」
ニノマエさんは相変わらず柔らかに微笑みながら訊ねてくる。
それはまるで、追い打ちだった。
僕は彼女から一歩引いた位置で直視する。ニノマエさんの背後、金網の向こう側。夕陽が街の影へ、山の向こうへ逃げ込んでいこうとしていた
あと十数分もしないうちに、夕陽は絶頂を迎えるだろう。
……ああ、この場に座り込んでしまいたい。俯いてしまいたい。
でも、彼女の笑顔から目が離せない。
ニノマエさんの笑顔は、徐々に影に沈んでいく中であっても、なお輝いていた。影さえ彼女を引き立てているように思える。
彼女の瞳は静かに、僕のことを見つめていた。
やはり、目が離せない。
逃げられない。
捕らえられた。
ごまかすことが、できない。
「僕は、僕のことが、きらいだ」
だからこんな勇気の足りない、根性という成分がひとかけらも存在しない僕でも、言ってしまった。
自分しか知らないコンプレックスを、知らなかったものにしてしまった。
ずるりと喉の奥から這い出てきた感情は、一度決壊してしまうと、あとはもう全て出ていくまで止められなかった。
ただ思いつくままに、思ったことを、そのまま。
これまで生きてきた中で、もっともよく口を使ったように思う。あまりに長く話したので、口の中の水気が足りない。加えて、誰にも話したことのない、目を背けがちだったことだ。頭の中でうまく文章を作ることができなくて、たどたどしい語りになってしまった。
恥ずかしさを感じたが、ニノマエさんは黙って聞いていた。途中相槌を打ったりしながら。
彼女はまさに聴き上手といった言葉が似合った。
その途中で、夕陽は絶頂を迎えた。背に陽光を受けて、ニノマエさんが黄昏色に染まっていく。
髪を、制服を、肌を。
うまく表現できなくてもどかしい気持ちに包まれる。ニノマエさんはとても綺麗だった。
あまりに綺麗だったので、時間が止まってしまった。それまでの勢いはどこへやら、僕は沈黙していた。
夕陽の光を背中で遮って黄昏に染まる彼女の影が、僕に落ちる。
ニノマエさんはそれに気付いて振り返った。
温かい色を放ちながら、陽が沈んでいく。
もっとも美しい瞬間だった。
こちらから表情は見えないが、ニノマエさんは夕陽をじっと見つめているようだった。
感動的な光景を見、心の底から感動しているように見えた。
この屋上を、校舎を、グラウンドを、夕陽は自分の色に染め上げていった。
ゆらゆらと揺れる陽が、山の向こうに隠れていく。
ややあって、陽が完全に落ちた。
夜間活動する運動部のために、グラウンドのスタンドライトが点灯した。人工的な冷たい光がグラウンドの土を照らし出す。
黄昏色に染まっていた校舎が、薄っぺらい、青白い光に満たされた。
「…………」
「…………」
その間、僕らの会話は一言もなかった。
ニノマエさんは感動に打たれているようだった。僕も、言葉にできない感情が生まれては消えて、何かを口にすることなどできなかった。
それまで内心の吐露を続けていたせいか、今の夕陽はこれまで見た中で、もっとも綺麗なもののように思えた。何を話していたのかわからなくなるほどに、綺麗だった。
綺麗という言葉以外に適当な言葉が生まれないほどに。
しばらく沈黙が続いたあと。
彼女は僕の方に振り返った、ように思う。スタンドライトの集中砲火を浴びているグラウンドと違って、校舎の屋上には照明がない。めったに使われないから、照明の必要がないのだ。
ほとんど暗闇で、光の恩恵は小さい。ニノマエさんの顔と体の輪郭がかろうじてわかる程度である。
そろそろ帰ろうかと提案しかけたその時、ニノマエさんは静かに鞄を開いた。びびび、とファスナーを引く音がする。
黙ったまま、鞄の中から何がしかを取り出す。光に乏しいためはっきりと見えないが、小さな箱のように見えた。
彼女は箱から何かを取り出し、そして。
小さな灯りが燈った。
暗闇に目が慣れかけていたので、その仄かな灯りは一瞬、とても眩しいものに感じられた。
光を睨むようにして見つめると、正体がわかった。
ライターだ。
火を点ける道具、灯りを燈す道具。
女の子の手には似つかわしくない、鋼鉄のデザインの、ライター。銀色と灰色の中間のような色から、物々しさを感じた。
なんにせよ、彼女には似合わないもののように思える。
最初は光源のために点けたのかと思った。ライターを携行していることに対する違和感はぬぐえないけれど。
しかし、そうではなかった。
ライターの用途。
もちろん煙草に火を点すため、だ。
灯りが燈ってやっと気付いた。彼女は箱から紙巻きの煙草を取り出し、口に銜えていたのだ。
鋼鉄ライターの火をその筒に近づけ、ややあってライターの火が消えた。
代わりに筒の先に淡い光が点っている。
煙草に、火が点いている。
彼女は学校という場所で禁忌とされている行為に、なんの迷いもなく手を出した。
意外すぎて声が出なかった。
秋の冷たい風が、僕の首元を流れていった。
僕の凝視する視線に気づき、彼女がこちらを見て微笑んだ。ライターの火は消え、煙草の先端に灯るか弱い火だけが、ニノマエさんの輪郭を淡く浮かび上がらせていた。
「未成年だよ、ね?」と見当違いの言葉が口を衝いて出た。
いやあながち見当違いでもないというか。この国の法律に違反していることは明確なのだけれど、なんというかそういう注意めいたことを言いたいわけではなかった。
だから語尾になるにつれて、だんだんと声が小さくなっていってしまった。
彼女は、そうかもね、とだけ答えた。
かもねってなんだ。未成年だろうよ。
留年とか、特殊な環境や状況があって彼女が二十歳オーバーだというのなら納得できるけれど、彼女のそういったエピソードは、ファンの僕をしても聞いたことがなかった。
「ニノマエさん、何歳だったっけ」
僕がまた見当違いの質問を重ねると、十七歳だよとすぐに返ってきた。その間も彼女は筒を咥え、煙を吸い込み、吐き出していた。
屋上は少し風が強い。煙は僕には目もくれず、ニノマエさんの背後へと流されていった。
可憐な唇から吐き出される煙を見る。僕の中に感情がずるりと渦巻いた。
よくわからないけれど、これは――いや。
僕は自分の中に渦巻く感情に、なにがしかの名前をつけることができずにいた。
ただ、いともたやすく無視された校則と常識に辟易していたのは事実だった。
僕はなぜだか、自分の立っている場所が揺らいだような気がした。
どうして揺らいでいるのか、わからない。目の前で違反行為が行われているからか、と単純な理由をつけても、違和感はずっと残ったままだった。
「きみの持ってるコンプレックス――」
「…………」
ニノマエさんは器用に紙巻を指で挟み取り、口から離した。仄かな灯りが、蛍のように残像を残してすぅっと移動した。なんだかその一連の動作が様になっていた。下品さよりも、むしろ品があるようにさえ見えた。
「って言えばいいのかな。すこしだけど、わかる気がする」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
わかる、だって?
「……わかる?」
「うん」
僕には、わかると言う彼女のことがわからなかった。
「で、でも僕は」
「うん」
僕は――なんだ?
一体何を言いたいんだろう。
僕は、彼女は。
一体何を話して、何を伝えたくて、声に思想を託しているのだろうか。
僕は。僕は。僕は。
「…………」
「…………」
黙り込んだ僕を、ニノマエさんはじっと見つめていたが、やがて小さく溜め息をつくように、煙を吐き出した。
「今日はもう帰りましょう」
すっかり暗くなってしまったし、と付け加える。煙草の火が暗闇の中を踊り、消えた。
「また、明日ね」と彼女は別れの言葉を口にした。
その言葉に背中を押されたみたいに、あるいは彼女を置いて逃げるように、僕は足早に扉へと向かっていた。
ほとんど何も見えない闇の中、僕はとぼとぼと、時折つまづきながらも、帰路についた。
******
彼女は昨日、「また明日ね」と言った。
また明日ということは、また明日会おうという意思の表れだ。
それが翌日の放課後に屋上を訪れることなのではないかと、僕は考えた。
一日の授業を終えて、昨日と同じく屋上へと歩を進める。昨日と同じ道程と言えど、足取りは昨日より重たい。
何故足取りが重たいのか、自分なりに考えても、納得のいく理由は浮上してこなかった。
ただ、何度もニノマエさんが「喫煙」する場面が頭の中で再生されていた。今日も彼女は、煙草を取り出したりするのではないか、と根拠のない予感を胸に、歩いた。
癖のあるドアノブを上手く回すと、今日も簡単に開いてくれた。今日だけ開いてくれなかったりしたら助かったのに。
「何から助かったんだろう」
小さく呟きながら屋上に出た。昨日とは違って、先客がいた。当然、ニノマエさんだ。
「やっ」
こちらに気付いたようで、軽く右手を挙げて挨拶された。金網の近く、かつグラウンドからは見えない位置で、本を片手に開いている。
「……読書?」
やや考えて質問を投げた。彼女の挨拶にどう返したらいいかわからなかったのだ。自分のことながら、呆れる。
「そう。きみの真似」
真似、とは。最初に屋上で会った日――あの月曜日、片手に本を持っていたのを見られたからか。
はあ、と曖昧に返事をして、僕は少し離れた位置に座った。昨日と同じ文庫本を鞄から取り出す。途中に栞を挟んでいたので、そのページから読書を再開した。
文字の列を上から下へ。流れるように目で追いかけ、流していく。
が、頭には入ってこない。
文字を読もうと意識すれば意識するほど、文字を読むとはどういった方法で行うものなのかわからなくなってくる。
本を読むって、どうやればいいんだっけ。
「…………」
自分の意識がどこへ向いているのか、考えなくてもわかった。
ニノマエさんだ。
どうしてもそちらの方向ばかりが気になってしまう。
ちらりと見やる。
「…………」
こちらのことなど気にしていないように、読書を再開していた。
僕なんかはニノマエさんへの対応に困って、苦し紛れのように読書を始めてしまったのに。まるで僕のことなんか最初からいなかったかのように、読書を続けている。
視線に気づいたようで、ニノマエさんが顔をあげた。
「どうかした?」
「あ、えっと……」
まさか目が合うことになるとは思っていなかったので、体に緊張が走った。
何か言わなければ。別に急ぐこともないというのに、僕は思わず慌てた。こういうアドリブに弱かったり、親しくない人間と会話する度に緊張することも、僕は嫌いだった。
「なに、読んでるの」
少しスムーズではなかったが、前よりは良いだろう。話題の内容も、及第点だと思う。
ただ、もしも僕が彼女と同じ立場だったなら、読書を邪魔されたくなかっただろう、とも思う。やはり、僕は無神経で、嫌いだ。
それでも彼女はニノマエさんは、興味を抱いてくれたことが嬉しいといったようなプラスの表情を顔に表出させて、小説のタイトルを告げた。僕も知っている、SF小説だった。現代と似ていて、それでいて現代とは違う世界の、飛行機乗りのおはなし。続けて「知ってる?」と疑問を提示された。
「映画なら知ってる。淡々としてて、結構好きだったな」
僕は内心驚いていた。あれは、陰鬱な印象を受ける作品だ。ニノマエさんのような明るい人が読むとは想像できなかったが、それは僕の勝手なイメージだろう。彼女に失礼だと、そう思うことにした。
二言、三言言葉を交わして、静かに読書へと戻った。
僕も、続きを目で追うことにした。
――それから、半時間ほどが経過しただろうか。
だんだんとオレンジ色に染まる頁に気付き、手を止めた。文字を追っていた目をあげる。疲れているのか、少しだけ視界がぼやけたように感じられた。
ニノマエさんの方を見る。僕よりも先に読書を止め、『金網の向こう側』を眺めていた。
静かに、微笑んでいる。
世界に愛されている女の子。
どこまでも歪みがなくて、どこまでも澄んでいる。
まるで、純粋な毒のように。
汚く、歪んだ僕には、ソレは毒だった。綺麗で純粋で、穢れが一点もないゆえに、毒だった。
陶酔のような感覚の中にずぶずぶと沈んでいく感覚があった。彼女の横顔を見つめていると、静かに沼に引き込まれていくようだった。
夕陽はゆっくりと沈んでいく。僕には目もくれず。
ニノマエさんは――おもむろに紙巻きを取り出して、火を点けた。昨日と同じような所作だった。
僕は酔いから覚めた。
グラウンドから死角になっている場所で、彼女は煙草に火を点けている。
その姿を観ていると、どうにももやもやして仕方がない。何か他のことでも考えた方がいいのだろうか。
しばらく逡巡していると、それだけで時間は急速に進んでいく。あれだけゆっくりと時間をかけて沈んでいた夕陽も、意識が変わると一瞬だった。
「ねえ、少し考えてみたんだけど」
突然、ニノマエさんが言葉を発した。煙草の先の、仄かな灯りが、闇の中で彼女の微笑みを浮かび上がらせていた。
「自分が普通でしかないのが嫌だ、って言ってたよね」
本質を突かれて、戸惑う。
前に、自分のことをあらかた話してしまったことを思い出し、僕は赤面した。あの時のことを思い出すと、恥ずかしくなって仕方がない。思春期の子供じゃないんだから……。
現在も思春期に含まれている件については、無視することにした。
「うん。言ったよ」
僕は僕のことが大嫌いで、好きになれそうもない。どこまで行っても普通から脱却できない、中途半端な真似事しかできない――。
「だったらさ。何か始めないと、駄目じゃない?」
「……え?」
ニノマエさんの言葉によって、空白が広がった。
「何か?」
何かって、何だ?
ニノマエさんは、微笑んでいる。
「そう、何か」
できるなら。
『何か』なんて抽象的なことばじゃなくて、はっきりと言ってくれ。
そうでないと、僕の矮小で脆弱な頭脳では、理解できない。
理解を拒んでしまう。
「真似事、なんて胸を張れないようなことじゃなくってさ」
さすがニノマエさんだ、僕のリクエストに応えようとしている。
僕の内心は喜んでいるようだった。
胸が痛くて躍り出しそうだ。これを喜びと表現せずに何と言おうか。
きりきりと、ぎりぎりと。
「普通から抜け出したいのなら、抜け出そうとしないと。そうしないと、自分から『普通でいたい』と望んでるのと、おんなじだと思う」
勢い余って喜びという感情が、喉の奥から逆流しそうだった。
無心に庭を駆け回りたい衝動に駆られる。
ああ、でもここは屋上だった。
庭に出るには、飛び降りないと。
「きみが言う、世の中の『平均』――『普通』っていうのは、みんな意識するにせよ、無意識にせよ、『普通』から抜け出そうとした結果、『普通』に落ち着いてるんじゃないかな」
頭の中を、あれほど理解できなかったニノマエさんの言葉がぐるぐると巡回する。
それどころか、血液に乗って全身に巡っていくようだった。
全身が重たい。
ああ、五臓六腑に染みわたる。
いっそのこと発狂してしまいたい。
そう考えながらも、僕はずっと黙って、小さくなっていた。
結局、何もできなかった。
「だからね、きみは普通普通と言っているけれど」
ニノマエさんは続けた。
まるで僕にとどめを刺さんとするがごとく。
「きみはいま、望んでそこにいる、ように見えるの」
屋上のことを指しているとは、思わなかった。
沈黙。
沈黙。
沈黙。
沈黙。
沈思黙考。
僕は耐え難い感情の噴流を感じたが、それが僕の表面に出てくることはなかった。
胸の中で黒い液体が循環するのを感じる。しかしそれが表層に届こうとする前に、霧散してしまう。
しばらくして、ニノマエさんが、煙草の火を消した。
闇が覆った。
「帰りましょうか」
「……うん」
返事は、できたと思う。