1.僕の尋常な日常
作:宴屋六郎
チャイムが鳴って、思わず大きな欠伸が出た。
流石に教師の前でそんな失礼をするほど、僕は図太い神経の持ち主ではない。慌てて噛み殺した。
その日最後の授業だった。勉強が好きでも嫌いでもない僕であっても、いや、好きでも嫌いでもないからこそ、一日中授業を受けるという高校生の務めはそれなりに疲労を覚える。
特に今日は一週間の始まり、月曜日ということもあって、それが顕著だ。
級友たちも同様で、数学担当教師が授業終了の宣言をしていないのに、筆記用具を片付けるような音で騒がしくなった。
教師は呆れと諦めが入り混じった顔で授業終了を宣言した。そうすると僕らも起立からの礼を叩き込み、着席で締める確殺コンボを贈呈するしかない。
儀礼的な挨拶が済むと、教室の騒がしさは一気に加速する。この後簡単に清掃を行って、ホームルームを済ませて、放課後だ。部活動がある者や委員会活動のある者は自分たちのテリトリーへと急ぐし、そうでない者は帰宅するか。
僕は熱狂的な帰宅部ではあったが、今日は急いで帰るような用事も特にはない。むしろ、用事があるほうが珍しい。
友人たちは部活や委員会や、それぞれの用事があるとかで。僕は今、完全なフリーになった。
しばし逡巡。
ううむ、それなら、どうするか。
机の前を女子たち数名が通り過ぎていく。その中には、例のニノマエさんの姿もあった。楽しそうに談笑しながら、つややかな黒髪を靡かせて歩くと、ふわりと花の香りが流れてくる。
「…………」
彼女の一挙一動を目で追いそうになるのを断固とした意思で止め、元の思考に戻る。
図書室で借りた本を読書するという選択肢があるが、まだ借りた本を読み終わってはいない。もう少しで読み終わるけれど、教室で読みたくはない。教室に残って雑談する固定メンバーは、僕と仲が良いとも悪いとも言えない人たちだ。
かといって図書室で読書する気にもなれない。放課後の図書室という空間は、なんとなく間の抜けた感じがして、読書に向いていないと思う。少なくとも、僕はそう感じている。
教室でも図書室でも、読書に集中できそうにないし、さて。
帰宅したいわけでもない、教室に残りたいわけでもない……まあ、こうなると、選択肢はひとつしかない。
ふう、と軽く息を吐いて、席を立った。鞄を右手に持ち、歩きだす。
向かうは――階段だ。
二年生に割り当てられた四階の廊下を歩く。我が校は一階に職員室、ニ階に多目的教室が集中し、三階より上が生徒の使用する教室となっている。三階から一年生、二年生、三年生と学年が上がるごとに階も高くなっていく仕組みだ。
ただでさえ学校が丘の上に建てられていて坂を登るのに嫌気が差すというのに、その上年を経るごとに階段を登る量が多くなる。学年が上がる度に、皆は嫌な顔をする。
歩きながら適当に周囲を眺める。放課後となってあまり時間が経っていないというのに、人影は少ない。部活動に熱心な生徒ばかりで、感心感心。
途中で、勉強会らしき催しを行っている教室を見かけた。
自分のクラスメイトも数人いるようだった。あまり会話したことはないけれど、勤勉な人たちだ。勉強は好きでも嫌いでもないけれど、僕にはとても真似できない。
職員棟へと繋がる交差点のような角を曲がり、階段を登る。三年生に割り当てられた五階も通り過ぎ、階段を上り続ける。
先程まで人影はなかったにしても、一応背後を振り返る。
誰もいない。
誰かに見られた様子もない。
そのまま踊り場を経て壁に突き当たった。
ここから先へ登る階段はない。ただ扉の先に屋上があるのみだ。
屋上へ至るための扉はいつものように固く施錠されていた。ドアノブを軽く捻っても、途中で何かに引っかかったような感触だけを伝えてくる。
扉は常に施錠されており、 内外どちらにも内鍵が存在しない。この扉を開くためには、職員室で鍵を借りなければならない。その貸し出しされる鍵でさえも、生徒立ち入り禁止とされている場所ゆえに、教師の許可が必要であるし、そもそも許可は却下される。理由は知らない。危険だからだろう。たぶん。
しかし、僕はノブから手を離さない。捻りに少し力を加え、遊びのある上方向へ持ち上げる。引っかかりが弱まった。そのまま右方向へ捻りを強めると、若干の抵抗感はあるものの、ずるりとドアノブが回った。
鍵が開いた扉を前に押し出すと、薄暗さから解放される。傾いてきた太陽が、僕を元気の欠けた光で出迎えた。
僕は鍵が緩いことを知っていた。それはこの扉そのものが古いためか、ロックされている部分が摩耗しているからなのか、誰か他の生徒の悪戯なのか、僕にはわからない。けれど、少し前に戯れで試していたら、偶然開いてしまったのだ。
清掃当番の仕事中という間抜けた活動の最中ではあったけれど、思いもしない形で非日常を手に入れた、ような気になった。
それからというものの、事あるごとにはこの屋上を訪れている。立ち入りが禁じられている場所を独占できることは、実に気持ちが良かった。
後ろ手で静かに扉を閉めると、がちゃりという音を立てて再び鍵がかかる。扉を閉めることで自動で鍵がかかる仕組みになっているのだ。屋上から出たいときは、入った時と同じように回せばいい。
端の方にある、巨大な貯水タンクまで歩を進める。タンクの根元にある用途不明のブロックが椅子にちょうどいいのだ。
腰を下ろし、学生鞄から本を取り出す。数日前に図書館で借りた、文庫本。
読みかけではあるが、そこまで真剣に読んでいなかったので内容はうろ覚え。ぱらぱらとめくる。ああ、そういえばなんとなく僕好みではなさそうな物語だ、と思っていたんだった。それでも読書は時間を浪費するのにぴったりな作業で、行為だった。
文字の連なりを静かに目で追うのは、精緻な作業を淡々と進めているような気分になれる。特に適度に静かな場所――静かすぎてもうるさすぎてもいけない――この屋上のように、部活動に励む生徒たちの声が遠く聞こえてくる場所がちょうどいいのである。
最初はつまらないかもしれないと考えていた物語も、読み進めるうちに慣れてきた。これはこういう読み物だと割り切れば、それなりに楽しむことができそうだ。
めくったページの枚数が四十を超えそうになった頃に僕は手と目の動きを止めた。
白い紙の上に差す光の赤みが増していた。
……屋上で暇つぶし。この行為自体、何もかもが「普通」である僕にとってはなかなか特別なことだと思う。
けれど、それだけじゃなかった。
僕が立入禁止であるこの場所までやってきて、本を読んで時間をつぶすのは、この時間を待っていたからだ。
我が校は丘の上に建てられていた。小高い丘の上に、さらに五階ほどある建物。屋上は六階にあたる高さだ。田舎であるこの町ではかなりの高さを誇っている。
他に競合する高さの建物がないため、当然、街のさらに向こう側、連なる山々へと沈んでいく夕陽を拝むことができるのだ。
ただ丘の上で眺めることもできるだろうが、どこよりも高いこの場所で。
この街で誰よりも天に近いこの場所で。
綺麗な夕陽を望むことができる。
初めて屋上への侵入を果たしたときに見た夕陽は、どこまでも普通である僕にとって、とても眩しかった。
僕は自分でもコンプレックスだとわかる程度に「特別」というものに憧れを抱いていた。
それは僕がいつもニノマエさんを見つめてしまうことからも明らかだった。恋心、ではないと思う。僕の恋愛経験はごく少ないけれど、彼女を見つめていても過去のそれのように、動悸の異常などを感じないのだ。
ただ、どうしようもなく惹かれてしまう。目が自然と彼女のことを追っている。
魅力の塊であり、本人の意図せぬ魅了の塊だった。
そして今、彼女と同じように魅力を放つ夕陽は、フェンスの網目の中に在った。
四角形に交差した鉄の向こうに、夕陽が見える。それは夕陽を捕らえているようにも、網が僕を捕らえているようにも見えた。
この夕陽を直接眺めることができるのなら、もっと素敵で特別なことなんだろう。
けれど僕は、それを望まない。
身の程は弁えている、つもりだ。
これは「真似事」だからだ。
どこまでも果てしなく普通でしかいられない僕は、屋上に侵入して誰よりも高い場所で夕陽を眺めるという「非日常」に踏み込むことで、「特別」になろうとしている。
それは確かに「普通」と比べれば特別なことだけれど、外面だけを飾る、中身のないモノに過ぎないのだ。僕は特別なことを付け焼刃のようにすることで、自分が非日常側に属している錯覚に酔っているだけなのだ。
斜光が温めた体を、夜の冷たさが蝕んでいく。非日常に沸いていた胸中も冷めていくようだった。
夕陽はまだ沈みきっていないが、もはや最後まで見つめていられるような気持ちではない。帰ってしまおうか。
僕は手に持ったままだった文庫本を鞄にしまい込んだ。
立ち上がり、尻をはたいた。屋上は掃除区域ですらないため、塵がたまりやすい。そして黒い学生服は汚れが目立つ。知り合いに指摘されたら面倒だし、そうでなくとも単純に恥ずかしい。
そうして重たい思考を振り払いながら、僕は歩き出した。帰ったら今も手の中にある本の続きでも読もうなどと考えながら。
だからこそ。
だとしても。
予測できなかった。
自分が向かって歩いている扉から、誰かが現れるなどということは。
夢にも思っていなかった。鍵は確かにかけたはずなのだから。
僕は甘く見ていた。
世界に愛される彼女がここに来ようと思うのなら、ただの偶然で手に入れた僕とは違って、奇跡の偶然を、無意識に起こすことができるのだと。
「ニノマエ、さん……?」
鉄色の扉を開いて、一愛子が立っていた。
彼女は一瞬だけ驚いた顔をして、告げた。
「どーも、先客さん」
天使の微笑みとともに。
******
僕は驚きのあまり動けず、口もきけなかった。
ただ、何かを言おうと唇だけが静かに動いていたが、言葉を紡ぐことは叶わなかった。
体の中を、緊張と戸惑いが支配していた。
どうして、彼女が、ここに。
どうして気さくに僕に話しかけてくるのか。
僕はこれまで彼女と言葉を交わしたことがなかった。
正確にカウントするなら、学校の活動なんかで事務的な話をすることは何度かあった。けれど、僕にとってそれはまともに「会話した」と思えるほどのことではなくて。
いつも自然と目で追ってしまう憧れの存在。
憧憬と羨望の対象。
僕は非日常の真似事をしている中で、本物の非日常に出会ってしまったのだと直観的に理解した。
ニノマエさんは緊張している僕のことなど露知らず、丁寧に扉を閉めて歩いてくる。
風に晒されて少し乱れた長い黒髪を右手で整えながら歩く姿が美しくて、僕はさらに硬直することになった。
目が離せない。僕の視線は固定されてしまっていた。
歩く彼女が身に受ける夕陽の橙は、僕が浴びていたものと同じと思えないくらい、綺麗だった。彼女の黒髪は、明るい緋色を受けて不思議で艶やかな混沌色をしていた。
「同じクラス、だったよね?」
自信なさげな声色、ではなかった。笑みを含んだ声だ。
本当に同じクラスであるかを覚えていないというより、少し冗談めかしたような問い方だった。きっと、僕が何も答えないことに気を使ってくれたのだろう。
僕はそもそも、彼女が僕のことを記憶していたことに驚いていた。
どこまでも普通で、クラスの誰よりも平均化されて、大衆の中では絶対に目立たない存在の僕を。彼女は覚えていてくれたのだ。
「そう、だね。一組だ、っよ」
嬉しさと驚きと緊張が同時に走って、声が裏返りそうになった。
落とすような恥も外聞もないくせに、意地を張ってしまうのは僕が曲がりなりにも男性だからだろうか。それとも、彼女が憧れの存在だからだろうか。
どちらにしても、格好悪い自分を見せたくないと思って、なんとか抑えた。
ニノマエさんは僕から目を離すと、フェンスの方を向いた。先ほどよりもずっと下に位置している夕陽を見つめると、彼女の口は緩い湾曲を形作った。
彼女の表面に笑顔が生まれた。
「やっぱり、ここでならもっと綺麗に見えるって思ったんだ。わたしの予感、的中」
何事かをやり遂げたようにガッツポーズ。何がそんなに嬉しいのか、僕にはわからなくて、ただ彼女の横顔を見つめるだけにとどまった。
しかし、それも続けているうちに勝手に恥ずかしくなり、視線を外した。どこに向けるべきかわからなくて、僕の瞳は色んな場所を右往左往。
結局、彼女と同じで夕陽を見つめることにした。
既に先程まで胸の中を満たしていた、冷たい気持ちと思考はどこかにいってしまっていた。
彼女と並んで夕陽を眺めている。顔が熱いのは、照りつける夕陽のせいに違いなかった。
これは非日常だと思った。
僕がこれまで続けていた、非日常の真似事。汚い、紛い物の非日常とはまったく違った、日常ではないそれ。
何の前触れもなく飛び込んできた。
何の前触れもなく飛び越えてきた。
まるで壁なんか最初からなかったみたいに。
僕が感じていた隔たりなんか、最初からなかったみたいに。
壁を容易く飛び越えた彼女は、顔を少しだけこちらに向けた。可憐な唇を開いて、問いを発する。
「ねえ、ここって人はこないの?」
「……うん。そう、だよ」
舌が上手く回せない自分が恨めしい。吃音みたいになってるじゃないか。
もう少し気の利いた答え方をしようと言葉を探す。
けれど僕は咄嗟にセンスに溢れた言葉が浮かぶほど賢くなかった。
普通でしかない僕は、探せば探すほど言葉を失くすのだった。
「鍵、かかってたもんね」
そういえば、ニノマエさんはどうやってここに入ってきたのだろう。奇跡の偶然を起こすことが予定調和である彼女のこととはいえ、少し気になった。
普段はこちらから見つめるだけで、ほとんど会話を交わしたことのない彼女に質問を投げかけること。そんな簡単にも思えることを実行に移す勇気を持つのに、僕はたっぷり三十秒を要した。
「……どうやって、ここに来たの?」
多くの時間をかけてやっと捻りだした言葉は、飾り気のないどノーマルな質問だった。
そんなことは気にしていないようで、ニノマエさんは答えてくれた。
「演劇部で演技の練習とか、活動をしている場所を知ってる?」
よくわからない答えが返ってきたなと思った。けれど、彼女の話には続きがありそうだったので、頷くだけに留めた。首肯することは、言葉を考えて口にするよりも簡単だったから、正直助かった。
――我が校の演劇部は正面玄関入ってすぐの、「ラウンジ」と呼ばれるホールがテリトリーだ。玄関前ホールは周囲の床より階段一段ほど低く、一面畳が敷かれている。一見柔道場のようにも見えるが、学年集会などで使われる集会場としての側面が強い。
まあ、それより頻繁に使われているのは、腕白な連中の昼休み柔道ごっこなんだけれど。
玄関前ホールは、放課後は演劇部が使用していた。どうして演劇部が活用するようになったのかはわからないが、僕が入学して学校に慣れた頃には、玄関前ホールは演劇部の拠点であるという意識が定着していた。
「あのホールね、ガラスの天窓があるでしょう?」
また頷くだけの僕。
何か相槌に最適な言葉を出そうと思っても、何も浮かばない。
適当な言葉でもいいのに、それすら言葉にできなくて内心は焦れていくばかりだった。
「時々あの天窓からオレンジ色の夕陽が射し込んで、とっても綺麗だったの。でも天窓くらいの大きさだと、あんまりはっきりとは見えないから、どこか夕陽が全部見られる場所がないかなって、探してたのよね」
確かに、あのホールに設置されている小さな天窓の集まりでは、沈んでいく夕陽を最後まで眺めることはできないだろう。窓が斜めになっていても、だ。
「それで、今日思いついたの。もしかして屋上だったら、よく見えるんじゃないかって」
最上階よりももっと上の、立ち入り禁止。
「鍵、かかってなかったっけ?」
無駄な質問だと思いながら訊ねてみる。重々承知の上だったが、僕は何か語を発するという行為自体に安堵を覚えていた。
臆病者め。
「うーん、かかってたんだけど、適当にひねってたら開いちゃった」
てへっ、と追加しても違和感のないほどの無邪気さで、ニノマエさんは笑った。
「きみは?」
「え、僕?」
「鍵、かかってなかったの? 勝手に閉まるやつだったはずだけど……」
「あー……うん、僕はちょっと前に弄ってたら、偶然開いちゃって、それで……」
それで、非日常の真似事を少々嗜んでおります。
紛い物の非日常を。
いやあ僕は常々ニノマエさんに憧れておりまして。
なぁんてことを言い出すような阿呆ではなかった。僕は数多あるモブの一人であって、勇者ではないのだ。
だから物語の主人公になることもなくて。
だからニノマエさんとは違って――
「同じだね」
「え?」
思考に落ちていこうとしていた僕を、彼女の突飛もない一言が引き揚げた。
なんだって?
「同じ、偶然だね」
「…………」
違う。
僕の偶然ときみの偶然は全然違うんだ。ニノマエさん。
口を閉じた僕を見、不思議そうに首を傾けるニノマエさん。
違うんだ。
僕ときみでは何もかもが違う。
きみの偶然は、必然なんだ。世界に愛されたきみが望むのなら、世界はきみのために死力を尽くすだろう。
僕の偶然は、本当に奇跡の類で。
僕は違う違うと心中で否定の言葉を生み出しながら、口を動かすことすら、できなかった。
******
「…………」
「…………」
沈黙ではない。
時々言葉は思い出したように生まれる。それこそ彼女は何度も何度も言葉を生み出していた。
僕も何度か生み出そうとしていた。まあだいたい失敗するんだけど。
生み出されようとした言葉は、しかし、すぐに失われる。
会話だ。
会話が続かないのだ。
僕は最初に感じていたおそらくポジティブであっただろう熱は消え去り、だんだん冷たい方の汗と、気恥ずかしさによる体温上昇を感じていた。
おかしい。
いやずっと感じていたことなんだけどさ。
僕は、その、別にコミュニケーションが苦手ってわけじゃあないんだ。
高校生になって、同じ中学出身の生徒がいなくても普通に友達を作ることができたし、初めて話す人間でもそれなりに仲良くできる自信があった。深いところまではいかなくても、そこそこの仲になることは難しく感じたことがなかったんだ。
けれど、彼女を前にするとまるで駄目だった。
ニノマエさんは憧れの対象ではあるけど、普通の――いや普通ではないけれど――人間のはずだ。
なのに、なぜだか言葉を上手く生産できなくて、動揺してしまう。一体僕はどうしてしまったっていうんだ。
僕は自分のことを理解できなくて焦り、苛々し始めていた。
「明日」
これまでと同じ唐突さで、ニノマエさんが口を開いた。
「え?」
「明日も、ここにいる?」
ひと月ほど前から、何もない日はここに立ち寄ることにしていた。だから、明日も特に何もなければ、何かなければ、ここにいるだろう。非日常を日常にしてしまうのも良くない、と薄々考えてはいるが。
しかしそれでも、非日常の真似をするために、僕はまた夕陽を眺めにくるだろう。
「……いると思うよ」
今度ばかりは詰まることなく言えた、と思う。
「そう、良かった。じゃあまた明日、同じ時間ここに集合で」
は?
その時の僕はとても間抜けな顔をしていただろう。勝手に口が開いていたくらいだ。声が出なかったのは僥倖だった。表情は抜けていたに違いないが。
しかしニノマエさんはそんな僕のことなどお構いなしに話を続けていた。
「もっと沈み始める頃から見ていたいんだよね……どうせなら最初から最後まで見てみたい、なんて思わない? あっ、きみはいつも見てるんだっけ?」
何故か楽しそうな彼女である。
どうして彼女はいつも、何をしていても楽しそうなんだろう。
まるでプラスの感情しか持ち合わせていないみたいだ。そんなことはないと、思うのだけれど、今こうして目の前で笑う彼女を見ていると、どうしてもマイナスの感情に囚われた彼女を想像することが難しく感じられる。
「……ニノマエさん、部活は?」
演劇部に所属しているのなら、明日も活動しているのではないだろうか。それと、今も。部活に参加してなくていいんだろうか。
僕は昔から熱狂的な帰宅部だったので詳しくは知らないが、部活動というものは、平時はけっこう遅い時間まで練習なんかを行うものではないんだろうか。野球部やらサッカー部やらに所属している友人の話からの想像なんだけどね、これ。
「んーん、大丈夫。近くに公演の予定がないからここ最近は基礎練習ばっかりだよ」
曰く、基礎練習さえ終われば自由であり、そのまま演技の練習に励むか、各々やりたいことをやるか、あるいは臨時帰宅部と化すか自由なのだそうで。
そんな話を聞いている限りだと、文化系部活動ということもあってか、思っていたよりも比較的ゆるい部活なのかもしれない。
ニノマエさんは明日屋上に訪れるという。彼女の口ぶりから察するに、僕がその場にいることをお望みらしい。
お望み。お望み、か。
「どうしたー? 何か都合悪かったりする?」
黙っている僕を気にした風に、ニノマエさんが疑問を発した。呆けたように思考していた僕は、返事の言葉を生産していなかったのだ。当然、すぐに出てくるような代物ではない。
僕はまた時間をかけて言葉を紡ぎだした。ニノマエさんはまるで気にしていないように、ゆっくりと待ってくれていたが、その事実がさらに僕を焦らせた。
体温が上昇して、頭の中を言葉ではなく、何か得体の知れない無意識が駆け巡る。
「……ううん。大丈夫、たぶん」
結果、生まれたのは当たり障りのない言葉だ。これでは時間をかけた意味がないではないか。僕は僕に絶望した。
しかし、やはりと言うべきかニノマエさんはそんな僕でも満足げに微笑んで、喜んでくれる。微笑みだ。笑顔だ。プラスの感情、だ。
前に一度だけもらった時の高揚感とは違い、なぜだか僕は少し猫背な気分を得た。
それから。
ニノマエさんは演劇部にもう一度顔を出してから帰ると宣言したので、屋上から出て行った。屋上から出ていくというのも少しおかしな表現な気もするが。
僕も一緒に帰るものとしていたようで、その場に踏みとどまっている僕をこれまた不思議そうな顔で見ていたが、読みかけの本があるからと言うと、納得して階段を降りていった。
読みかけの本、を見る。ニノマエさんが来てからずっと右手に持っていたそれは、僕の手汗でじんわりと湿っていた。人気のある本ではなさそうなので、図書委員あるいは司書の先生に怒られることはなさそうだが、罪悪感はある。
でも、彼女の前で緊張してしまったのだ。文庫本も仕方ないと納得してくれるはずだ。
その小説を読むには、ここは光源に乏しい。すでに陽は沈んでおり、暗闇が空から落ちてきていた。グラウンドだけは巨大なスタンドライトによって照らされており、陽が沈んだ今でも野球部やサッカー部が青春の汗を消費し続けるのに余念がない。何を青春と定義するのか曖昧であるし、彼らのそれが青春だとするには少し汗臭すぎるのではないかと、関係のないことに思いを馳せた。
――正直な話。先ほどは、下手な嘘をついてしまったと思うのだけれど。本気だと思われたか、嘘だとわかって空気を読んでくれたのか。どちらにしても、屋上にただ一人残った僕という事実は変わらない。
一日中不変であろうフェンスを眺める。さっきまでニノマエさんがいて、そこから夕陽を観ていた。思い出していると、今もそこに彼女の存在感が残留しているように思えて、僕を苛もうとしているように感じられる。
彼女と会話が出来て嬉しかったのは、本当だ。
しかし、なぜだろう。僕はこの場から今すぐ逃げ出したい衝動に駆られ始めている。どころか、先刻の体の熱さを思い出そうとすると、高揚感と同時に息苦しさも感じる。
すっかり闇色に染まった屋上で、僕は考えるのをやめた。
適当な場所に放置していた鞄を拾い上げ、ビニールで加工された借り物を放り込む。
少し早歩きになっているのを自覚しながら、僕は屋上の扉を開いて校舎に戻った。
そして逃げ出すように階段を降りた。
翌日、僕は屋上を訪れなかった。