6.寸断
作:宴屋六郎
0.
あたしはおかあさんからえらばれなかったことを悔やんだことはありませんが、さきにかいたように、愛がほしかったのです。
みせかけではなく、じぶんのためではなく、純粋にあたしを想ってくれる愛がほしかったのです。
中学校のころだったでしょうか。
あたしは気づきました。
真の愛があれば、それいがいはどうでもよいのだと。
おかあさんだってもうどうだっていいのです。
ともだちだってどうでもいいのです。
あのひとたちがあたしをきらいになることなんてありえない。
あたしには才能がある。
気づいてしまえば、あとはかんたんでした。
おとうさんを得ることはそうむずかしいことではありませんでした。
あたしのカラダに興味をもつおとこのひとは少なくありませんでしたから。
さすがにほんばんまではさせませんでしたけれど、あたしの裸をみたいという人はおおかったのです。
お金をだすという人も、おおかったのです。
おとこのひとたちのひみつをにぎることも、むずかしくなかったのです。
だってあたしが電話するだけで人生がおわってしまうのですから。
ときどきいやにはなりました。おかあさんと同じことをしているのです。
家事もできず、おとこのひとをつくってはつれこみ、別れ、寄生しておかねをむしりとってすてられていく、学習能力のないいきもの。それがおかあさんだったのです。
でも、あたしはおかあさんみたいになりたくなかった。
ひとのことをシカトして、とおまわりしな虐待をするようなひとにはならないようにした。
カラダもゆるしませんでした。
でも、やっぱりおとこのひとってこわいですね。
いちど、むりやりのしかかられて犯されそうになったことがありました。
そのパパは長いあいだあたしのことを援助してくれていました。
中学校を卒業する、すこしまえだったでしょうか。
あたしをベッドにくみふせ、いいよね、いいよね、とささやきかけてきました。口からただようかわいたにおい。あぶらあせにまみれた、大きな体で、抵抗はできませんでした。
とにかくおもたくておもたくて。なにせそのパパは巨漢だったのです。
イメージトレーニングでもしていたんでしょうか。みょうにてぎわよく自分の服をぬぎ、あたしの服をはぎとりました。
あたしはとても混乱しました。動転しました。汗はとまらなかったし、なみだも出そうでした。
もっというと、もらしてしまいそうだったのです。
みをまもるつもりで、いつもポケットに忍ばせておいた、はさみ。
こどものころから愛用している、安全ばさみ。
そのきたならしい、黒ずんだ性器を、いよいよそうにゅうされそうになったとき。あたしは力をゆるめてキスをせがみました。あばれるのをあきらめたとみたパパは、力をゆるめました。そのすきをついて、あたしははんげきしました。
はさみのメンモクヤクジョ、です。
そのときのあたしはできると思ったのです。その可能性があるとおもったのです。
ふしぎなカクシンがありました。
はさみは、きりとるものです。
なにをきりとったかというのは、ここにはかかないでおきます。
とにかく。
その日からあたしはいろんな物を切り取ることができるようになりました。
これで縁をきることはたいへんらくになりましたけれど。
だからといって、あたしのねがいがかなうわけではありませんでした。
愛をみつけることとはべつなのでした。
あたしのことをおもってくれるひとは。
みつかるのでしょうか。
そうおもっていました。
そのときは。
失望奇譚集――憐曖奇談6
*******
1.
『その時』は今日訪れるのだという確信めいたものがあったので、僕は観夕に嘘をついた。
「来週月曜日はまた休みみたいだよ。どうやら警察屋さんがまた捜査したいことがあるとかで、休日になるみたいだ。まったく僕ら勉学に励む生徒の学び舎をそうなんども奪ってほしくないものだね」
「そう」
「霞に聞いたから間違いないよ」
先週金曜日のことだった。
――霞霧子と言えば、先日の『嫌われない』悩みと選ばれない悩みと選んでいない悩みのことを思い出すけれど。
基本的には善良な女子高校生だった。
女子としては短めの髪、大きな目、すらすらと動く舌に不快でない声、それに笑顔。爽やかな女。
誰からも嫌われないと自称する彼女は、僕の目をしても、やはり誰からも嫌われていなかった。
僕も彼女のことは嫌いではなかったし、皆人や観夕、先輩Aや部長サンその他部員一同だって彼女のことを嫌っている様子はなかった。
しかし彼女の言う通り。
霞霧子が皆人以外の誰かと一緒につるんでいる姿は見たことがなかったし。
霞霧子がいない場で霞霧子の名が出てくることもなかった。
誰からも嫌われず、ヘイトを稼がず。
その代わりに、誰からも好かれない。
良い人だから。彼女に好意を抱かずとも済むから。
ぼんやりと、曖昧に、いい人であるという印象だけを残して、気づけばいない。
静かに日常の種々にすら埋没していく。
「いいやつだったよね。そんな曖昧な記憶だけを残して、あたしは消えていく。誰の記憶にも残らないんだろうね、あたしは」
嫌われない代価だというやつなのか。
――その物語はきっと彼女の歩んできた道に起因しているのだろうけれど、しかし僕にはあまりにも関係のない物語だった。
「隠居」
己の席から出張してきた皆人累の姿を認めた。
「どうしたんだい皆人」
「霞が登校してこない」
ふむ。
教室前方黒板の上に飾られた個性のない壁掛け時計は、始業一分前を知らせている。
霞霧子という女は健康優良児なので、これほどまでにぎりぎりに登校してくるのを見たことがない。短い期間だけれど、霞霧子は誰よりも早い時間に登校しているような女子だった。
加えて、皆人が不安そうに眉根を寄せている。何かそういう節でもあったのか。あってもなくても、付き合いの長い彼が不思議そうにしていること自体が、僕を動かすのに十分な動機となった。
何か、あったのだろうか。
――皆が忘れていること、そのいち。
殺人事件の犯人はまだ捕まっていない。
皆が忘れていること、そのに。
誰もが日常に戻りつつあるけれど、誰もが気づいていない、意識していない。
同級生が、同学の友が猟奇殺人犯であっても何らおかしくないということ。
げに、この世というものは無意識の善意を頼る、無意識の信頼に拠って立っているのだなあ。
僕は席を立った。
朝課外の開始まで一分を切った現段階、級友たちは各々準備を開始している。そんな中で立ち上がるというのはとても目立つことではあったけれど。
視線の膜が形成される中、僕はすたすたと歩き、廊下に出た。
足音が背後から右へ。視界の中にも、整えられた髪の毛が目に入る。
皆人がついてきている。
なんだよ、なんてことは言わない。言えるような状況ではない。恐らく。
「伏見山さんもいないよな」
「ああ、あれは大丈夫だよ。僕が今日は休みだって嘘をついたから」
「え」
まさか本当に信じてくれるとは思わなかったぜ。観夕の方がね。
いやあでもこれで後で殴られまくるというか、半殺しにされることが確定してしまったんだなあ。男はつらいよ。
「そんなことより霞だろ。手っ取り早く靴でも確認しちゃおう」
「……ああ、その手があったか。俺、携帯に電話でもかけるのかと思ってた」
「学校内じゃ出られないだろうしねぇ」
校内での使用が禁止されているとはいえ、携帯も悪い手ではない。ただ、僕は彼女の電話番号など知らないので、その作戦の採用は皆人に任せるほかない。
んで僕らに割り当てられている昇降口までやってきたけれど。
靴はあった。霞の学籍番号のプレートには、霞が履いているローファーが存在していた。上履きではない。
「生理かな?」という最低な冗句が脳裏をよぎったけれど、皆人の存在が発声に抵抗感をもたらしてくれたので、最低野郎になることはなかった。浮かんだだけでだいぶ罪深いが。
「校内にはいるみたいだ。じゃあどうして教室にいないんだという疑問が当然湧き出てくるけれど止むに止まれぬ事情でもあるのかもしれないね」屋上で隠れて煙草を吸うとか。イメージじゃないし人を貶める冗句は最低だからやめよう。
「電話も出ねえな」
電話に出んわってか。これも笑えない冗句だ。
「校内探索旅行にでも赴くとしよう」
その場から立ち去ろうとする僕を、皆人がじっと見つめているのに気づき、僕は足を止めた。
「なんだよ」
「ああ、いや――隠居がそんなに友達思いな奴だとは思わなかった。もっと冷徹で、俺らのことなんてどうでもいい奴なのかと思っちまってたよ。勘違いしてた。ごめん」
目を閉じ両手を合わせ。
あまりにもわかりやすい謝罪の姿勢を取る皆人。
「俺と霞って似てんだよ」
ああ、まあ。それは霞の方からも聞きましたね。
「魂が似てるっつーかな。恥ずかしい言い方になるけどさ。人から嫌われることもなく、善良で、誰の記憶にも残らないのに、善良なままでいられるいいやつなんだ、あいつは」
俺とは違って、と皆人は言った。
ふうん、へえん、ほほおん。
「俺はみんなから好かれる。あいつは誰からも嫌われない。俺はみんながみんな俺を好きになるから、好意を抱いて厚意に預かることができるから、ひねくれた人間になった。でもあいつは、嫌われなくて、好かれることもないってのに、善良なままでいられるんだ」
なんというか。
なんというかさぁ。
「あいつは――不幸になっちゃいけない」
なんだよお前ら。
結婚しやがれってんだ。
などという感想を抱きながらもここは黙っている方がかっこいいっぽいので僕は寡黙な男を演じてみる。
探すのなら――霞に関わりのある場所か。お手洗いという可能性を捨てきれないけれど、そこは僕ら男子が入っていい場所ではないし、どの階にも備わっているので捜索が大変だ。
となると必然的に彼ら彼女らの本拠地である家庭科室が浮かんでくる。まあなんにせよ虱潰しだ。ひとつひとつあたっていけばいい。
家庭科室は水道の関係から一階の隅に位置している。本来なら自分たちに当てられている階から直接降りていくけれど、今は時間が惜しい。
だから必然的に、一年生の廊下を歩くことになる。
とっくに朝課外授業が開始されている中、教室の窓から僕と皆人に視線が寄せられることになる。けれどまあ、気にしているような事態ではない。皆人もそれはわかっているようで、足早に抜けていく。
突き当りに到着。横開きの扉、嵌められた磨りガラスが僕らを出迎えた。
校内の教室は、大抵内鍵がない。外からしか鍵をかけられない。家庭科室もその例に違わない。
「開かなかったら中には誰もいないってことだ」
密室殺人事件でもない限りは。
などと今考えるにしては物騒なことを考えつつ。
結果。
密室殺人事件ではなかった。
が。
霞霧子は死んでいた。
ばらばら殺人事件だった。
猟奇殺人事件だった。
濃すぎる血の匂い。錆と同種の香り。
家庭科室の最奥。
机の群れを抜けた向こう。
鞄を掛けるフックが並んだ壁。
意外と目に優しい赤。
いくつもの欠片に別れた体。
しかし頭は。
首と胸にくっついているのが、製作者の理解不能な意図なのか、霞であると認識させるための親切心なのか。
その顔は、見たことのない、恐怖色だったけれど。
近くまで歩き、霞霧子の死を、僕らは確認した。
どう見ても死んでいる。
皆人にもそれがわかったのだろう。
声をあげなかったのは褒めるに値する。
たとえそれが、あまりにも彼の心に衝撃を与えたがためであっても。
皆人累はその場に膝をついた。脱力したように。
不幸になっちゃいけない、か。
この状態が不幸であるかどうかはとても判定が厳しい。ちなみに隠居庵脳内議会の出した結論は「とても羨ましい」だったけれども、同じ価値を彼女に適用するわけにもいくまい。
少なくとも表情から推察するに、彼女に訪れたのは幸福な死ではなかっただろう。
「かす、み」
皆人がつぶやき、確かに意識を保っていることを確認して家庭科室を辞した。
そのうち通報なり連絡なりしてくれるだろう。
僕は再び歩く。
今度は上へ。
上へ、上へ、上へ。
三つ踊り場を経て、屋上へと繋がる扉を開く。
強い風が僕を出迎えた。乱れる髪の毛をそのままにしながら、僕はしばし散歩を続けた。
「こんなに青空でさ、死ぬにはいい日だよね。愛思ちゃん」
「せんぱい」
僕にはおよそ似合わぬ蒼穹。
振り返った先には、波佐見愛思ちゃんの姿があった。
ちょうど後ろ手に、静かに扉を閉めているところだった。
「せんぱい、どうして」
「そりゃあまあ僕は尾行されるのにも尾行するのにも慣れているからだよ。案外人は後ろを見ていないものだけれど、同じくらいの意外さで見ていたりするものなんだよ」
そして視線には質量があるんだ。
「せんぱいはものしりさんなんですね」
とてとて。
そんな擬音でも飛び出しそうなくらい軽快に、しかし危うげな足取りでこちらへと歩み寄ってくる。
その細い脚で。
二つの髪の房を、尻尾のように揺らしながら。
「先輩と霞を殺したね?」
愛思ちゃんは驚いた顔も見せない。
いつものように。
屈託のない笑顔だった。
「やっぱり、しってたんだ。せんぱいはあたまがいいから。いつ気づきました?」
「最初から、って言えればかっこいいんだけど。僕は決してかっこいい男ではなく身の程弁えているから正直に告白させてもらう。死体の写真を見た時かな」
愛思ちゃんの切断能力は『鋏』――道具に左右される。
二本の竹尺を釘でもボルトでもなんでもいいから重ねて留めれば、エックスの字になる。
支点、力点、作用点。歪に真っ直ぐな形の鋏が完成するってわけだ。
それだけ大きなものを使えば、人間の体だって一刀両断よ。
やけに断面がきれいなのは、そういうこと。《切断魔》の可能性の増幅。
綺麗にすっぱり抵抗なく切れる可能性。
その程度は写真を見た時からわかっていた。
誰がどうやったのか最初からわかっていた。ミステリーにすらならない。
やっぱりやれるやつが一番怪しいんだよ。
ただ、一点。僕にはわからないことがあった。
だからここまで来てしまった。
そういう意味では。
僕が霞を殺したのかもしれない。
「あたしはせんぱいのことが好き。諦めきれないです。でも、どうしてこんなことをしたのです?」
「何のことだろう」
「あたしを呼び出したじゃないですか。わざと一年生の廊下を通って。こんなにはやくなるとは思ってなかったです。放課後とか、もっとおそくなるくらいだと……」
ああ、まあね。
死ぬるのは早い方が良かろうと思ってね。
愛思ちゃんは僕の目の前で止まった。
ここまでくれば背中にあるものを隠し通せない。
赤と肉片で装飾された、一対の竹尺。
霞霧子を死に至らしめた、てらてらとぬめり輝く凶器。
「観覧車で」
愛思ちゃんは言う。
右手で手製の大鋏を弄びながら。
「考えさせてくれって言われたとき、泣きそうでした」
「そりゃ悪いね」
「いえ、でも、せんぱいのかんがえですから。尊重しないとだめだめです」
あたしはあたしの意思も曲げませんけど。
最近の若者にしては見上げた根性だね。たくましく生きて欲しいものだ。
「せんぱいはきっと伏見山せんぱいのことをえらぶのだと、わかっていましたから」
選ぶ。
選ぶね。
選ばれないのだと霞霧子は言った。選べないのだと皆人累は言われていた。
どいつもこいつも人を選ぶとか選ばないとか。
何様なんだか。
「僕にはずっとわからないことがあってね、愛思ちゃん。きみのことで、わからないことがあったんだ。殺人犯がきみであること、きみがどのようにして先輩と霞を殺し得たのかはわかっても、ずっとわからないことがあった」
「なんでもおこたえしますよ、せんぱい」
そう言いながらも愛思ちゃんは竹尺の端と端の距離を離す。あまりにシンプルだけれど、その形は明らかに開ききった鋏だった。
「どうして先輩を殺した。どうして霞を殺した」
きみにその必要はなかったはずだ。
あるいは僕が知らないこと――違う、わからないことが、あったのかもしれないけれど。
波佐見愛思にはあらゆる切断が可能である。
先輩Aの遺体は断面が綺麗すぎた。それこそ可能性を捻じ曲げ、増幅させたように。
霞霧子は四肢をばらばらにされていた。その断面も明らかに綺麗であった。
波佐見愛思は二人と関係のある者。どちらも同じ部活動の先輩である。
それだけの要素が揃ってしまっている。
トリックもトリックですらない。ちゃちすぎる。この娘ならもっとやりようがあったはずなのに。
先輩から採取された体液の件もある。どうやったのか、《異常》について無知で不明瞭なままであっても、警察は波佐見愛思を犯人として事件を解決することができる。
だからこそ、僕は早めに殺してもらいにきたのだし。
そして、殺人を犯す理由だけが、僕にはわからなかった。
この娘を観察していても、わからなかった。
知らないことはどうでもいい。
でもわからないことがあるのは気持ち悪いから。
死ぬ前にそれくらいは聞いておこうと思って。
ここまで来てしまった。
「なぁんだ、そんなことですか」
だったらすらすら応えますよと言わんばかりに愛思ちゃんはその薄い胸を張った。
その間も竹尺の端と端を両手に持ち、構えている。驚くほどシンプルではあったけれど、それは確かにひとつの鋏だった。
愛思ちゃんは小さく色の良い唇を蠢かせる。
「愛のためです」
波佐見愛思は。
こともなげに。
迷いなく。
衒いもなく。
単純明快にして。
理解不能なことを。
口にした。
「あなたを愛しているからです、なばりやせんぱい」
皮膚の下に虫が入り込んだかのような。
気分だった。
……は?
僕にはこの娘の言葉が。
波佐見愛思という生き物が発する言葉の意味が。
わからなかった。
「なぜ」
まとまらない頭がようやく絞り出したのは短い疑問だった。
「せんぱいはなばりやせんぱいを殺そうとおもっていたのです。だからあたしはおどされましたし、汚されてしまいました」
愛思ちゃんの言葉はひどく短く、ひどく拙い。
「かすみ先輩も……仕方なかったんです。ああでもしないと、あたしはあなたと愛のために死ねなかったから」
この娘から全てを聞き出すことは難しいだろうと、直感があった。
そう、判断した。
頭の後ろが冷えていく。
温度を失っていくのがわかる。
「愛思ちゃんは愛のために僕を殺すのか」
「はい」
「愛思ちゃんは僕のために皆を殺したのか」
「はい」
「愛思ちゃんは僕を殺して自分も死ぬのか」
「はい」
心中。
ああ、そうか。
わかったわかった。
そういうことね。
ちゃちなトリックも、殺人そのものの理由も。
先輩Aを殺した時から決めてたんだ、こいつ。
時間稼ぎさえできればよかったんだ。
この瞬間を迎えることさえできれば良かったんだ。
「せんぱい」
後輩は手製の大鋏を僕の首に差し向け、挟む。
愛思ちゃん、僕はね。
死ぬためにやってきたんだよ。
死ねない僕が死ぬために。
今日こそ死ねると思ってやってきたんだよ。
今日こそ殺してもらえると思ってやってきたんだよ。
死ぬために起きて死ぬためにご飯を食べて死ぬために掃除をして死ぬために嘘をついて。
死なせてくれると思ってこれまでいろんな準備をしてきたんだよ。
――がっかりだ。
きみには本当にがっかりだ。
心から失望した。
「愛思ちゃん、きみは大きな勘違いをしているし、間違っている――」
僕は独占欲と言い換え可能な『愛』によって生かされている。生かされ続けてきた。
その僕が愛によって死ぬわけにはいかないんだよ。
最期くらいは自分の身勝手で死ぬ。
愛なんかのために死ねるかよ。気持ち悪い。
恋も愛もくだらない。
自分の寂しさや孤独感、承認されたい認められたい肯定されたいといった心の虚無を埋めるために他人を使う。虚無感を埋めた満足感を肯定的に捉えて、それを「愛」としたいだけだ。
反吐が出る反吐が出る反吐が出る。
愛なんてない。
都合のいい言葉、気持ちのいい言葉、差し障りのない、実体の無い幻だ。
愛のために殺す?
馬鹿か。
他人のために殺す?
馬鹿が。
気持ち悪い。
気持ち悪くて気持ち悪くて死んでしまいそうだ。
――気が変わった。
今日僕はやっと殺してもらえるつもりでここまでやってきたけれど、気が変わった。
「愛思ちゃん。僕はきみのことが好きだ。付き合って欲しい」
「な、えっ」
波佐見愛思。
お前のためになんか死んでやらない。
お前のために死ぬことでお前の願いなど叶えてやらない。
お前が殺すことも許さない。お前が愛に死ぬことも許さない。
お前に偽物の愛をくれてやる。
恋も愛も存在しないと教えて失望させてやる。
「駄目かな」
「だめっ、じゃないっです! いい! とっても!」
小さな顔と紅潮させて。
慌てた波佐見愛思は、大鋏から手を離した。
竹尺は誰の首を刎ねることもなく、コンクリに落ち、からん、と間抜けに鳴いた。
殺意など失せてしまったかのように。
心中の気など失せてしまったかのように。
愛思ちゃんは腕を振り回して、飛び跳ねて、はしゃいで。
喜んだ。
「今日は」
邪悪さの欠片もなく。
異常さの欠片もなく。
普通の人たちと同じ顔をして。
欠落などないかのように。
波佐見愛思は叫んだ。
「今日は人生さいこーの日です!」
空の青が目に突き刺さる。
「そうだね」
ああ、いい日だよな。
本当にね。
了。