5.両断
作:宴屋六郎
0.
死にたい、と思ったことはないではないです。
でもひとりのまま死にたくないのです。
あたしはあきらかに、愛にうえていました。
クラスメイトたちはあたしを愛したかったのでしょう。とてもやさしくされました。
でもあたしはあのひとたちを利用する気はありませんでしたし、カレらカノジョらの欲望をみたしてあげるつもりもさらさらありませんでした。
愛にうえていましたが、それよりももっと切実にたいへんなもんだいがありました。
生きることです。
生きるためにはおかねが必要です。
さっきから書いているように、おかあさんはあたしの母親としての機能をすててしまい、ほんとうにときどきしか帰ってきませんでした。
あたし自身でどうにかするしかありませんでした。
生活費すらわたそうとしないのは、どういうことなのでしょう。あたしが死ねば、あのひとはきっと罪にとわれるというのに。
児童相談所というばしょに行こうとかんがえないわけではなかったのですが、あまりゲンジツテキじゃなかったのです。
あたしは助かります。
でもそれは愛のかくとくではないのです。
あたしは愛がほしかったのです。
失望奇譚集――憐曖奇談5
*******
1.
この場には隣人愛が足りないのかもしれない。
「あんたが殺したんでしょう!?」
木曜日の放課後。
部長サンに胸ぐらつかまれたこの状況。
もっと僕のことを慮ってほしい。冗句ではありますけれど。
しかしまあ女先輩のゆるやかな暴力を耐える方法としては、時間の流れに身を任せるくらいしかない。
「何か言ってみなさいよっ!」
現実逃避にこれまでの経緯を振り返る。
……学校が再開された。
二日ほどの空白を挟んでも犯人は見つからず。ゆえに捕まらず。
宙ぶらりんの状態でも授業は行わなければならないらしい。まあ単位を宙ぶらりんにするわけにはいかんからね。
一瞬の非日常は日常に埋没していくのだ。
学校生活の許可が出たというのにその日の家庭科部は沈んでいた。
まあ当然のことかね。
警察からの取り調べ――事情聴取を受けるというのは、世の高校生たちが得られるような体験ではない。
初めて目にした顧問の教師に言われ、家庭科室にて待機。呼び出された者から視聴覚室へ、というのが先生の指示だった。
警察屋さんを中に入れ、しかも教室を貸し出しているこの状況。生徒が一人殺されたことで動転でもしたのだろうかね。どういう仕組になっているかは知らないけれど、こういった捜査が行われるのは珍しいことだと思う。
でもまあ、ご家族友人を除けば先輩Aと関わりがあって親しかったのは僕ら家庭科部員一同なのだから仕方ないのかもね。これだけ数がいると。
僕の主観としては親しさなど微塵も感じていなかったけれど。
沈黙。
沈黙沈黙沈黙。
その異常さは霞や皆人、部長サンやその他部員一同にとってもわかるようで、僕と観夕だけがつーんといつものように態度を変えていなかった。つまりは、無だ。
あ、いや、愛思ちゃんはそのどちらでもなく楽しそうだった。いつも通りに。週末に控えた遊園地が楽しみで仕方ないらしい。同伴の僕は楽しませてやれる自信などないけれど、あれだけうきうきわくわくしているのなら勝手に楽しんでくれると呑気に考えた。
場の雰囲気を皆人と霞に代表させると深刻な顔を崩さない。休日を満喫できなかったのだろう。雨だったからな。かわいそうに。
んで、先輩Aがお亡くなりになられたことで不安と悲しみが場の雰囲気を尖らせていたのだけれど、その中で平気そうにしていたらどうなると思うかね。
特に観夕のような触れると切れそうな美少女ではなく、僕のような平々凡々とした男が平然としていたら。
まあそりゃ苛々はするだろうなと予想できる。
部長サンみたいな先輩Aのご学友であったり、感情に判断力を鈍らせられているこの状況だと。
「どうして平気な顔でいられるの!」
平気そうなのは僕だけじゃないんだけどなあ。
突如として立ち上がった彼女は、驚くほどの素早さで苛々と不安と怒りとを同時に爆発させた。ボンバーマンでもそんな器用なことはできんぜ。
この人も結構影が薄いよな、この怒りを見ているとカップルだったのかもしれない。ひゅうひゅう。と心中冗句が止まらない。
「何か言ったらどうなのよ!」
定型文にでも登録されてそうなくらい典型的な言葉。まるで現実感がない。
あまりにも夢と現の境界のような雰囲気が漂っているので、僕は眠たくなってしまった。
だからつい欠伸をしたとしてもそれは生理現象としてどうしようもないことなのだった。冗句めいているが真実なので信じてもらうしかない。
が、真実とは時に残酷なものなのだ。用法を間違えている気がするが気にしない気にしない。
「あんたねぇっ!」
まあどう言い訳したとしても僕が欠伸をした事実は消えないし、こうやって余計に部長サンの怒りを買ったのもまた真実だ。
胸ぐらをつかまれて現実逃避したところまで。
再生完了。
さてどうしようか。部長サンには僕をぶん殴るような勢いまではない。
いっそ殴ってもらった方がお互いに得だと思う。
部長サンは殴って多少なりともすっきりし罪悪感を感じることが出来。
僕は解放してもらえる。
こうやって人の視線を至近から受けるのは辛い。体に毒だ。感情が乗りすぎている。
不安の色が。
視線を受け切れないから目をそらすしかないわけだ。
うーん、何の解決にもならない。
……めんどくせえな。
言外に先輩Aのことを悼めと言ってきているけれど。
お前どうなんだ。
不安なだけなんじゃないのか。
思い出も親しみも、微塵も感じていないんじゃないのか。
つーかなんだよ、僕に平常運行を欠航しろとでも言うのか。僕がやり玉にあげられている意味がわからない。周りの部員たちも僕に怒りの視線を向けている。サンドバッグならスポーツ用品店にでも行ってくれよ。というか観夕にでもあたってくれ。僕はか弱くて、あいつは頑丈なんだから。
「隠居ー、お前からだぞー」
「あ、はい」
がらり、と家庭科室前方の扉が開き、教師の姿が見えた。
正確には顔だけ。この緊迫した空気の中、日常のように頭だけを突っ込んで僕を呼ぶものぐさぶりに笑いが出そうだ。
教師は暴行一歩手前の僕らを視認したが、青春の一ページとすることにしたようだ。すっと首を引っ込めた。
過干渉よりは良い。好ましい。
「では、行って参りますので」
「…………」
部長サンは何をどうするまでもなく、脱力したようだった。
しかしまあ。
周りの視線や感情。皆人や霞ですら僕を見つめる表情が陰っているところを見るに。
家庭科室にゃ戻れんだろうな。
解放された体は軽々動く、などということはなく、ただ惰性のように廊下を歩み、視聴覚室に到着した。
ここで佐藤さんがいたりしないかな。そうなると面白いことになりそうだし、扱いやすそうなんだけど。
期待のような薄い目論見を胸に秘めてみたり。横開きの扉を引いても、そんな理想は実現しなかった。
「こんにちは」
部屋は暗い。蛍光灯はついているが、黒い紗幕が全て降ろされていた。
人工的な光の中にいるのは二人の男性。どちらも背広姿。
壮年の男と、若年の男。
纏っている雰囲気が剣呑で、勤め人でないことは明らか。というかまあ、刑事なんだろうけど。
「どうも、こんにちは」
遅れて挨拶を返す。
若い方からの挨拶はない。その態度に、ベテランさん(命名)が不満気なのがわかる。主に寄せられた眉根で。僕がいなければ遠慮無く舌打ちをしていたであろう。
まあ、なんというか、あの刑事さんがどうして虚ろな目をしているのか心当たりがありすぎた。
主にみゃこさんのせいで後で怒られるであろう彼のことがかわいそうになるけれど、所詮は他人なので気にしない気にしない。
普段、僕らが慣れ親しんでいる学習机に大人が座しているのが面白いな。
若人の刑事さんは壁際に直立不動で立っているが、机を挟んだ向こう側に座っている刑事さんは目つきが鋭い。まさしくベテランといった感じ。短く刈り込まれた頭髪といい、刑事ドラマにそのまま出演したって違和感のない刑事ぶりだ。
「放課後に悪いね。怖いかもしれないけど大丈夫。ちょっと聞きたいことがあるから、答えてもらうね。よく思い出してね」
アリバイを確認させてらもうねとの宣言。手で僕に着席を勧めてくる。
やんわりとした言葉だけれど、こちらに拒否権を与えるつもりなどないという意思が漲っている。
張り切られても困る。僕は何もしてないからな。
実際、彼の質問には全て正しく答えられた。
そもそも僕にはアリバイがありすぎる。
養母(ということになっている)みゃこさんと観夕の二人。
家庭科部に入ったばかりで同学年でもなく、ほとんど関わりがない、圧倒的親交のなさ。
先輩Aに対して感情が動く余地がない。
それは僕が自称しなくとも、皆人や霞が証言するだろう。
よって僕はどこも怪しくない人物。冗句的にとっても善良な一般市民というわけだ。
もし僕がフィクションの主人公だったら失格だろうな。こういうときはまるで犯人としか思われないような状況に在るのがお約束だというのに。
まあいいことなんだけど。僕は物語の主人公なんかじゃない。
そもそも僕はぼくじゃないのだから。
この話題はやめやめ。現実に話を引き戻そう。
――強面の刑事は、それでも僕を疑っているように見えた。
刑事の勘、などと言い出しそうな雰囲気すらある。矢継ぎ早に出てくる質問がその印象を強く残した。
「それじゃああえて二年生から入部したのはどうして――」
「あのう」
あまりの質問ラッシュに耐えかねた僕は、つい口を出してしまう。
「なんだい」
「もしかして僕疑われてます?」
「そんなことないよ」
清々しいお顔で嘘つきますね、刑事さん。
「自分で言うのは恥ずかしいというか、こう、自意識過剰野郎みたいになっちゃうんで言いたくないんですけど、でもこの場は完全アウェーなので言わせていただきますと、僕はアリバイもあるし先輩とは本当に部活以外に何の関わりもないので、僕に時間をかけるだけ無駄だと思いますよ。それでも質問を続けられるのならばお止めはいたしませんし、誠心誠意まごころ込めて答えさせていただきますけれど」
丁寧に伝えようとしたつもりだったんだけど。
挑発と受け止められてしまったらしく、刑事さんは崩しかけた笑顔でもって答えてくれた。
「隠居くんはねえ、人を殺す目をしていると思ったんだよ」
言うに事欠いてそれかね。
ド直球すぎるわ。もうちょっと変化をつけてオブラートに包め。
「今まで見てきた連中でも、たまにそういう目をしてる奴らがいてね。よく似ている。今回は殺していないとしても、いつか殺すだろうなーっておじさんは思うわけだ」
まさしく刑事の勘って奴なのか。
まあある意味正解というか。
人は、あんまり殺したことないけどねー。
「刑部さん、論理的ではない上に彼に失礼です」
後ろに控えている刑事さんが静かに声を発した。
刑部さんと呼ばれた、ベテランさんがはっはっはと声をあげて笑った。
「怖がってくれないから冗談にならねーじゃねーか。これじゃただの失言だな。忘れてくれ」
また嘘をついている、と感じた。目が笑ってねえもん。
そうそう忘れられるかよ。
もしかするとこの後事情聴取を受けるであろう部長サンが楽しい証言をしてくれるかもしれないな。「人が殺されたっていうのに平然としていたんです、あの人!」なんつって。
《サナトリウム》のこともあって全く問題ない。仕事は面倒でもこういう時に後ろ盾が強力であるというのは便利なことだ。メリットもないので相殺されている気もするが。
「じゃあな、生意気な坊主。勉強に励めよ」
「ええ、刑事さんたちもお勤めご苦労さまです。失礼致します」
学生であることも考慮されたのか、あるいは後ろが詰まっているからか、すんなりと僕は解放された。
疲れた。学校内で剣呑な視線に晒されるのはギャップもあって疲れる。態勢が整っていなかったというか。
家庭科部には戻れないし、自分の教室にでも行って時間を潰すか。適当にほとぼりが冷めた頃に荷物をとりにいけばよかろう。
放課後を一時間も過ぎれば、ほとんど教室に生徒は残っていない。
はずだったけれど。
「霞」
「やっ」
手を挙げたのは霞霧子。僕のクラスメイト。
教室に残っているのは彼女一人だった。
「事情聴取があるんじゃ、なかったっけ。僕が最初の外れくじ引いたものだと思ってたんだけれど」
「鞄忘れたのに気づいてね。今日はもう、活動できないだろうから」
確かに。あれで調理や裁縫ができる豪の者はおるまい。
僕は霞の席から少し離れた、自分の席へと向かった。文庫本を取り出して、時間を潰そうとする。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いい?」
しかしそれを制するような霞の言葉。僕は本を机上に置いた。
世間話でもしたいのだろうか。僕は会話をする相手にしてはつまらん男だぞ。
「時間が経つまでどうせ暇だから、何なりと。答えられることなら」
「どうして笑わないの、って訊いちゃいけないことだったりする?」
おっと。
突然核心に迫ってくるとは思わなかったぜい。
そして彼女の意図もわからない。
わからないので答えてあげることにした。
「訊いちゃいけないってことはない。答えられるかどうかは別だけれど」
「それで」
「ごく単純なことで、誰にでもわかる。誰もがわかる。単純な事実だ。みんなも同様だと思うし、霞にだって皆人にだってわかるはずだ。面白いことがなければ笑えない。それだけ」
冗句でもなければ笑えない。
「正しいけど、なんか、違う」
彼女は苦笑をこらえるような顔をして言った。
僕が返せるものは沈黙のみ。
「なんていうのかな。たしかに面白いこと楽しいこと、そう思えることがなければ笑えないのはわかる。でも隠居のそれは、なんだか」
何か笑える冗句を考えてみてるけど、こういうときに限って笑えない冗句すら出てこないのはクレームをつけるべき案件だ。
「……周りの人たちが楽しそうでも自分は笑えないことってあると思う。人によって笑いのツボが違ったりするように、楽しいと面白いと思えることは人によって違うだろうから。でも自分がたのしくなくても、周りが笑ってたら多少は釣られるものじゃない。ううん、そんなことがなくても、あたしは――」
彼女が次に言う言葉がわかってしまった。
既視感。
既聴感。
何度も聞いた言葉。
「隠居が笑ったところを見たことがない」
いおりんってまるで人間じゃないみたい、ってか。
「そうか」
「仲良くなってまだちょっとしか経ってないし、何言ってるんだって思われるかもしれないけどさ。でも一日の大半を同じ空間で過ごしているのに、一度も笑顔を見たことがないっていうのは」
「…………」
僕は相変わらず黙っていることしかできなかった。
黙って聞くことしかやることがなかった。
答えられるものにしか答えられないから。
その上、彼女の言葉がとても正しいのなら。
黙るしかないのだ。
「ごめん。やっぱり訊くようなことじゃなかった。忘れて」
二回目だな、とぼんやり思う。
これには返すべき言葉が在る。
「いいよ。訊いちゃいけないことじゃない。これで損をしているのは確かだしね。でもま、慣れてる。僕とは無理に仲良くしてくれなくていいよ、霞。気持ち悪いだろうし、僕は嫌われることに慣れてる。とっても」
しかし霞はどこか喉に引っかかるものでもあったのか、小骨を吐き出すように僕の言葉を繰り返した。
「嫌われることに、慣れてる」
「さっきの部長サンのこととかね」
肩を竦めて見せたけれど、霞は自分の机に目を落としていた。
刑部さんじゃないけれどこれじゃあ冗句にならないじゃないか。
霞は短い髪を小さく揺らした。
「少し、あたしの話をしてもいい?」
「どうぞお好きなように何なりと。応えられるかどうかは別だけど。僕を物言わぬ樹木のように使うといい」
霞は、なにそれ、とくすりと笑った。
しかしまた表情を翳らせる。
「あたし、誰からも嫌われないんだ」
自慢かよ。
「そりゃ羨ましいことで。さっきも言ったように、人から嫌われやすい僕には羨ましく見える」
「あたしね、隠居が笑えないのもあたしと同じやつなのかなって思ってた。人には性質っていうものがあると思うの」
そりゃあるね。
僕らは物語って呼んでるんだけれど、霞は知ってる? 知らないよねえ。
「あたしは絶対に嫌われない。隠居の見ている以上想像している以上に嫌われない。誰からも、絶対に」
なんだか僕が思っている以上に事は重大らしい。
しかし霞の言葉が曖昧すぎて、具体的な話は見えてこない
「自慢でもなんでもなく、あたしは嫌われない。人から負の感情を抱かれない。さっきも隠居に失礼なことを訊いたよね。でも多分、隠居もあたしに悪い感情を抱かなかったんじゃない?」
「あ? ……ああ」
そういえば、たしかに。
ひたすら無だったような気がする。
そういえばこの霞霧子というクラスメイトは生徒とも教師とも別け隔てなく話し、誰かと剣呑な会話を行っている様子はなかった。この短期間と言えども、彼女に対するネガティヴな反応は見たことがない。
というか、僕がその証だ。
あれだけ最初におせっかいされて、鬱陶しいとも思わなかった僕が、いる。
「誰からも嫌われない、ね」
「多分無意識に、あたしはそうしているんだと思う」
「なんとなく言いたいことがわかってきたよ。物語……では伝わらないな。才能とでも言えばいいのかね」
「そういう言い方もあるとは思う。でもあたしは、これは――」
「あまりいいこととは考えてないみたいだな」
なんとなーくだけど。
良くない方向に転がり落ちそうな気がして、僕は遮ってみたりした。
別に優しさとかではなくて、面倒ごとになりそうだからそうしているだけ。
「そう、そうね。いいことじゃない、多分。実際いいことなんてないんだから……」
思い当たる節でもあるのか、霞は膝の間に言葉を沈めた。
自分の脚とにらめっこ大会、じゃないだろうな。絶対に勝てない戦いなのでそれだけはあり得ない。相手は真面目な話をしているってのに冗句の吹き荒れる自分に呆れ、笑うしかない。笑えないか。
それから緩慢な時間が流れ、しばらくして。
ようやく霞は言葉を絞り出した。
「誰からも嫌われないあたしだから、誰からも選ばれない」
沈黙の中からぽつりと生まれ落ちた言の葉は、彼女の連ねたものの中で最も重みを持っていた。
「選ばれない?」
それが霞にとって重大で重要なことだとはわかっていたけれど、詳しい意味まではわかりかねた。
だから間抜けみたいに復唱したとしても、仕方のないことだったのだ。
「選ばれない。平たく言っちゃえば……そうね、誰からも好かれない。誰からも決して嫌われない代わりに、誰からも好かれないみたいなの。誰かを好きになるってことは、誰かを選び、誰かを選ばないってことだよね?」
「僕に恋愛のことはわからんぜ」
なにせ恋や愛といったものが僕にはわからないのだから。
「別に恋愛じゃなくてもいいって。友達を贔屓にすることってないかな? クラスメイトより友達優先! みたいなさ。誰かに好意を抱かれること。誰かに受け入れられるということ。そういうのがあたしには欠けてる、みたいな。自分の周りを観察してみて思うんだよね。あたしは誰にも嫌われていない、誰からも疎まれていない。だけど、誰かの内側に入ることを許されているわけじゃないってね。勘違いだろうって言われたらそれまでだけどさ」
霞の言う通りだと思う部分はある。
霞が特定の誰かと仲良くしている場面を見たことがない。皆人を除いて。
女子は特に、他者と群れたがる性質があるというのに。
誰からも嫌われず、誰からも拒否されず、だからこそどこにでもいられる。
だけど、それだけだ。
ううん。でも。
僕は浮かんだ疑問をそのまま垂れ流してみることにした。
「あれだ。皆人とは仲良しじゃないか。僕にはそう見えるんだけど」
好意を抱いているように見えたし、実際そうなのだろう。
「皆人は」
霞は言い淀んだ。
彼女は淀みを霧散させる時間を起き、口を開く。
霞を払うかのように、なんつって。
「皆人は誰も選べないから」
選ばれないと言い、選べないと言う。
二つの境界に何がしかの存在が挟まっているのはわかった。
「あたしに少し似てるんだよ。皆人の場合は、誰彼構わず好かれる代わりに、誰も選べないみたい。直接訊いたわけでもないんだけどね」
皆人が誰かと恋仲であるという噂の類は聞かない。皆人ほどの容姿で、あの爽快そのものといった性格であれば恋愛の相手には困らないだろうに。
でも、だからこそ霞と皆人はぬるま湯の関係にいられるのだと思っていた。
ああ、そうか。
「一年の頃から同じグループになることが多くてさ、なんとなくわかるっていうか。似てるんだ」
選べない。
選ばれない。
二人の過去に何があったのか僕には知る由などないし、知ろうとも思わないけれど。
この二人はいっそ才能と言っても差し支えのない物語を持っているんだ。
だったら、霞の物語の原因も、皆人の物語の原因も、察することができる。
詳細はわからなくとも、なんとなくはわかる。
「霞は皆人のことが好きだから、よく観察してるから、わかるんだろう。僕はその点においては霞の言っていることが真実だと思う」
「ばっ……!」
一瞬翳りが引き、また押し寄せる。
「――そうよ。あたしは皆人のことが好き。たぶん」
青春だなぁ。
ただ、霞の内面にあるのはそういう快活なものではなさそうだけど。
「僕はかわいそうな物言わぬお花さんだからこれから喋ることはただの独り言で冗句だし、そもそも植物に人の心なんて環境なんて状況なんて内面なんて全くわからないので全く見当違いの感想だけれど」
異常なまでに前を置いて、僕は続けた。
「霞霧子が誰からも選ばれないのは、誰からも嫌われないのは、霞自身が誰も選ばないからじゃないのか。霞自身も気づいてはいるんじゃないのか。と哀れなお花は思った。それだけ」
きみたちは。
きみたちの物語は『致命的』じゃない。
僕らとは違うんだ。
僕らとは違って、きみたちの物語は因果応報なんだ。
「なばりやって、さ」
「なんじゃらほい」
「ずばずば言うよね」
「感想をさえずっただけだからね。ちゅんちゅん」
僕の言葉などくだらぬ冗句に過ぎない。僕の言葉が真実を捉えているとも思わない。
「隠居のことはたまに不気味だと思うこともあるけどさ。きっと、いいやつ、だよね」
「本人にわかるかよ。というかそういう恥ずかしいことは僕のいないところで言ってくれ。いないところでも言わないでくれ。そっと胸に秘めておいてくれ。でもまあ感謝はしないでもない。その期待に応えられるかどうかは別だけどね」
「いっつも一言二言三言くらい多いね。それが隠居らしさってやつ?」
ようやくいつもの様子を取り戻してきたようなので、僕の冗句もたまには役に立ってくれるのかもしれない。
霞はようやく家庭科室に戻る気になったらしく、鞄を持ち上げている。
「人生には一滴の冗句が必要っていうのが――僕の、モットーでね」本当は僕じゃないんだけどさ。
「どこからどこまで冗句なのやらわかんない」
それもまた、僕じゃないからとしか言いようがない。
ね、口虚歪。
「じゃ、そろそろ行かなきゃ。順番、通り越してるかもしれないし。先輩のご家族にも挨拶しに行かないと」
鞄を手に提げ、歩き出す彼女。
その表情に翳りはなく、瞳の奥には強い意思が満ちている、ようにも見えた。
何故だろうか。
その中に危うさのようなものが見えたのは。
「あたしも覚悟、決めないといけないんだろうね……」
誰にともなく零れた言葉。
僕には真意を掴むことはできなかったし、彼女は掴ませる気などないかのように足早に教室を出て行ってしまった。
恐らく自分に向けての言葉だったんだろう。
これが霞霧子の最後の言葉となった。
少なくとも、僕にとっては。
2.
週末である。
僕のいつもの週末と言えば、まあ支部での事務作業を淡々と手伝うか、仕事が入っていればそれもまた淡々と調査やら使い走りやらと仕事仕事仕事である。
あるいは現に呼び出されて遊んでやるか、そうでなければ自宅で本でも読んでいるか。
だからこうやって遊園地なるアミューズメント施設に訪れるのは、十年くらいぶりなのではないかと思う。
たとえそれがあいにくの雨だったとしても。
やはり梅雨にさしかかろうとしているだけあって、大雨からは逃れられなかった。
しかし、愛思ちゃんは大雨など些末事であるかのように楽しそうにはしゃいでいた。
「せんぱい! せんぱい! すごい! すごいですよ! あのですね! あれあれ!」
「どれか何なのかどうなってるのか一切合切わからないけどそうだねえ、すごいねえ」
一緒のバスに乗って片田舎にある遊園地までやってきたのだけれど、車中でもこんな感じだった。他のお客様のご迷惑になるので正直やめて欲しかったのだけれど、そのはしゃぎっぷりは度を越した純真無垢さを放射していた。
だから保護者の義務を怠ったとしても、誰も僕を責められるものではないのだ。
まあお客も少なかったからいいのだ。
黄色の子供っぽい合羽を着た愛思ちゃんは園内を駆け巡った。
文字通りだ。駆けた。
僕はそれについていくので精一杯だった。
どうしたらあの小さな身体の中にそれだけの元気を貯めておけるのかね。
元気の貯金ができるというのなら僕にも方法をそっと教えていただきたい。大儲けさせてあげるから。
「せんぱい! 次! 次いきましょう! ジェットコースター! だー!」
「待ちなさい待ちなさい、ちょっ、待てって。今日雨だからジェットコースター動いてねーよ!」
雨などないかのようにはしゃぐ、はしゃぐ、はしゃぐ。
はしゃいではしゃいではしゃぎまわっている。
一体なにが楽しいのやら。
合羽と長靴などという便利なものを持たず、傘とスニーカーでやってきた僕には水がつらすぎた。あーあ、靴の中びしょ濡れのぐじゅぐじゅだ、こりゃあ。
やがて昼になり、園内のフードコートに寄った。屋根がある飲食場所なので、この大雨の中訪れた物好きどもで溢れている。
僕らもその一組なのだけれど。
テーブルに座り、愛思ちゃんが持ってきたお弁当を広げた。
つい先日のショッピングで購入した食品たちが上手く……活かされて……いないような……。どこにも見当たらないというか残滓すら見覚えが、ない。
コメントは差し控えたい。
だけど強いていうなら、とても破壊的な味だった。ロックな味だった。
でもまあ、いいのだ。
指摘するのは野暮というものだろう。
家庭科部なのに、とは思うけれども。
昼食ですら美味しそうに食べ、楽しそうに笑っていたので、僕の感覚がずれているのかもしれないしね。
屋外を舞台とするアトラクションはサービス停止中で、半分ほども遊べていないのに。
愛思ちゃんはこう言った。
「今日は人生さいこーの一日です!」
こんな大したことのない遊園地なのに。
どうしてこの娘はそんなことを言えるのだろう。
僕は不思議で仕方がなかった。
僕にはこの子のことがわからない。
わからない、わからない、わからない。
「せんぱい! 観覧車乗りましょー!」
気づけば夕刻。愛思ちゃんについていくだけで必死だったので、時間を忘れてしまっていた。
ここまで来てるし、断る理由はない。本当は観覧車が苦手なんだけど。
どうして苦手だったんだっけ。高いの、苦手だったっけ。
僕は係員に案内されながら乗り込む。さすがに愛思ちゃんも合羽を脱いで、乗り込んだ。
ああ、そうだ。高さは別になんてことないんだ。
ただこの空気が。
姉と、二人で乗った観覧車だ。
外界から隔絶されたこの小空間で、姉と。
静寂の中、姉と。
何を話せばいいのか、わからなくて。
天空へと近づいていく中で、何を言えばいいのか、わからなくて。どうしようもなく困ったんだっけ。
そして今も。
愛思ちゃんは突然電池切れでも起こしたかのように、静かになってしまった。
僅かに揺れる車内。硝子に窓打ち付ける雨水。
昔のことが蘇りそうになるけれど、僕は肉体の記憶を振り払った。
誘った本人だというのにだんまりを決め込んでいる愛思ちゃん。何か適当な冗句でも飛ばそうかと思ったのだけれど……。
静かに、静かに、静かに。
しかし、そわそわと。
何かを決心しているように、俯いている。
そんな様子を見ていると、冗句が浮かんでこない。
この子は何を考えているのだろう。
僕にはわからない。
僕には。
誰も。
わからない。
愛思ちゃんは意を決したように面を上げ、言葉を紡ぎだした。
観覧車は頂上に差し掛かろうとしていた。
「せんぱい」
「うん」
「――好きです」
すきです。
すきです?
すきですか。
そうですか。
「あたし、せんぱいのこと好きです。愛してます。付き合って、ください」
僕にはわからない。
「…………」
僕は。
僕という生き物は。
霞霧子。
皆人累。
選べない、選ばない、選ばれない彼と彼女と。
「僕は」
僕は。
隠居庵は。
「考えさせてくれ」
選ばなかった。
了。