7.切断

作:宴屋六郎



0.

 本当に。
 そのときがくるだなんて思ってもいなかったのです。
 愛しいせんぱい。
 なばりやいをりせんぱい。
 あたしはこれまで生きてきた中で、だれかを愛するということは、だれかをきりすてることだと理解していました。
 あたしはあなたのためならすべてを捨ててもいいとおもっていました。
 あの息がつまるような入学式の日、あたしの目のまえにいたせんぱいは、その場をしずかにさることで、あたしを救ってくださいました。
 これまであたしの周りには対価をもとめるひとしかいませんでした。
 それがせんぱいにとってはなんでもないことであっても、せんぱいは対価をもとめずにあたしに愛のかけらをくれたのです。
 なにかをえるためには対価をしはらわねばなりません。そういうかんがえかたをかかえてきたあたしにとって、それはキセキのようなことでした。
 せんぱいはあたしを愛してくれる可能性をもつひとなのです。
 だから。
 あたしのことがほしくてしかたがなかったあのせんぱいが、なばりやせんぱいを殺すと言ったときには、どうしようもありませんでした。
 あたしはしたがうしかなかったですし、そのときに決めてしまいました。
 このカラダが汚されて、いいように扱われた、そのときに。
 性欲を発散したいだけの男に、欲望をみたしたいだけの男に、所有したいだけの男に、破られたときに。
 じゃまをするせんぱいを殺して、なばりやせんぱいといっしょに愛をとげようと。
 あたしはなばりやせんぱいのことが大好きです。
 愛しています。
 愛しているのです。

五月十八日 はさみめぐし


失望奇譚集――憐曖奇談7
*******


1.

 五月二十二日、木曜日。
 再びまるまる二日も学校が休みになってしまったので、今後は一日あたりの授業日数が放課後課外、あるいは朝課外、または長期休暇課外によって増加することになるだろう。やめていただきたい。
 先輩A惨殺事件から日が浅いうちに、霞霧子惨殺事件。
 犯人は逮捕されたので今後こういった惨劇は起きないだろうと期待されている。
 でも期待とは常に裏切られるものだったりする。期待は捨てろってか。ノーホープってか。世知辛い世の中だねえ。
 二人の生徒が所属していた家庭科部は活動停止を言い渡されてしまった。
 まあこの件に関しては仕方ないんじゃないかね。家庭科部を停止したところで何かが解決するとは思えないけれど、大抵こういう場合においては、『部活動を停止した』という行為自体が評価されるのだ。努力評価時代ってやつだね。素晴らしきかな。
 冗句ですけれども。
 活動停止した家庭科部だが――今後の僕の行動如何によっては活動停止から廃部になることもあるのだな、と両肩に乗った重みをひしひしを感じつつ。
 実際には全くそんなことなどないので、屋上の扉を軽々と開いた。
 あの日とは違い、夕暮れ。黄昏色の空。
 これはこれで死ぬにはいい日なのかもしれない。
「……よお、隠居」
「こんばんは」
 霞霧子の想い人にして僕のクラスメイトにして家庭科部を兼部とする快活な学生、皆人累。
 霞曰く、誰からも好かれ、誰も選ばない男。
 顔だけで振り返った彼は、フェンスの近くで突っ立っていた。アシンメトリーに整えられた髪が風に強く嬲られている。
 僕は彼に歩み寄る、こともしなかった。風に煽られた扉が勝手に閉まる。
 背後で爆音とも言うべき音が発生したが、やがて静寂が場を支配した。
「久しぶりと言うべきかな」
 僕にとっては二日程度の空白でも、皆人にとっては万に等しい時間を感じていたのかもしれない。彼の顔からは疲れとやつれが見て取れた。
「お前さぁ」
 だんだんと闇の権勢が増しつつあるこの場で、しかし皆人の顔は不快感に満ち溢れていることがわかる。むむ、八つ当たりの気配。
「悲しくなさそうだな」
「正直な話をするとだな。悲しさを感じることも、悲しさを感じる必要もないからね。どうやって感じたらいいのかわかんないんだな、これが」
 ぶっ壊されちゃったからなあ。
「冷めてるんだな」
「冷めてすらないのがつらいところだね」
 皆人は虚しさを鼻から吐き出した。
 尖った言葉は他人の心を突き刺すために動く。
 それはひどく醜い八つ当たりで、彼の自己嫌悪を引き出してしまう行動だろう。
 他人を傷つけることで、自分を傷つける。
 僕は痛くも痒くもないのでいいけど。
「お前にとってはそんなものだったってことか? 先輩が死んで、霞が――霞が死んだんだぞ!」
 これはなんというか、己の言葉によって怒るべき場所を思い出したかのような様子だった。
「お前は! あんな、よくわかんねえ男が学校に侵入して、暴力を振るって、逮捕されて――それでいいのかよ」
「いいんじゃない? 警察がそう判断したんなら僕らにはどうしようもないじゃないか。それが多分可能性の大きな真実なんだよ」
 フェンスの向こう側に思考を巡らしていた皆人は、こちら睨みつけた。
「そうかよ……お前もそうなのかよ」
「何に期待してたのか知らないけど僕はこうだよ」
 皆人が言いたいこともいまいちわからないしね。
 しかし次に発した言葉には驚くべきものがあった。
「本当は、めぐっちがやったんじゃないのか?」
 めぐっち。
 僕の恋人と相成った波佐見愛思ちゃんの愛称。
 ほほうほほう。
「霞は見たと言ってた。めぐっちと先輩が――してるところを見たって。そう言って先輩が死んだあと、めぐっちが『そのまま』でいること、『そのまま』でいられることが怖いと言ってた」
 まあなんだ。
 それがなければ霞が死ぬことはなかったんだなあとしみじみ思うね。
 皆人累の独白はだんだんと、自責の色を濃くしていった。
「あいつは『助けて』って言ったんだ。それまで協力してと言うことはあっても、俺を頼るなんてことはなかった。助けてなんて言うことのなかったあいつは、どうして」
 頭を抱え出す。
 それじゃあ思考の深淵に落ちていくだけなんだよ。心と体は実は密接に関係しているし、体も心と密接につながっている。
「わかってたんだ。俺はわかってた。あいつは俺を選ぼうとしたんだ。選ばなかったあいつが、俺を選ぼうとしてくれた。だってのに、俺は、考えちまった。考えたから、『少し考えさせてくれ』なんて言ったんだ」
 本当は。
 その言葉が持つ意味を俺はよくわかっていた。
 それが霞にどんな影響を与えるのかもわかっていたんだ。
「本当は」
 これが皆人累の感じているものらしかった。
 なんというかまあ後悔先に立たずって感じだ。おっと、その言葉は僕自身にも突き刺さるのでご利用は計画的に! 夏休みの宿題ですら計画的にこなせたことのない僕には無理な話だが。
「……お前は霞のことどう思ってたんだよ」
 突然矛先がこちらに向いた。
 青春の一ページかよ。相手は死んでるので意味がない。
 しかしまあ皆人累も随分と混乱してるもんだな。
「どうもこうもないんだけど。ただのお節介焼きさ」
「友達のことをそんな風に言うのか」
「友達だったのか?」
 僕と、霞が?
 いつから?
「お前のことさぁ。いいやつだって言ったけどやっぱ撤回する。お前、嫌なやつだ」
「今更気づいたのか。まあでもほら、なんだ、僕を責めるのはあまりにも楽だろうから、少し棘を返させてもらうか」
 僕は言葉を紡ぎだす。
「僕のことを欠片でも友達と勘違いし、霞のことを友達だと想い合っていたのなら」
「ああ……」
「友達だと思っていたきみこそ、彼女を助けられたんじゃないか」
 僕と彼の間に沈黙が降りてきた。
 皆人は再びフェンスの方に目を向け、遠くを見つめているようだった。
 夕陽はもう彼方にあり、周りには夜闇が溢れていた。
 下校を促す放送が聞こえる。
「俺、お前のこと嫌いだわ」
「そうかい」
 男に好かれてもな。
 それと嫌われるのは慣れてるからあまり苦痛ではない。好みの女性にも嫌われていることだしね。
「俺はどう選べば良かったんだろうな」
 それはきっと僕に向けたものではなかったけれど、僕はあえて答えることにした。
「知らんよ。僕はきみじゃないんだから。僕は選ばないしね。選べないきみと選ばない僕とは決定的に違う」
「どういう意味だよ」
 彼は相変わらず彼方を見ていた。
 ほとんど、自然に相槌を打つようなものになっていた。
「君は選ばなかったけれど、僕は選ばないんだ」
 今までもこれからも。
 僕は選ばない。
 そもそも選べない。
 選ぶ権利が、ない。
 失い、奪われてしまった。
 僕は僕のものではないんだ。
 それから再び、僕らは闇の中へと埋没していった。
 もはや皆人累の体は、夏服の白い輪郭でしかわからない。
 グラウンドのスタンドライトは消え、校内のか細い光では夜を振り払えない。屋上の電球は切れている。
 あまりにも長い沈黙の果て。
 皆人累らしきヒトの声が小さく吐き出された。
「ここから落ちたら死ぬかな」
「そりゃ死ねるだろうけれど、おすすめはしない。なにしろ死ぬほど痛いからね」
 自分の経験が蘇りかける。
 うーむ、懐かしき思い出ですな。思い出はいつも美しいのさ。僕に限っては全くそんなことないが。
「俺が」
 続く言葉はない。
 なかった。
 ただひたすらに。輪郭をおぼろげにした姿が映るのみだった。
 はっきりと見えるものではなかったけれど、それはどうも頭を垂れているようだった。
 夜に蝕まれていく世界で。
 僕はその場を静かに立ち去ることにした。
 それが彼にしてあげられる最大で、最後の行為だからだ。



2.

 この世界の人命は多少の人命をなんとも思わない異常者たちによって守られている。
 たとえば僕がそうだし、伏見山観夕もそう。あれは人命を守るという意識が存在するか非常に微妙なところだけど。
 あとはみゃこさんもそうだし。
 僕は一人で雑誌を読んでいたはずなのだけど、気づけば向かいのソファーに座してこちらを見つめていた背広の悪魔もそう。
 六分儀鬱子主任。
 無音で向かいの椅子に坐しているのが不可思議すぎるんだが。
 暗殺者か、あなたは。
 事実として暗殺者でもあるんだけどさ。
「生徒惨殺に自殺、殺人高校の奇怪。廃部となった家庭科部員へのインタビューも掲載、か」
「主任が読み上げるとシュールで面白いですね」
 僕が珈琲の肴に眺めていたのは、写真週刊誌。国民が愛する、非常に低俗な話題が跳梁跋扈する邪悪な書物である。
 ちなみに弁解させてもらうと僕が買ってきたものではない。庵さんの高校が話題になってましたよとみゃこさんが持ってきてくれたものだが、全く嬉しくない話題のなり方だった。
 嫌がらせかな?
「殺人二件に自殺一件。随分と物騒な学校に通っているな。学校生活は楽しいか、隠居庵」
「質問に至るまでの流れが嫌すぎるんですけど。胸を張って楽しいと言えないじゃないですか」
 別に楽しくもないし。
「というか、何か用でもおありなんですか。あなた身体が一つしかないのに非常にお忙しい方ではなかったんですか。こんなところで油売ってて大丈夫なんですか」
「まるで私に早く帰って欲しいように聞こえるんだが私は大人なので気づかない振りをしておいてやろう。飛行機の時間まで暇潰しだ。色々な都合が重なって不夜空港からしか出られなくなった。ついでに今回の事件を解決したお前から事の顛末でも聞かせてもらおうか」
 きっとおそらく後者が本当の用件なんだろうなあと思いつつ。
 上級監察者の肩書も持つ鬱子さんの視線に耐える。
「先達として、まず褒めてやろう。《切断魔》事件は万事解決したようだな。隠居庵のことだけはあるということか」
「買い被りですね。結局二人は死にましたし」
「誰かを死なせても解決できない連中も多い。《異常者》が関わったにしては奇跡的なほどに少ない犠牲だ。《異常者》の回収ができたというのならなおさらだ」
 まあそう言われればそうだ。
 前回の《破壊魔》のときは何人犠牲になったのかわからないくらい死んでるし、そっちのパターンの方が多いもんなあ。
 だからといって自分が有能だとは思わない。
 愛思ちゃんが若干特殊だっただけだ。
「それと訂正しようか。犠牲は三人の間違いだろう」
「先輩A、霞、愛思ちゃんの母上ですね」
「とぼけるのをやめろ。波佐見の母親は事件よりずっと以前に娘に殺されている。お前の言う先輩A、霞霧子、皆人累の三人だ」
 はて、何か勘違いをしておられる様子。
 自殺を選んだ彼は、別に愛思ちゃんの手にかかったわけではないんだけれど。
「愛思ちゃんが恋に狂った結果、先輩Aと、ある種の目撃者であった霞を殺しただけですよ。先輩は僕を出汁にして愛思ちゃんに性的暴行を加えていたようですし、その残虐極まりない殺し方もただの時間稼ぎ。警察に捕まるまでに僕と心中できればいいやってだけのちゃちな仕掛けだったので何のミステリもないはずですけど。んで、僕は愛のために死ぬのは嫌だったんで、今回も残念ながら死ねなかったわけです」
 心中したかった。好きな相手と。
 先輩Aを殺す瞬間。殺したいと思った瞬間。それを思いついた瞬間から、彼女は僕をも殺そう、殺して死のうと決心をしていた。
 一瞬にして。
 明らかな、異常。
 愛思ちゃんは《異常者》っぽくない、なんてただの幻想だった。思い込みだった。こんなにも決断的に自分を優先することができるのなら、それはもう《異常》としか言いようがない。どこからどう見ても狂っている。
 まあなんだ。
 性行為の後が一番相手の気が緩む瞬間らしいし。道具さえ用意できていれば先輩Aはさっくり殺せたんだろうな。
 霞は若干可哀想だが。
「成程よくわかった。推測の混じる部分もあるが概ね間違っていないだろう。間違えようがないほどに簡単だからな。だがお前は大事なことを語っていない」
「何か間違いでもありましたか?」
「間違ってなどいないさ。間違えようがないほどシンプルな話だったからな。お前は語っていないだけだ」
 はてさて。僕の手持ちカードは何もないんだけどなぁ。
 鬱子さんはそんな僕の事情などお構いなしに踏み込んでくる。
 ずっぱりと。

「お前、皆人累を殺したろう」

 男子高校生の飛び降り自殺。
 屋上からひょいと落ちた彼。
「いやいや、二人目が殺されるまでに《切断魔》を止めることができなかったのは僕の落ち度でしょうけれど、彼の死は僕のせいじゃないですよ。彼が勝手にやったことに対して、僕に責任を追求するのは流石に鬱子さんと言えど間違ってますよ」
 僕の指摘を、鬱子さんはくくく、と笑った。
 笑っているのに、表情は変わらない。不思議なことに、周囲の圧力が僅かに増した、ような気がした。
「おいおいおいおい。隠居庵よ、忘れている忘れているね忘れているんだよ。すっとぼけているな。お前が気づいたこと、気づかなかったこと、後に気づいたこと。都合よく話していないな。だから私にはわかる。最初から辿ってやろうか。まだ時間はある」
 あるのかよ。
 早く飛行機で飛び立ってくれ、なんて口に出せないし心の中で思うにしても読み取られていそうで怖いのでさっさと思考をシャットダウンしなければならない。
 こういうときに観夕が殴ってくれれば気絶出来ていいんだけど、あいつはアイスを買いに出かけている。たまには暴力を役立たせてくれよ畜生。
「波佐見愛思は先輩Aから性的暴力を振るわれていた。ああ、それなら波佐見愛思は部の先輩に対して殺意を抱くだろう。害を為すだろう。殺しを成し遂げるだろう。隠居庵はまずこの点から目を背けている。先輩は、どうして急に、波佐見愛思を襲ったのか。世間によくいる、物静かそうに見えるが実は内に凶暴な性質を秘めたサイコだったのか?」
「偶然のタイミングでしょう。愛思ちゃんが入学して一ヶ月ですよ。それまでに色々あったんでしょう。僕はその頃いなかったので何にもわかりませんけれど」
 わからないなー。
「わからないことがあると苛つく性質のくせにわからない振りをするな。頭を使え。曲がりなりにも生きてるんだ、私の役に立て。でないと殺す……と言っても天邪鬼なお前のことだから、私が直接教えてやるとしよう」
 はあ。
「波佐見愛思が性的暴行をされる羽目になったのも、波佐見愛思が先輩Aを切断しなければいけなくなったのも、心中を覚悟し決心したのも、全ては隠居庵のせいだ」
 お前はそれを理解しているはず、知っているはずだ。
 鬱子さんはくつくつと笑いながらそう言った。
「……いやいや、意味わかんねえっす。どうしてそうなるんですか。僕なんてぽっと出のモブキャラなのに」
「自分の思ってないところで他人の物語に出演させられていたりするものだ。それと自分の胸に手を当ててよく考えてみるんだな。誰が犯人でどうやって殺したのか、わかっていたのだろう。わかるが、わからない。確かに隠居庵はあの時そう言ったし、そういう意味だったんだろう。だが隠居庵には波佐見愛思がどうして先輩を殺したのかまではわからなかった。それはそうだ。隠居庵に他人の気持ちはわからない。なぜならお前は《異常者》だからだ」
 鬱子さんは念を押すように言う。僕に《異常者》であることを忘れないようにするために言っているようにも見えた。
「《異常者》に人間の気持ちはわからない。波佐見愛思が周囲の雰囲気を読み取ることができないように、他者に共感する能力が著しく低い。だから隠居庵は波佐見愛思に付き合った。彼女のことをわかりたくて、彼女の行動に付き合ってやった。中途半端にわからないことがあるのは死ぬほど気持ちが悪い。それが隠居庵の性質だからだ」
 これに関しては両方、否定する言葉を持たない。僕は他人の気持ちをわかったような振りをしているだけで、実際には真の意味では理解できていない。多分。
 でも、そもそも他人の気持ちを正確に慮ることができる人間などこの世に存在するのだろうか?
「最初は邪険に、それとなく離れるように扱っていたはずの波佐見愛思に付き合ってやったのは、構ってやったのは、そういうことだ。フィクションと違って現実の恋愛は都合良くなんかない。自分が好意を向けていれば相手も返してくれる? いつか誰かが自分を愛してくれる? 阿呆か。そんなことは絶対にない。この世は須らく戦争だ、勝ち取るしかない。戦死する覚悟でな」
 自分は恋愛に興味などないくせに。
 あるいはそういう時期があったのか。それなりの哲学が形成される程度には。
「好意を向けた波佐見愛思に、隠居庵が返したのはただの興味。研究者が実験対象や研究に対して抱く感情と同じだ。恋愛感情でも愛情でもなく親愛でもなく信愛でもなく、ただ冷徹にわからないものを解明したいという残酷な欲求。それに従っただけ」
「それらは否定しませんけど。だからといって僕が皆人累を殺したと言うにはちょっと話が遠すぎませんか」
「話を巻いていくか。そう時間があるわけでもない」
 とは言うものの、鬱子さんは別に急いだ様子もない。
 本当に飛行機の時間を待っている人間の態度なのだろうか、これが。
「お前の話によると、皆人累は――というよりも霞霧子は、僅かに波佐見愛思が犯人ではないかと疑っていたようだな。ある種の目撃者か。確かに、それなら殺される可能性を強く持ってしまうだろう。だがまあ、それは何も霞霧子に限った話じゃない。皆人累にしても同じことだ」
 同じく《異常者》に殺され得る可能性を持っている、と鬱子さんは続ける。
「波佐見愛思に殺されたくなくなった隠居庵は、波佐見愛思の行為と好意に報いることで、その行動をポジティブなものにした。報われない行動は徒労に過ぎないが、行動に報酬を与えれば『努力』となる。本物でも偽物でもどうでもいいが、お前は波佐見愛思の行動を『努力』とし、達成感と幸福感を与えた。波佐見愛思は幸福の内にあるために、幸福を続けるために、努力を続けるだろうということは私にもわかる」
 幸せは歩いてこないからな。
「ではその幸福を守るために想定され得る、波佐見愛思が実行する行動とは何か。波佐見愛思は言われるまでもなく極端に走るだろう。《異常者》ゆえに、皆人累を殺すに決まっている」
 今後学校生活を続けていく上で皆人累と波佐見愛思の接触はどうあっても避けられない。
 あれだけ後悔の残っている皆人累。
 情に厚い男。
 彼が真相を知るべく動くのもまた、可能性の高い行動だった。
「波佐見愛思の行動原理は『愛』だ。愛によって殺す。愛によって切る。それも隠居庵、お前自身への愛によって他人を殺し自分を殺しお前を殺す。その愛のために死ぬのは嫌だとお前は言った。だったら」
 僕は冷めた珈琲を口に含んだ。
「愛によって殺すのも嫌だろう?」
 愛のために。
 僕のために。
 隠居庵のために殺す。
 それはとてもきもちのわるいことだ。
「波佐見愛思に殺されるのは嫌。波佐見愛思が己を想って死ぬのも嫌。波佐見愛思がお前のために殺すのも嫌。少なくとも隠居庵のことが嫌いになるまで生き続けてもらわなければならないし、その間に誰かを殺されても困る。だから《サナトリウム》に保護させる。であるのならば、皆人累に対して取るべき策は限られてくる」
 自殺は、自分で決めて殺すものだ。
 自分で自分を殺す。
 誰を殺したわけでも、誰が殺したわけでもない。
 それは愛思ちゃんでもなく、僕でもない。
 皆人は。
 勝手に。
 死んだんだ。
「それで? どうだ? 正解か?」
 先程から淡々と推理のようなものを述べているだけの鬱子さん。
 姿勢も変わっておらず、その腕と長い脚を組んでいるだけだというのに、どこか内心を覗きこまれているような気分に陥る。
 僕は口を開く。
 告げる言葉はひとつしかない。
 こういう時に口にする言葉は決まっているものだ。
「証拠がありません」
「だが私はここまで辿ることができた。可能性を捻じ曲げるお前たちに、ここまでの可能性があるということを、辻褄が合うように辿ることができた」
「可能性だけで問い詰められても困りますね。そんなことを言い出したらあなただって突発的に誰かを殺すことができますし、そこいらを歩いている子供にだって殺人可能性は十分にある。全人類にあらゆる可能性が存在してしまうことになります。実際可能性そのものは存在するわけですが」
 だから証拠や確証に似た何かを必要としているのだ。誰もが。
 冗句かどうか微妙なラインだ。
 今更のように突きつけられた銃口も含めてね。
 懐から抜き出す動作が見えない、見事なクイックドローだった。僕の命は六分儀鬱子という女性に、あっという間に握られた。
 ここ一週間で三回目だぞ。
 すらりと立ち上がっていた鬱子さんに見下ろされる。銃口から伝わる力で見上げさせられる。
「我々には証拠など必要ない。私には必要ない。ただ可能性のあるものをぶち殺すだけ。それは隠居庵自身がよく理解しているはずだ」
「僕を殺してしまうとみゃこさんがお怒りになるのではないでしょうか。たぶん、きっと、おそらく、めいびー」
 心にもないことだ。みゃこさんが怒った姿など今まで見たこともないし、想像もできない。僕よりはマシとは言っても、感情に乏しい女の人だ。
 しかしまあ、僕も目の前に迫る死の予感に、冷たい汗は滲み出し、顔から血の気が引いていく。ワオ、今とっても器用なことしてるぜ。
 トリガーに指がかかってるのが一番怖いね。
「それも私には関係ない。私の意思は、院長を除く全ての権限から優先される。驕るつもりも慢心するつもりも毛頭ないが、私には他者を裁く権利がある。他人を裁く権利が与えられている。私はわたしが殺すべきだと思った命を奪うことが許されている。そして今、私はお前を殺すべきだと考えている」
 息が詰まるようだった。いや実際詰まっているのか?
 威圧感、重圧感。
 いつの間にか展開されているそれらのせいで、先程までのように自由に喋ることができなくなっている。
 決して狭くはない部屋が、独房のように狭く感じられた。
「《サナトリウム》が《異常者》を飼い慣らす条件を忘れたわけではないだろう。条件に従うのなら最低限の生活は保障する。『ヒトに危害を与えないこと』、『サナトリウムに不利益を与えないこと』。たった二つだ。この二つ、お前は守れているのか? 破っているのではないか? 破ってしまったのではないか?」
 彼女は薄紅色に染められた唇を、大きな半月形に歪めて嗤う。
 それは美しい笑みではあったけれど、獰猛な肉食獣が獲物を牙にかけたときの表情にも見えた。
 引鉄に指をかけ、笑っている。
 《異常者》を殺せる歓びを噛み締めているのだ。
 僕がこれまで何度か目にしたことのある、昏い昏い笑顔だった。
 ――あとは羽毛ほどの力を乗せるだけで引鉄は絞られ、銃口から飛び出した残忍な鈍色の死神が、僕の硬い頭蓋と柔らかな脳を食い破り食い散らし、床と壁に脳漿をぶち撒けるだろう。
 想像はひどく背筋の冷えるものだったけれど、とても心が安らいだ。
 だからなのか。
 僕の口から零れたのは「殺してください」と冗句なしに単純に純粋に混じり気なしにどこまでも透明に意図なく衒いなく気負いなく――死を願うものだった。
「殺してください」
 鬱子さんは笑みを貼り付けたままに、僕は身体を冷やすままに、時間が流れていく。
 視線が合う。
 どこまでも冷えた瞳と、燃え盛る復讐の炎と。
 どちらがどちらなのか、あるいは両方が両方なのか。
 額に突きつけられた銃口は、僕と同じ体温になっていた。鬱子さんから流れだした圧力以外には境を感じられず、まるで僕の身体の一部として最初から在ったような顔をしているようだった。
 無限にも思えるような時間を過ごした後に。
 鬱子さんが取った行動は、まず拳銃を下ろすことだった。
「やめた」
 突如として圧力が霧散した。
「ひどい顔をしているぞ」
「そりゃあ……ひどい顔をするでしょう」
「お前の懇願する顔が嫌になったわけではない。が、挑発を避けたわけでもない」
「じゃあ一体何なんです」
「もとより殺す気などなかったさ。全部冗句だ」
 笑え、と鬱子さんは言う。
 真面目な顔で、笑みの消えた顔で。
 かつての恩師からの気遣いだ、と言う。
 嘘つけ。
「……最近僕の十八番が取られすぎじゃないですかね。もっと内でも外でも表出させた方がいいんでしょうか。それだと観夕に殺されかねないんですけど」
 軽口を叩いてみるけれど切れが悪い。
 彼女の言葉を信じるならば(もっとも、信じない理由は特にない)、僕はよっぽどひどい顔をしていたのだろう。
 死を請い、終わりを恋う顔を。
「うーん、やっぱ今からでも駄目ですか?」
「私が院長のお気に入りを、指先の一本を殺すはずがないだろう? お前にはこれからも《異常者》を狩り続けてもらう。私もお前も伏見山も、もっともっと数を減らさなければならない。全部消すんだ。全部」
 全く狂いなく狂ってますよ、鬱子さん。
 六分儀鬱子は狂っていて異常だけれど、《異常者》ではない。
 真人間だ。
 ヒトだ。
 この世ってやっぱり狂ってるな、おい。
「そういえば少しだけわからないことがありまして。観夕はどうして転入してきたんでしょう? どうも愛思ちゃんの件とは関係あるようなないようなで……鬱子さん知ってます?」
「監視だ」
「愛思ちゃんの?」
「そういうことにしておけ」
 なんだかなあ。
「お前から要求があった波佐見愛思の監察は適当にしておいてやろう――ではそろそろ時間だから」
 次の仕事がある、と彼女は真面目な勤め人のように銃を仕舞い、事実真面目な勤め人として勤めを果たすために僕の隣を歩き去っていく。
 忙しい人だ。革靴を履いているというのに、音も立てないのが怖すぎるね。
「ああ、そうだ。隠居庵に渡すものがあった」
 僕が振り向く前に、右肩の向こうから何かが差し出された。
 そのまま受け取ると、それは手紙のようだった。淡い桜色の便箋に包まれている。
 くるりと回してみると、宛名らしき場所には僕の名前。差出人には波佐見愛思の名前。なんというかとても丸い文字だった。
「恋文ですか」
 らぶれたぁ。
 うへぇ。
「波佐見愛思の部屋から見つかった。読まないのか? 勘違いの、虚構の感情に過ぎないとはいえ、愛を知らないお前を愛してくれる、稀少な存在の手紙だというのに」
 心にもないことを。
「内容は大体わかりますし、僕には生涯の伴侶がいますからね」
 正確には障害の伴侶だが。
 あるいはご主人様と呼ぶべきなのかもしれない。
「不義理なことだ」
 そうですかね。
「鬱子さんは」
 そのまま訊ねてもきっと無視されただろうから。
 僕はあえて名前で呼び、彼女を引き止めた。また掘り返すのも、とても格好悪いことだとは、わかるけど。
 それでも。
「僕も、殺してくれるんですよね」
「当然だ。だがすぐには殺さない。死にたい《異常者》を望みのままに死なせても意味がない。楽になど殺してやるものか。折角自由になる位置に、手の届く範囲に《異常者》がいるというのに、楽に殺してやるものか。隠居庵は、生きたいと望めるようになったその時に、完膚無きまでに殺してやる。苦しんで苦しんで苦しみ悶えて死ね。それと」
「……何でございましょう」
「私は主任だ」
「はい、六分儀主任」
 とようやく振り返ってみたけれど、もう影も残っていなかった。
 無音。寝息のように静かな殺意の塊、のような人、だった。
 僕は溜息を吐き出した。
 肩から重たいものが滑り落ちていく。
 一度会うだけで心臓に負担がかかるわ。好みのタイプなんだけどなあ、ううむ。
 また格好悪いところを見せてしまった。
 ま、四年前から変わんないか。
 あの日あの時、助けられた、あの瞬間から。
 何も変わっちゃいない。ああいうやりとりをしていると、恩人の定義から大きくはみ出しすぎているな、とは思うけど。
 まあ恩人は恩人、恩師は恩師なんだろう。多分。
 殺されたくても、殺したくても。
「生きてるって辛いねえ」
 背中の汗がシャツを張り付かせて気持ち悪い。
 着替えて眠りたい衝動が、僕を鞭で打ち付ける。
 強い者には従え、長いものには巻かれろ。その通りにしようと思い、僕は立ち上がる。
 手に掴んだままの手紙の処理をどうしようかと一瞬悩み、決めた。
 部屋の隅に設置された屑籠に向けて、紙の包みを投げる。
 可愛い後輩の秘めたる想いを乗せたまま、便箋は宙に踊り出た。
 刹那の間だけ重力を忘れたように踊ったが、やがて急用を思い出したかのように落下する。
 手紙はどこにも届かず、床に落ち、僅かに微細な埃を舞い上がらせただけだった。
 うーん。
 ま、そんなもんだよな。


終わらない。
続く。