3.分断

作:宴屋六郎





0.

 なにもなかったのです。
 あたしとおかあさんの間にはなにもありませんでした。
 おかあさんはあたしを愛していませんでしたから、あたしはただのもの、人形としてあつかわれました。
 自分のものを、ほかのひとであるおとうさんに取られたくなかった。みにくい独占欲だけで、あたしはおかあさんに引き取られることになりました。なにがあったのかは知りませんが、おとなの事情だったのでしょう。こどもであるあたしには知りようがありませんでした。
 さてこのあとは想像しやすいでしょう。小学生にあがったあたしは、すっかりほうっておかれました。まるでおきものでした。おにんぎょうさんのようでした。
 育児放棄、といえばいいのでしょうか。あたしは所有されました。家の家具みたいに、食器棚みたいに。そこにあること、だけが重要だったのです。
 あるいはペットだったのかもしれません。ペットだったとしても、どうぶつとしてすら扱われていなかったようにおもうので、やはりおきものだったのでしょう。
 へやをいろどる装飾物。
 たいせつにするのではなく、安物の、しょうもうするもの。
 そんな気分でした。
 あたしは、ただのおきものだったのです。


失望奇譚集――憐曖奇談3
*******


1.

 まるで置物だ。
 週明け月曜日の教室を見回して思う。一人でじっと待っているせいもある。
 相変わらずクラスに馴染めるような気がしないし、馴染もうという気も起きない。つまり平常運転。いつも通り、これまで通り。
 これまでの人生通りだ。
 ただこれまで通りでないことといえば、体育の二人組作ってーがなくなったことだ。毎回あぶれた人間を探すか、適当に見つからない場所でサボるかの二択であったところを、皆人が助けてくれるようになった。
 彼は友達が多いようなので、級友たちから惜しまれている節はあったが、労力の節約という面では大いに助かる。彼からすると、罪滅ぼしなのかもしれない。
 二人組を作らないでぼうっとしているという選択肢もこれまでは存在したけれど、体育教師に問い詰められることがなくなったというのは良いことだと思う。
 そういえば今日のお昼ごはんは愛思ちゃんが作ってくれるんだっけ、と記憶を掘り起こす。だから机で所在なく待っているのだけれど。
 伏見山観夕はというと、やはり誰かに昼食を奢ってもらっているようだ。美少女は羨ましいね。
 このまま誰も来ないのであればさっさと購買にでも行ってパンでも買おう。でなければ、棚に陳列された商品たちは、腹を空かした高校生どもに駆逐されてしまうだろうことは確定的に明らかだ。
「――来ないな」
 十分ほど待っても後輩はやってこなかった。そもそもなんの待ち合わせもしていないので、愛思ちゃんがやってくること自体期待できないことではあった。では昨日のスーパーマーケットはなんだったのかと思うけれども、人には人の事情というものがある。
 それから購買部に向かったのだけれど、時既に遅し。時間切れ。パンはすべて食べつくされた後であった。
 授業が終わると、いつものように、これまでいつも通りでなかった家庭科部へと向かう。そこでも愛思ちゃんは出席していなかった。
「めぐっちは時々勝手にいなくなる。この部活は割とてきとーだし、明日には出てくるだろ」
 皆人累はそう言った。
 確かに。文化部だから、と言うと語弊があるし全国の真面目な文化部員の皆さんに対して失礼だと思うのであまり言いたくはないのだけれど、家庭科部は割と自由だ。別に大会なんかがあるわけでも参加しているわけでもないし、単に料理や裁縫などが上手になりたい、あるいは皆人のように友人と仲良くしたいだけの人間が集まっている。だから欠席に関しては届けなどいらないということらしい。
 では僕や観夕が勝手にサボって勝手に抜けても何ら問題ないのでは、とやんわり訊いたのだけれど、「それはさすがにまずいぜ」と笑われた。同好会ではなく部活として部費も出ているので、適当が『行き過ぎる』と学校の方から怒られるそうな。
 成程、世界はよく出来ている。いつものごとく冗句だ。
 パイン・サラダのために野菜を切りながらぼんやり考える。どうにも違和感が抜けない。有名な死亡フラグの品を作っているからというだけではなく。いつも見知った愛思ちゃんがいないというだけではない、ように思えるのだ。
 今日の欠席は愛思ちゃんだけではない。もうひとり欠けているような気がする。
 気がするという直感よりもむしろ、ほとんど確信に近いのだけれど、根拠がない。その誰かが思い出せないのでは、意味がない。いないのと一緒だ。
 誰からも思い出されない人間は存在しないのと同じ。世界に観測されて初めて、ソレは存在を始める。
 ……最近無条件に僕を肯定してくれる存在と面会していないので妙に自嘲的になりつつある。だがあの場はほとんど毒沼だ。触れすぎてもいけないし、そもそも壊れたいと思っている自分が自分を維持するために彼女に会いに行くのは馬鹿らしいというか阿呆らしいというか。
 そんなことせずともいつも通り、彼女が望めば勝手に足が動くだろう。
 僕は『勝手に』死ねないのだから。
 僕が缶詰のパインを取り出し硝子皿に盛り付けていると、オーブンのある方――ちょうど真逆から香ばしい菓子の匂いが漂ってきた。そういえば霞が観夕と一緒にクッキーを作るとか言っていたっけな。
 いつもの仏頂面と違って、今だけは微かに嬉しそうなのが観夕らしい。霞など周囲の女子も時折彼女の表情に見惚れている様子があるし、隣の皆人はストレートに「伏見山ちゃんって笑うとやべーな」と、殺人鬼に対し現代の若者らしい言葉を用いて称賛していた。ああ、こうやってきちんと微笑えるのに殺すときは氷みたいに冷たく殺せるのがやべーよな、マジで。
「甘いものが好きだからそういう時だけ笑うんだよね」僕とは違って。
 世間話程度に返答すると、皆人が僕に顔を向けた。
「その口ぶりからすると隠居は伏見山ちゃんのことよく知ってるみたいだな?」
 きちんと理路整然と諭すように反論を組み立てるのも面倒なので適当に冗句で流すか。
 単語や絡める話題の選択は口に任せよう。大丈夫、そうそう変な言葉は口走らないはずさ。
「付き合ってるからね」
 殺人鬼が学校生活にいるという非日常が日常と化し、多少余裕の空間が広がっていた己の器が一気に狭まった、ような。自身の中身が焦燥で満ち満ちていくのを感じる。
 やばい、反射的に冗句が出た。しかも頭の中じゃなくて口に出た。舌を動かして喉を震わせ声に出した。いかん。殺気。殺気を感じる。さすがに皆人の問いまで聞こえていなかったようだが、野獣並に勘の鋭い《殺人鬼》は自分が何か言われているということに気づいてしまったようだった。
 このまま飛び込んできて鉄拳を叩き込まれてもおかしくない。
 が、僕の予想に反して、観夕は何をしてくるわけでもなかった。怒りを鎮め、香ばしい匂いを漂わせる、焼きたてのクッキーを食み、わずかながら笑顔を漏らす。ただそれだけであった。
 ただそれだけだったからこそ、奇妙極まりなかった。
「おいおいおいおいー。隠居よぉ、それは面白い冗談だけど、もーちょっとリアリティを求めた方が面白みが増したんじゃねえかなぁ」
「……まあね。くだらない、即席の冗句さ」
 どうしたというのだろう。そういえば最近はずっと暴力行為を受けていない。反省したのだろうか? 観夕が?
 それはあり得ない。あれは他人に気を遣ったり、他人のために動くようなものではない。何か他に事情があるに違いないけれど、今の僕には持ち合わせる心当たりがなかった。放課後、みゃこさんのところに寄る予定なので、ちっと訊いてみようか。この世のすべてがわかるわけではないとわかっていても、わからないことがあるのは、やはり気持ちが悪いのだ。
 そのまま完成したパインサラダを食し、帰宅時間となったわけだが、あの観夕がなんのアクションもしないはずがなかった。これまで僕のくだらない冗句がスルーされたことはない。毎度、必ず報復があった。
「……それでこの状況なわけだけれども」
 皆人と霞が並び、僕と観夕が続いて帰宅の道を歩いていたところ。ちょうど僕の背後を歩んでいた観夕が奇襲をかけてきた。
 何の前置きもなく、何の伏線もなく、突拍子もなく。単純に、さっきはクッキー優先だったのかもしれないし、思い出して苛々したのかもしれない。
 不意打ち、バックスタブ。今回は何もないのかと訝しんではいたけれど、やはり隙を突かれた形。まあ隙なんてあってもなくても彼女にとっては同じことだ。僕にとって重大なのは、この腕に絡まった縄の方だ。
 どうやら二週間後に控えたレクリエーション大会――大縄跳びの種目で用いられるものらしい。予行演習か何かで準備されていたものが、グラウンドの端に放置されていた。
 もちろん最初から縄を使い、趣向を凝らして僕を痛めつけようなどという愉快な思考を、伏見山観夕という《殺人鬼》が持ち合わせているわけではない。そんな面倒なこと、彼女がするはずもない。
 が、背後で膨れ上がった害意に気づいた僕が、下手に逃げようとしたのがいけなかった。
「おゆるしください!」などとふざけたことを抜かしつつ、走った。背後を振り返ってはいけない。霞と皆人の間をすり抜けなければ、特に理由がたくさんある暴力が僕を襲うだろうということは、誰の目にも明らかだった。いや皆人も霞もよくわかってないみたいだったけど。
 二人を壁にして多少の時間を稼いだはいいものの、観夕特有の咄嗟の判断というかアドリブ力というか……別名獣じみた本能が、良くない方向に働いた。どうやら通学するにあたってスローイングナイフのような飛び道具を持ち歩いていないようだった。
 そんなものを使われたら僕には死しか残っていないので、ぜひともそうして欲しかったのだけれど、まあ持っていたとしても霞や皆人の目の前で使うほど彼女は馬鹿ではない。
 が、機転の利かし方が悪かった。距離を詰めるにあたって最も効率が良い手段として彼女が採用したのは、グラウンドに放置されていた縄だったのだ。
 鞭のように使えば良かったのに。足でも打ち据えてくれればよかったのに。
 大昔の西部劇に登場するカウボーイのごとく、獲物を絡めとるように用いたのだ。
 ロデオ競技などで用いられる縄は少々複雑な結び方をして縄の中に『輪』を作るものだ。もちろん縄跳びの縄で最初からそんな結び方がされているはずもない。輪を作る程度なら観夕にだってできるが、そんな時間もない。
 力任せと――あとは《殺人鬼》による可能性の改変・増幅。それと僕の物語と、現の命令による反発。
 あらゆる不幸が重なったのだろう。
 僕は走行の勢いと、後ろに引っ張られる力の拮抗を味わい、次の瞬間崩壊を感じ、「おごーっ!」と家畜動物めいた無様な悲鳴を上げて、背中から倒れこんだ。右腕にがっちりと荒縄が巻き付いていた。
「いたた……」
 グラウンドの砂のおかげか背中を強く打ったにも関わらず大きな痛みはない。が、目に砂埃が入って痛い。
 その上。
「んごご!」
 視界を硬い物質が塞いだ。力強く。
 つんと鉄臭い匂いで充満する鼻が、僅かにゴムと革の匂いを検知。女子のローファーである可能性を導き出した。状況やその他諸々の要素から推察するに、伏見山観夕が僕の頭を踏みつけている可能性が最も高い。
 というか靴底に砂と小石がくっついてて、痛い痛い痛い! ああ、動かすんじゃない!
「あのう観夕さん、もう少し力を和らげていただけないと、僕の大切なおめめが潰れてしまう可能性が」
「……どうでもいい」
 ひええ。他人の視力なんてどうでもいいとの言葉を頂いてしまった。まあ大方の予想通りなんだけど。
「それよりもきみはもう少し気を配るべきなんじゃないかなあ。そう思わない? 思うよねえ?」
「何の話」
「僕からきみのスカートの中身なんかも見えな――痛い痛いごめんって面白くない冗句を言ってごめんなさいだからぐりぐり押し付けるのやめて!」
「早く言って」
「僕からは全く見えないけど多分きみの後ろにいるであろう霞と皆人のご両人がドン引きしてるのが頭に浮かぶよ。鮮明に、くっきりと。二千万画素くらいで」
「っ……」
 顔面への圧力が引いた。
 瞼が自由になる。先ほどまで圧迫されていたので、視界がぼやけている。わあ、おそらがきれい。なんてことにはならんのだ。冗句だし、今日のお天気は曇りだ。
 だんだんと視界がクリアになってきたので、周囲の確認に努める。
「…………」
 いつもと同様無言ではあったけれど。
 頬に僅かな朱が差している。
 ううむ、やはり美少女はずるい。
 この可憐な顔で多少は皆人と霞の動揺を取り除くことに成功しているのだから。
「なんつーか、伏見山さんって結構エキセントリックなんだなぁ」
「隠居は、大丈夫……?」
 霞が心配してくれたので、僕は無事をアピールするために立ち上がる。うぇえ、背中にいっぱい砂がついてるのが、見なくてもわかる。こりゃああとで大変だぞ。
「学ラン以外は全員無事だ」
 本当は口の中に小石が入ったり踏みつけられた顔が傷んだりするがそんなものはないも同然なのだ。伏見山観夕の暴力の前では。
 さてと。
 立ち上がりはしたものの、とても大変な事態だ。観夕も目立つ行為は避けたかったのだろうか。僅かに眉根を寄せて、困り顔を作り出している。かなりレアな表情。これで伏見山観夕表情図鑑の一つが埋まったわけだ。冗談だけれども。コンプリートしても何か賞品があるわけでもなし。
 うーむ。義を見てせざるは勇なきなり。多分、使い方間違ってるけど。
「伏見山さん」
「…………」
「先ほどはとても悪いことをした。心から申し訳ないと思っている。謝らせていただきます。ごめんなさい」
「っ」
 その殺人鬼は驚愕の表情を見せた。またもレア表情をゲット。これは調子がいい。
「ぱんつを見せてくださいなんてレディに対して言う言葉じゃなかった。すみませんでした」
 九十度。直角。首を曲げることなく腰から最敬礼。なんならこのまま土下座だってしてもいい。
「な、隠居――お前、そんなこと言ったの……?」
「ああ、言った。ちょっと会話の綾ではあったけど、言ってしまったことは事実だ。調子に乗った。女の子に向けて言うようなことじゃなかった」
「最低だわ……」
「否定できない。僕は謝るしかない」
「…………」
 このまま放置しておけば、まだ知らぬ観夕の任務に支障が出る、と思われる。で、支障が出た分だけ僕があとで容赦の無い暴力に晒される。
 霞や皆人に引かれて嫌われたとしても、僕にとっては痛手ですらない。元の穏やかな生活に戻るだけの話。
 可憐で物静かで感情表現がちょっと苦手な美少女。その像が彼女にとって現在有利であることは僕にもわかる。たとえそれが観夕自身の想定した状況でなくても。
 であれば。自分にとって何をすれば得になるのか、何をしなければ損をするのか。明らかだった。
「エキセントリックなのは隠居の方だったんだなぁ」
「僕みたいなおとなしい奴のほうが何をするのかわからないみたいなところあるだろ」
「開き直るんじゃないよ。伏見山さん、大丈夫?」
「……ええ」
 納得行かないといった感じだが、まあ。フォローしたことくらいは彼女にだってわかるだろう。
 僕の失礼な言動を許したわけではないだろうが、あのままでは良くないということくらいは彼女でも理解可能なはずだ。
 だからこそ。
「だいじょうぶ。隠居庵も、だいじょうぶ」
「もうアホなことすんなよなー」
「まったくだね」
 彼女が許しを与えるかのような口調でそう言ったので、皆人や霞も釣られるようにして僕のことを許したようだった。
 あれれ、このまま退部と洒落込もうと思ったのに。
「その縄、どうするの?」
「え?」
 霞が見つめている先には僕の左手。ああ、そうだった。絡め取られて倒れた原因が、まだそこにあったのだった。僕の腕に巻き付いた分を差し引いて四メートルほどが地面に垂れている。
 それまでほとんど気にならなかったというのに、一度意識してしまうと急激に痛んでくる。
 いや痛みはさほどでもないのだけれど、血液の循環が悪くなり、痺れてくるのだ。
 ああ、なんだこれ。滅茶苦茶複雑に絡みついてるじゃねーか。
「み、伏見山さん。これ解ける?」
 解ける、と回答されることを望んで訊いたが。
 観夕は僕に近づき、右腕に巻き付いた縄を少しの間触って検分し。
「…………」
 僕の腕を離した後、しかし観夕は黙したのみだった。いや首は振っているが。できれば横ではなく縦に振って欲しかったものだ。
 というか巻いた本人ですら解けないとは、これいかに。いくら可能性をねじ曲げて増幅させる異常者とはいえ。
 ああいや、異常者だからこそ。ありえないことをあり得させてしまう。
 理屈ではわかるけども。
 納得はいかない。
 しかし観夕の意図があるにしろないにしろこの場で解けないというのなら、解けない。僕が改変可能なのは『言葉』の及ぶ範囲なので、どうしようもない。
 そこそこに太い縄。僕の筆箱の中に入っているような一般的な鋏では切れそうにもないし、学校の中で有用そうな道具を見つけられる気もしない。
 唯一頼りになりそうなのは――。
「ロアクさんくらい、か」
「……?」
「いやこっちの事情」
 あっち側の霞が不思議そうにしていた。
 支部にまで帰ればなんとかなる、だろう。多分。ロアクさんなら切るのに必要な道具を導き出せそうだし、運が良ければ彼の道具が使えるかもしれない。
 しかしまあ。ロアクさんはあれで積極的に会いたいような人物ではない、が。
 手段は選べないから仕方がない。
「このまま家に帰ったら大きな鋏があるからそれで切ろう。なに、大縄跳びの道具はひとつなくなるし弁償はさせられるかもしれないけれど、それもこれもすべて僕のセクハラ発言が悪いのだから、甘んじて受けるしかないさ」
「……なんだか紳士然とした物言いでいい話にしようとしてるみたいだけど、あたしは騙されないからね?」
「嫌いじゃないぜ。なんだよ、隠居ってば結構面白い奴じゃねーか」
「こんなのを面白い奴扱いしちゃ駄目だってばー」
 それから校門を出たところで三人とは別れた。霞と皆人、観夕で甘味屋へと遊びに行くらしい。別に羨ましいとは思わない。縄跳びを左手に纏った、まるでファンタジーにでも登場する罪人系キャラのようなこの姿で、彼らについていくのは常識的な判断ではない。
 だんだん鬱血してきたし。いよいよ感覚がなくなってきたし。さっさと解いてもらいたい。このままにしたら腕が腐り落ちたりするのかな?
「一人で行動するほうが楽だ」
 最近連れ回されたり付き纏われたり。そんなこんなで。心からそう思う。
 一人であれば、誰かのことを考える必要もない。誰かの視線を気遣う必要もない。誰かの視線を気にすることもない。他人は他人。一は全。赤の他人は零であり一であり全なのだ。適当だけど。
 だから繁華街、余った縄を左手で握ったまま歩いても。突き刺さる奇異の視線も。何も気にならない。何も知らない他人は人間ではなく、ただの背景に過ぎない。中身のない、人形の群れに過ぎない。
 笑いたければ笑えばいいし、見たければ見ればいい。
 見ればいいのだが。
 ふと。第六感めいた感覚がざわついた。
 殺気、ほど強いものではない。
 いわゆる『誰かの視線』を『感じる』。
 現在多数から照射されているような、奇異の視線ではない。見知ったものだ。
 これまで受けたことのあるもの。
 視線の主を探そうと目を動かす。視界の端で動くものがあった。
 複合アミューズメント施設。
 その一階に嵌めこまれた、ファストフード店。
 窓辺に設置されたカウンター席。
「……あの鞄は」
 我が校指定のものだ。
 鞄で顔を隠している女子生徒を見つけてしまった。
 見覚えしかない藍色のセーラー。胸ポケットのネームプレートは裏返されているが、きっと赤色の名前が刻まれていることだろう。
 鞄で顔を隠し、僕から見つからないようにしている、ことが既に僕の知り合いであることを知らせてしまっているし。
 なによりこちらの様子を確認したいからか、鞄の横からちらちらと目を覗かせているのが大失敗だ。きっと周囲の人々と同様、僕の左手の様子がきになるのだろう。
 挨拶に。
 よお、と右手を挙げてみる。
「波佐見愛思ちゃん」
 僕の後輩が学校をサボってマックを食っていた。


2.

「マックって何頼めばいいのかわからないんだよ。特殊なメニューとかセットにするとマックらしい『安価さ』が失われるし、でもそうなると結局百円マックみたいないつものパターンになってしまうし」
「シェイクでいいじゃないですかーあ? あまくて冷たくて美味しいですよ?」
「男の子はがっつり食べたいのだよ」
「そんなものですか」
 知らないけどね。
 僕はハンバーガーにかぶりつく。Sサイズの、どこがプレミアムなのかわからないアイスコーヒーも用意している。これあとで胃が痛くなるやつだ。つうかもう結構痛い。先生、保健室に行ってもよろしいでしょうか。冗句冗句。
 家庭科部の活動で果物と野菜を摂取し、ここで炭水化物と肉を喰らっているので、今夜は夕食を摂らなくてもいいだろう。変な時間に腹が減りそうだけど。
 もしゃもしゃ。ごくごく。うーん、体に悪くて美味。
「あのう、そろそろ触れてもいいでしょうか」
「問われると駄目です答えたくなる。意外性が出るかもしれないけどそうすると話が進まないから僕はあえて良いですよと答えることにする」
「わあい、せんぱいはやっぱり優しいですね。ありがとうございます」
「お、おう……」
 僕の冗句に対してここまで前向きに捉えられるやつは初めて見たぜ。
「その左手はどうなさったのですか? せんぱいの思いついたファッションだったらすみません! そしたらあたしのセンスがないだけかもしれないですね!」
「否定しづらい感じに持っていくのはやめてくれ。これはだな、あー……」
 観夕にやられた、と言えばいいだけなのに。どうして僕は、この娘の悲しそうな表情を思い出すのか。あの時の――観夕と付き合っているという冗句を述べたときのことを、連想しているのか。
「……ちょっとした事故でね。絡まって取れんのだ」
 僕はこの娘に、あいつを重ねているのか。愛思ちゃんのちまっこさで、あの《支配者》の儚さを連想してしまっている、のか。
「えっ? で、では、縄、痛くないのです!?」
「痛み……痺れはとうに過ぎてしまったかな。動くけどあんまり感覚がないので気持ち悪い。さっさと切ってしまいたいところ」
「あわわわ」
 愛思ちゃんは顔を振り回して困惑と焦燥を表現してくれた。とてもわかりやすい子だと感心するけれども、夕刻のファストフード店ではそれはとても目立つのでやめていただきたいと思う。目立つようなアクセサリーを左腕に装着している僕が言えたことではないので口には出さないけど。
 僕は続き、「でもまあ、一応アテがないことはないから大丈夫だよ、きみが心配することなど何もない」という言葉を紡ごうとした、のだけれど。
 愛思ちゃんは口を真一文字に結び、突然立ち上がった。
 もう食べ終わったのか? しかしカップの中身はまだ健在のようだ。
 愛思ちゃんは、歩き出した。トレーを持ち、店の奥の方へ。
 最奥の席が空いていた。席を移動するつもりなのだろうか、などと考えているうちにも後輩は歩を進め、席についてしまった。
 僕は食べかけのハンバーガーを左手に、飲みかけのコーヒーを右手に持った。なんだか剣闘士にでもなったような気分だった。盾と剣、ふむ。感覚のない左腕は縛られているので奴隷戦士ってところか。
 掃除の行き届いた床を、僕と縄が進んでいく。
 席に到着すると、愛思ちゃんは新たに筆箱を取り出していた。
 ああ、いや、筆箱というよりペンケースの方がふさわしいのだろうか。ビニールが張られて、ジッパーが付いている。
 後輩は桃色のそれから、小さな鋏を取り出した。携帯用だろうか。
「せんぱい、左手をこっちに」
「おいおい、そんな鋏で切れるならわざわざこんな体を晒してまで――」
「あぶないので、おしずかにぃー」
 鋏の握られていない左手人差し指を唇にあてて、沈黙と停止を要求された。
「…………」
 大方の予想通り、愛思ちゃんの握った携帯鋏は縄を挟んでいる。僕の腕に巻き付いた縄の中で、もっとも致命的に絡みついた部分に、鋏を差し込んでいる。
 頼りない刃――紙くらいしか切れなさそうなそれが、なんの役に立つというのだろうか。
 そして愛思ちゃんは力を込めた様子もなく、鋏の持ち手同士を対面させる。再会させる。
 まるで最初からそうあるべきだと言うように。
 双つの持ち手は、目立った抵抗もなく、再会を果たした。
「え」
 開かれた鋏とは、エックスの字と同じだと言える。言わば、交差した二本の棒。半分から先が刃となった交差した棒。
 片方が再会したということはつまり、自然、もう片方も再会したことになる。
 愛思ちゃんが握った頼りない鋏は、見事に、縄を、断ち切って、いた。
 僕は両の眼でそれを見つめていたというのに、目の前で起きた出来事はあまりにも自然で、あまりにも滑らかに進行した。
 抵抗などなかったかのようだった。
「まるで、手品だ」
 思わずつぶやいてしまうのも無理はなかった。鋏で紙を切った時よりもずっと滑らかに、縄は断ち切られたのだ。最初から、二つに分かれていたかのように。
「もうすこしじっとしててくださいねー……」
 一本切れたところですべてが解けるわけではなかったが、愛思ちゃんは先ほどよりもずっと軽快に、次々と致命的な絡まりを切っていく。
 すぱすぱすぱすぱ。
 そんな擬音でも聞こえてきそうなくらい、簡単に。
「愛思ちゃん、きみは」
 《異常者》なんだね。
 僕にはこの娘が何をしているのか、どうしてこんなことができるのか、わかってしまった。
 可能性を改変し、増幅する者。
 物語に影響を及ぼす者。
「はぁい、ぜんぶとれましたよー! あああ、せんぱいのきれいな肌があらなわでまっかに……」
 どうして気づかなかったのだろう。今までは見ればわかるような連中ばかりだったからだろうか。確かにどいつもこいつもわかりやすい。たとえば《殺人鬼》のあいつ、《破壊魔》の彼ら彼女ら、《嘆き女》のあの人、《吸血鬼》の彼。
 そして『僕』。
 どいつもこいつも見ればわかる、聞けばわかる、感じればわかる。他の奴とは違う。
 どう見ても人間の姿、人間なら在り得そうな性格、常人でも有り得そうな趣味、一般的にもあり得そうな性癖。
 そんな皮を被っていても、どこか他人とは徹底的に違いそうな生き物。
 生きてはいるが、人間ではないモノ。
 どこかで物語を間違えてしまったがゆえに、物語の中で存在感を露わにしてしまう連中。
「せんぱい?」
「愛思ちゃん、このいじょ――とてもおもしろい技はどこで習得したのかな? 習い事とかさせてもらったの?」
 たのしい切断教室、なんてあるわけもない。冗句に決まっている。
 僕が定義するものではないけれど、この娘の異常は《切断魔》といったところだろうな。
「ぬえ? うーん……中学生のとき、でしたかなー?」
 可愛らしく大きな瞳をぐるっと回して、しばし考え、情報を開示。アクセス速度はそう早くないようだ。体と比例して頭も小さいしな。
 低スペックのパソコン、とか連想してしまったあたり大変失礼だが脳内には警察が存在しない絶対不可侵領域なので、侮辱や名誉毀損を立証できない。ふふふ、冗句さ。
 しかしまあ、この子なんだろうかね。
 観夕が転校してきた理由は。
 彼女が《異常者》で、《サナトリウム》の標的であるなら、理解も納得も可能だ。大手を振って受け入れられますね。
 観夕がくっついて離れようとしないこと――その割には昼食など隙を見せすぎだけど――とか、わざわざ家庭科部に入ったことだとか、一緒に下校することだとか。見ていないようで見ていたり、聞いていないようで聞いていたり、暴力を使えばいい場面で使わなかったり、使わないかと思ったら使ったり。
 しかし対象がわかっているにしては不自然な点もある。
 この娘が今も生きていることだ。
 観夕が転入してきて、一週間近くが経過しようとしているのに、この非力な子が生きていられるのはなかなか不思議だ。学校の七不思議に加えよう。観夕に殺されていないだけで十分不思議だ。
 あれ、そうなると僕も不思議な生物扱いされてしまうな。じゃあやっぱりやめとくか。強制議決を実行! 議会は解散です!
「……きかないのです?」
「え、何を?」
 頭の中で七不思議認定委員会の大会議を行っていると、向かいに座った愛思ちゃんがこちらを見つめていた。
 汗をかいたシェイクはどろどろに溶けている。
「やっぱり、せんぱいはやさしいひとです」
「そうかな? では存分にリスペクトしたまえ。でも僕の生き方を真似るのはやめておいたほうがいいぜ。きみの綺麗な顔が火傷しちまうほどハードな生き方をしているからね」
 ……普段観夕の前でこういう冗句を言うと、気持ちいいくらいの勢いとタイミングで鉄拳が飛んでくるのだけれど、愛思ちゃんはそんなことしてこない。
 それどころかにこにこと笑顔を見せている。
 ううむ、悪いことではないのだけれど、こう……観夕の暴力が恋しくなるとは思わなかった。長く仕事をしすぎて悪い影響を受けすぎてしまったか。
「でもちょっと気になるから訊いてもいい?」
「なんなりなんなり!」
「なんか使い方間違ってるんじゃないかそれ。えーっと、あれだ、何でも切れるの?」
「いえ全然ー。こうやってはさみがはさめるものだけでっすよー?」
「じゃあ大きなものは切れないんだ」
「そうです! せんぱいあたまいい!」
 まあ、なんだ。
 僕の仕事じゃないもんね。
 みゃこさんからは何も言われていないし。首を突っ込む必要はない。
 仕事でもないのに誰かの事情に立ち入る意味はない。
 観夕の仕事なら勝手にやるだろう。僕の手伝いなんかいらないし、彼女は求めない。勝手にしやがれー、だ。
 あえて付け加えるのなら、《異常者》でありながら有害でないケースも、稀有ではあるものの、存在する。
「…………」
「…………」
 しかしまあ。こうもにこにこ見つめられると、普段よりもっと視線を合わせたくなくなるね。冗句を言うこともできやしない。あーやだやだ。沈黙は苦手なんだ。人と会話するのは苦手だしさぁ、冗句じゃなくて。
 そんな状況に救世主現る。
 今風の軽快な音楽が流れる。発信源は愛思ちゃんの鞄の中。どうやら携帯電話に設定したメロディが流れているらしい。
「ややや! あたし、そろそろ帰りますねっ!」
 ケータイを確認した後輩が、席を立つ。ご両親か、友達か。呼び出しでも受けたのだろう。
 僕の手元には、美味しくないコーヒーが残っていた。これ以上飲めば本格的に胃が痛くなってしまいそうなのだけれど、この店はドリンクを捨てる場所がないので、飲み干すしかない。
 なんという意地悪、嫌がらせ。今度飲食店レビューサイトに悪評書いてやる。
 もちろん冗句だけどさ。
「んじゃあ、また明日」
 僕は何も考えず、皆が使うからという理由だけで、そのありふれた言葉を用いた。
「……ええ、また、あした」
 ちなみに、だけど。
 その『明日』はそこそこ最悪の一日になった。
 てるてる坊主でも吊るしておけばよかったかな。


了。