2.縫合
作:宴屋六郎
0.
いったいなにがどうなっていたのか。
一般的にかんがえると、なかなかめずらしいことだとはおもいます。
あたしはおかあさんに愛されたきおくがないのです。
あたしからも愛したきおくがありません。
だからあたしに愛を教えてくれたのは、おとうさんでした。
おとうさんはあたしを愛してくれました。
おかあさんはあたしを愛してくれませんでした。
そんなふたりがうまくやれるわけがなかったのです。
あたしはおさないながらに、二人がなかよくできないことを悟っていました。
それでも両親が愛しあったことがあるのはほんとうでした。
たとえそれが、すこしの間でも。
そうでなければあたしはこの世界にうまれなかったのですから。
だからあたしはわかってしまったのです。
さいしょは愛しあっていても、ぜったいのものではないことが。
愛はかんたんにくずれさってしまうものなのです。
たやすく、こわれてしまうものなのです。
失望奇譚集――憐曖奇談2
********
1.
始めはこう、シリアスに行こうと思った雰囲気を、たやすく壊してしまう言葉。
「隠居庵の視線に耐えられない」
「理不尽すぎるわ」
何を言い出すのかと思えば。
彼女の言語未満の言葉を解析するに、机を交換してほしいそうな。それならそれで僕は別に構わない。まだ荷物を置いているわけじゃなし、席に愛着があるわけでもなし。
転入初日と登校初日同士が席を替わったって、周囲の人間も担任も気にすまい。
午前四時限の授業が終わり、昼休みに入ったところだった。
牽制のようにこちらをちらちらと見ているクラスメイトたち。どうやら話しかけたいご様子であらせられる
もちろん僕みたいな開幕不登校キメた、人間関係に不備がある男子生徒ではなく、見目(だけ)麗しい、ミステリアスな転校生に、だ。
「隠居庵」
「なんでございましょう」
「おなかが減った」
左様でございますか。しかしどうしろと。
言わなきゃいいのに、僕の舌と口が勝手に回り出す。
「自分の状況を伝えることは赤ん坊にだってできる。きみが一応女子高生と呼べる種類の生き物であるのなら、何をどうしたいのか、他人にどうして欲しいのか伝えるべきだと思うね」
僕はたぶん、いつか減らず口が原因で死ぬと思う。伏見山観夕の表情は一転、眉間に皺が寄り、視線の中に激烈な感情が載せられていることを発見する。
発見者の義務として、僕はそれを怒りと名付けることにした。名付けるまでもなく明らかだったけれど。
観夕が手を挙げる、前に。
「こんにちはー」
救い主が現れたようだった。
全く見覚えのない女子――胸のネームプレートには『霞』という苗字が刻まれている。クラスメイトだろうか?
「……こんにちは」
僕の知り合い、ではない。というか去年のクラスメイトのことなどもう覚えてない程度には付き合いが希薄だったし、誰が同じクラスで、誰が違うクラスからの合流なのかわからない。
「今から大変失礼なことをお聞きするのですが、あなたさまはどなたさまでございましょう?」
「あたしの名前は霞霧子、です。一応このクラスの学級委員を務めてる」
いわゆる『委員長』ってやつか。僕の想像するそれは、黒髪三つ編みおさげの気弱そうな女の子の姿だけれど、眼前の彼女はいっそボーイッシュと言っても差支えのないショートヘアー。全体に纏っている雰囲気としては、活発で爽やかな印象を受けた。
僕とは対局にいるタイプのヒト。
彼女の目的は何なのだろう、と考えたところで。
自己解決。
合点がいった。
ああ、なるほどね。
「『伏見山さん』に色々教えにきてくれたのか。今どきびっくりするくらい親切だ。いやいや、別にきみのことを貶したいわけではない。むしろ現代の若者としては非常に希少で価値の高い人間だと思う。そのままのきみでいてくれ。さて、そうなると僕は邪魔だろうし、おとなしく退散することにしようかな」
言って立ち上がる。食堂で定食でも食べることにしよう。観夕もお弁当を持ってきていないとしても、多少のお金は持っているだろう。むしろ僕よりもらっているはずなのだから。
何故か唖然とした表情でこちらを見つめ続ける霞のことを不審に思いつつ、僕は教室の扉を目指した。
と思っていたのだけれど、腕を掴まれていた。右と左。左右。両腕。
霞の手と、観夕の手。女の子の柔らかい手が、制服越しに腕を掴んでいた。
これが両手に花ってやつか。冗句っぽい。
「ちょっと待って。確かにあたしは転入生である伏見山さんにも用がある、けど」
「隠居庵、わたしはおなかが減った」
「僕は聖徳太子じゃないから両方一緒にしゃべるんじゃない。あと離してくれ」
霞の方はあっさりと手を引いたが、観夕は掴み続けている。どうやら離せば僕が逃げると思っているらしい。よくわかってるじゃないか。
付き合い『だけ』長いことはある。
僕が元の席に戻り、椅子に腰掛けると、ようやく手を放した。ここで立ち上がったら再び光のごとき速度で腕を掴まれるのだろう。抵抗は無駄か。
先に頭に入ってきた霞の話を促すことにした。
「……けど?」
なんだというのだろう。こんな僕に用があるとは思えないのだけれど。
「隠居くん、誰とも仲良くしてないでしょ」
おっと。
かろうじて悲鳴をあげることだけは抑えることができたが、あまりにも直球、あまりにも無遠慮、あまりにも電撃作戦。
不意打ちの効果が乗ってクリティカルヒット。ダメージは加速した、みたいな。今朝の説教も伏線だったとは恐れいった。
あまりにも不躾であまりにも失礼な物言いなのだけれど、なぜだろう。彼女から悪意や敵意のようなものは感じず、僕としてもあまり不快には思わなかった。
胸に刺さるものはあったけれども。
「一年の時もたまに一人でいるのを見かけたりしてたけど、伏見山さんと仲良くしているのがちょっと意外かな。新メンバー同士気があったの?」
「…………」
僕は。
改めて周囲を見回す。
観夕を眺める視線に、時折僕を観察するような視線が混じっている、ように思う。目が合いかけると僕か相手が背けてしまうので、推定しかできない。
二年一組。破壊と再生の四月を乗り越え五月。
クラスに隠居庵と伏見山観夕。クラスに馴染めぬ二人の生徒――問題児がここにいる、といったところか。
しかし、まあ。
そうか。僕はあくまでも『新しく入ってきた奴』なんだ。すっかり失念していたけれども、転入生と同じく、得体の知れない奴なんだ。
だからといって、僕が態度を改めたり、積極的に動く理由はないのだが。
「まー、あたしが隠居くんと同じ立場だったなら、同じく人見知りしちゃうだろうなーって思うし、わかるよ」
わかられた。
たぶん本質はわかってないだろうということだけは、わかる。
「だからちょっとお手伝いさせてもらおうかと思って。伏見山さんもいることだし、二人は仲良くなれそうだし、お手伝いお手伝い!」
余計なお世話である、とは口に出せなかった。さすがに思ったことをそのまま口に出すような社会不適合者ではない。実際はいろんな面で社会に適合していると胸を張ることはできないのだが。
しかし、この辺でやんわりと拒否したほうが、後で面倒がないだろう。
不思議と悪い気はしないけれど。
面倒。
人付き合いは、面倒だ。
「ああ、いや。僕はいいよ。大丈夫、自分のことは自分でできる……」
「そういうわけにもいかないのが学級委員なんだよね。先生にも頼まれちゃってるしさー」
困っちゃうよね、と言っているのに、顔は全然そんな色を浮かべていなかった。こういった依頼には慣れているのだろうか。確かにこの活発そうな少女には、普段からものを頼まれ慣れているような雰囲気が漂っている。将来は大変なことも多かろう。ご愁傷様です。
「みなとー」
背後を振り向き、霞が誰かを呼んだ。
人名――港ではなかろう。発音のアクセントとイントネーションから推察するに、『皆人』か『湊』、かな。
声に呼応してこちらに歩いてきたのは、果たして男子だった。胸のネームプレートには『皆人』という字が彫られている。
顔に浮かんでいたのは、まさしく苦笑。
「霞、俺に頼ればいいと思ってないか」
「どうせ出番があると思って聞き耳立ててたくせに。呼ばれてから立ち上がるまでが早すぎ。隠居くん、伏見山さん、これが皆人累。男子の学級委員ね」
男子生徒の名は皆人累と言うらしい。校則に触れない程度に伸ばされた黒髪。同じく校則に触れない程度に整えられたアシメ。若者の量産型といえば量産型なのだけれど、大多数と違って非常に似合っているのが印象的だ。全体的に顔のパーツが整っているからだろうか。肌がわずかに日焼けで黒くなっていることから何かスポーツでもやっているのだろう。女子にはとても受けが良いだろうね。
苦笑してもどこか柔らかな印象を放つ皆人。どこまでも爽やかという言葉を体現した男だった。口からミントとか産出されそう。
あと友達とか多そう。霞が彼に応援を頼んだのも、きっとそういった理由があるに違いない。悪そうなやつは大抵友達みたいな。違うか。冗句ということにしておこう。
「人に向かってこれとか言うなよ、失礼なやつだなぁ」
「ま、まあ、ほら、気にしたらおっきな男になれないぞ!」
んあ?
一瞬態度に揺れ。同時に不安定さと頬に僅かな朱を観測した。
霞霧子。
……あー。
成程ね。
霞霧子は皆人累に対して好意を抱いているらしい。当の皆人は朴念仁なのか、あるいは気づいていないふりをしているのか、態度を全く変えず、怪しもうともしないけれど。
だったら他人である僕が何かを言うこともあるまい。僕と観夕が、皆人との関係の踏み台にされた可能性も頭の中にないではなかったが、まあ。
観夕ではないが、どうでもいい。
霞は朱色を振りきって、話題を転換させようとした。
「ふっ、伏見山さんはどうして転入してきたの?」
「内緒」
おいおい。僕は声に出しかけた。
それしか用意してこなかったのか、お前は。おそらくみゃこさんの真似をしているだけなのだろうけど、これじゃあ怪しすぎる。
そもそも。
内緒内緒と言うけれども、伏見山観夕が『ここにいる』理由は一体何なのだろう。
みゃこさんと遊女さんはかねてより、伏見山観夕に教育を施したがっていた。それは《サナトリウム》としての教育ではなく(もう観夕には必要ない)、一般的な常識や教養という意味での教育だ。僕は無意味にしか感じられていないけれど、《異常者》でない遊女さんの考えもわからないではない。僕のような『子供』には教育を施すのがこの社会では是とされている。みゃこさんも薦めていたこともあって、僕は今も高校に籍を置いている。
しかし観夕は拒否した。
一年ほど前。中学教育が終了した後だ。諸事情により中学校に通えなくなった観夕は、《サナトリウム》の施設にて義務教育を修了した。
進学拒否に関して、特に理由があったわけではあるまい。伏見山観夕の口癖と生き方はすべて「どうでもいい」に集約される。それが彼女の持つ物語であるし、当時から既に最前線で《サナトリウム》の駒であった彼女が業務に集中すると言うのならば、《サナトリウム》としても強く進学を薦める理由はなかった。観夕は僕とは違って優秀そのものなのだから。
その伏見山観夕が。
僕の登校初日。
同じ学校。
同じクラス。
近い席に配された。
偶然ではありえない。何者か――《サナトリウム》の意思を感じる。
こんなことが偶然であるものか。
こんな重なり方をする偶然など存在しない。それはもはや、『必然』だろう。
《サナトリウム》の実戦部門の優等生、伏見山観夕が『ここにいる』ということ――つまりそれは、これから『何か』が『起きる』としか、考えられない。
「えーっと、じゃあ好きな食べ物は、とかベタなこと訊いてみたりして」
「甘いものは好き」
とはいえ。
目の前で繰り広げられている会話は至って平和だ。
会話というには少々拙いか。観夕は訊かれたことにしか答えない。あれの中には自分から言葉を飾り立て、会話を膨らませようという一種の思いやりなど存在しない。
他のクラスメイトたちも単純に美少女である伏見山観夕とお近づきになりたいようだったが、それは難しいことだろうと僕は思う。霞との会話は霞が積極的に話すことで今のところ成立しているが、伏見山観夕はあまりにも断絶し、隔絶しすぎている。霞との会話で、わかりやすく表れている。
『どうでもいい』。この言葉が観夕という生物をよく表している。誰かと仲良くなることもどうでもいいし、誰かを楽しませることもどうでもいい。自分を楽しませることですらどうでもいい。
観夕という異常者にとって、全ては「どうでもいい」ことで、誰かと仲良くなること、仲良くする必要など、彼女の中には一片も存在しないのだから。
そんな『どうでもいい』彼女だからこそ、己の《殺人鬼》としての可能性を抑制し制御できている。大抵の場合結果には原因があるのだ。
結果。
原因。
この場所に伏見山観夕が存在するという結果に対する原因とは。
《サナトリウム》から伏見山観夕が送り込まれてきた、と仮定するとして、僕はどうすればいいのだろう。
……どうしようもない。僕は何も聞かされていないし、彼女は「内緒」の一点張りだ。だとすれば僕に関係のないお話、物語が繰り広げられるのだろう。僕には関係ない。仕事をしなくていい。なんともラッキーで、素晴らしいことだろう。平和万歳。ばんざーいばんざーいばんざーい。
なんにせよ、彼女が武装していないということも非常に平和的行動の表れだと思う。観夕は常々全身に凶器を隠し持っているので、あの黒外套がなければ隠せない。学生鞄の中か、あるいはポケットにナイフの一本でも持ってきているだろうが、その程度なら問題なかろう。普段と比べれば、の話だけれど。つまりすぐにどうこうという話ではないのだ。これでいいのだ。
「それじゃ、放課後は家庭科室に集合ね」
「……は?」
いかん、思考に沈んでいたせいで話を聞き逃していた。完全にイニシアチブを握られている。これは良くない傾向だ。
「ぼーっとしてたけど聞いてなかったの? あたしも皆人も家庭科部に所属してるから、体験してもらおうと思ってね」
「家庭科部という名前の部活動を僕は寡聞にして知らないのだけれど、違う、突っ込むべきはそこじゃなくて、どうして僕が……体験入部をすることになったのかわからない」
「説明したのに」
「……ごめん」
確かにその点においては話を聞いていなかった僕が悪いのだけれど、いかん、いかんぞ。完全に主導権を握られつつある。どうにかして巻き返さなければ面倒なことになる。僕は面倒が嫌いなのだ。今回はサビ抜き程度に冗句抜きで!
「何事も部活に入ってた方がやりやすいんだよね。ニンゲンカンケーを築かなきゃいけない状況になるしね。そして体育会系の部活と比べるとゆるーい文化部だし、何か大会があるわけでもない。だから伏見山さんと隠居くんにもちょうどいいんじゃないかな」
体験入部なんだしいいと思わない?
などと訊ねられている。
「み――伏見山さんはそれでいいのか?」
「先程から言っている。わたしはおなかが減った」
それじゃあ答えにならないんだよ観夕ちゃん。
と言おうとしたわけではないが、霞から勝手に補足が入る。
「体験入部に来てもらうことだし、一緒にお昼でも食べようかと思って。おすすめメニューを『ご馳走』しちゃうよ?」
「…………」
神妙に頷く《殺人鬼》。
こいつ、胃袋つかまれてやがる!
「隠居も来るよな?」
皆人が質問、というよりはむしろ確認といった調子で訊ねる。観夕がこちらを見つめている。霞も僕を見ている。
上手い冗句は思いつかないし。
どうやら逃げられないようだった。
しかし。
家庭科部。
活動場所、家庭科室。
すっぽかそうと思っていたのだけれど、そういうわけにもいかないらしいな。
学ランの袖を見て、溜息を吐いた。
2.
「せんぱいがこんなにまわりみちするとは思いませんでしたっ! 修行が足りないですね、めぐっちもー!」
「ああ、そうだね……僕もこんな形で再会できるとは思ってなかったよ」
できればしたくなかったでござる。
時間と場所は変わりまして。
放課後、家庭科室。
言うまでもなく僕は波佐見愛思と再会した。初対面のときは一人称が『あたし』だったような記憶があるけれど――まあこの年頃の女の子は気分によって変わるものだ。冗談めかした話し方をしたい時だってあるだろう。
愛思ちゃんのような、威勢のいい娘なら。
言うまでもなく、僕は元気なタイプの他人が苦手だ。相手が元気であれば元気であるほど、己の体力を消費していく心地がする。むしろ実際に僕の体力を糧に元気いっぱいなのかもしれないと、妄想してしまう程度には。
家庭科室に到達するまでにそこそこに説明を受けていた。家庭科部はその名の通り、授業の家庭科で行うことを練習する部活動だということ。妙に乙女チックな活動だ。現代は男女平等社会というお題目が掲げられている時代なので、そんなことを思ってはいけないのだろうけど。
霞は料理が上手になりたいゆえ、本格的に所属していて、皆人は彼女の付き合いでサッカー同好会と兼部しているとかなんとか。
霞霧子という、爽やかで活発的な印象の女子が家庭科部に所属していると聞いた時はわずかに困惑したけれど、皆人の時はその比ではなかった。しかしまあ、別にメインの部活動があるのなら、納得いかないこともない。
「ええと。こちらが隠居庵くん。あたしや皆人と同じ二年生! そしてこっちが、伏見山観夕さん。なんと転入したてほやほや、期待の新人さん!」
意外なのは観夕がついてきているということだった。
異様にマイペースで他のことなんてどうでもいいこの《殺人鬼》が、いやにおとなしい。理由はわからない。思い当たる節がない、ということにしておく。全力で目を背けつつ。
まあ原因がわからないことは本当。
あるいは、やはり『どうでもいい』のだろうか。どうでもいいから、家庭科部に連れられることも、どうでも良かったのか。
「あ、隠居庵です。どうも」
紹介を受けて一礼くらいはしておく。観夕はそんな常識を持ち合わせちゃいないので、僕くらいはしっかりしておかねば。……何のために? いや、やめろ、そういうことを考え始めちゃあ駄目だ。
周囲の様子に目を配る。
家庭科部の部員数は七人。霞たち以外には部長――女子の三年生だそうだ――と三年生の男子が一人、二年生と一年生の女子が一人ずつ。
転入生はいいとしても、僕みたいな二年生が連れられてきていることに困惑、しているようだ。自分でも友好的な見た目と雰囲気を持っている自覚あるしね。
「えーっと! わたしが家庭科部の部長だよ。今日はよろしくね、隠居くん、伏見山さん」
それでも努めて、明るく元気な声を出して迎えいれようとしてくるこの先輩は、きっといい人なのだろうな。他人事のように、そう思った。
それからぽつぽつと自己紹介のようなものをして。
それからぽつぽつと自己紹介のようなものをされて。
僕らは人々の活動に混ざった。愛思ちゃんは僕の制服の袖にボタンを結ぼうと努力してくれた。
霞は観夕に付き、皆人は僕に付き。
周囲に馴染めるように努力してくれた。
普通の人たちに囲まれて、談笑する人たちに囲まれて。
僕にはできないことを平然とやってのける人たちに囲まれて。
笑えないんだよなぁ。
笑えない。
僕はずっと真顔だった。表情筋が死んでるみたいに真顔だった。
面白い冗句でも思いつけばいいのに。これまで冗句を考え続けて、そんな傑作を産み出せていないから、仕方ない。
生ぬるい空間で、冷たい体。同じ温度になれないから、余計に暑苦しく感じられる。息苦しく、感じられる。
この場においては観夕だけが同類だった。
見やると観夕も真顔――いや仏頂面だった。
調理の練習に混ざっているのか、包丁を握っているのが怖い。怖すぎる。
いつも刃物を自分の手足と同じように自由に扱っている彼女が、学校という平和極まりない場所で包丁を握っている事実が怖すぎる。ちょっとその気を出せばこの場にいる全員を殺害せしめるだろうということが、わかるだけに。
刃物捌きだけは超一流なので、野菜の皮むきは異常に上手なようで、料理が得意なのだと勘違いされかけている。
持ち前の『どうでもいい』が発揮されて誤解を解こうともしない彼女。僕も解いてやる義理はないので放置するに限る。触らぬ神に祟りなし。神は神といっても、邪神か何かだけれど。
一方の僕はというと、ボタンを縫いつけてもらったので裁縫にチャレンジさせられていた。ボタンの縫い付けの練習、らしい。糸と針、そしてボタンと布切れを渡されたので、適当にこなす。僕の隣に座ってはしゃぐ愛思ちゃんがちょっと鬱陶しい。
「せんぱい意外とじょうずじゃないですかっ!? もしや才能があるのではっ! というかこれじゃあめぐっちがボタンを修繕した意味とは……!」
「ちょっと慣れてるだけだよ」そう望まれたのでしょうがない。あの子は裁縫が上手な男の子が好みらしい。だから裁縫に纏わる言葉なんかはひとつも知らないしね。
しかし語尾にエクスクラメーションマークを付けないと死んでしまうのかこの娘は。全体的に僕に近いこともあり、声が頭蓋に響く。
「いやいや、しかし上手じゃねーか。慣れてるっつーかなんつーか、手際がいいよな。手先が器用なタイプなのかね、隠居は」
そう言いつつ褒める皆人は、何をするまでもなく、手で頬を支え机に肘を突き、僕らを眺めているだけだった。兼部の気楽さか、文化部の緩やかな雰囲気ゆえか。ただ遊びに来た同級生、といった風情だった。実際その通りなのだろうが。
「隠居ー、これ書いてー」
霞が向こうの調理場から歩いてきた。
おん?
霞が差し出した印刷物には『仮入部届』の文字が刻まれていた。
「仮入部届?」
「そうそう。学校の決まりでねー、書いてもらわないとまずいんだよねー」
なんだその面倒極まりない規則は。
兼部とかいうゆるいことは許されているのに、変なところだけきっちりしているのだな、と思いつつ、これまた霞から渡されたボールペンで自分の名前を書き込んだ。気が利く女子だ。
「せんぱいの字ってきれいですよねー」
「そうなの?」
自分ではわからない。というか、単に几帳面というか、神経質なだけにも思う。小さめに書けば大抵誤魔化せるものなんだよ。
「お名前もすてきですしねっ!」
「それはさすがに、お世辞が上手だね、と言わせてもらおう」
「お世辞なんかじゃないんですけどねっ!?」
隠居庵なんて、冗句みたいな名前じゃないか。冗句でなければ、洒落だ。
お洒落な方の洒落ではなくて、駄洒落の方に近い。
それにしても愛思ちゃんときたら、うるさいくらいの娘だった。この年頃だから、なのか。そういえば三月までは中学生をやっていたのだ、この子は。僕とは一年しか変わらないけれど、そういう表現を採用すると、大きく歳が離れたような気がしてくる。体つきも子供っぽいし。
子供。元気。無垢。
どこかの誰かを思い出しそうになった、ところで。
間抜けたチャイムが鳴り響く。皆人に訊くと、どうやら下校時間のお知らせらしい。
ここまで学校に居残ったことがなかったから知らなかったな。
霞や皆人たち部員が手際よく道具を片付けていき、気づけば下校と相成っていた。
霞と皆人たちとは校門の前で別れた。
僕は駅まで一人で下校するのが常で、好み――これは強がりじゃないし冗句じゃないからいやいや本当にマジで信じてくれ――なのだけれど。
今日は驚くべきことに、隣がいる。
伏見山観夕。
いつもとは印象の違う、セーラー服。夜気を孕んだ風が長い黒髪を柔らかに揺らす。
駅までの道に乱立する住宅たち。人も車も通りが少なく、まるで誰も生活を営んでいないかのような顔をみせている。
彼女は、そろそろ答えてくれるだろうか。
「観夕、きみは何をしにきたんだ。僕の見ている限りでは何をするでもなかった。どういう意図があってこんなことをしている?」
「内緒」
堂々巡り、というか。
彼女は最初から何も変わらない。同じ言葉しか返してこない。まるでそれ以外の言葉を忘れてしまったかのように。
何も知らされていないのか。《サナトリウム》においては、よくあることだ。
ううむ。これはみゃこさんにでも訊かなければならないのだろうか。あの人を落とすのは至難だぞ……物腰柔らかで丁寧なのだけれど、ある意味この観夕より扱いが難しい。ミステリアスな女性というのはいつもそうだ。
だけれども。
わからないことがあるのはムカつく。
たとえ自分が仕事をしなくて良い状況だとしても。目の前に自分の『わからない』ことがあるのが、耐えられない。知りたくて知りたくて仕方ない。これは僕の性分で、どうしようもない僕の異常に関わる『性質』だ。
だからみゃこさんに会わなければならない、のだが。
あの人がいるからなぁ……あまり支部には寄りたくない。昨日別れ際にみゃこさんから聞いたのだが、どうやら《吸血鬼》が帰ってきているようなのだ。
《吸血鬼》――血液のスペシャリスト、幽霧ロアク。本部での仕事が終わり、通常通り第二支部での活動を再開した彼。僕は彼のことが苦手だった。物理的に。そのわけを考えると頭が痛くなるので、ふさわしい物語が紡がれるまで保留しておこう。一生解きたくないけれど。
しかしまあ、なんにせよ。
わからないことがあるのは気持ち悪いことだ。観夕のことだけではない。後ろにも意識を向ける。
「内緒だと言うのならそれでいいか。どうせここじゃ『その話』はできない――おーい」
意識だけでなく顔も背後に向けて、僕は声をあげた。
びくり、とその人物――僕と観夕を尾行していた小柄な『女の子』は小さく震えたようだった。
観夕は振り返りもしなかった。が、歩みは止めた。これも不可解だ。彼女は人に合わせるような奴ではない。
黄昏色を垂らす電灯の下、『びっくりした』という表現にふさわしい表情を浮かべている、波佐見愛思。
「せ、せんぱい、どうして――」
「どうしてもこうしてもない。十メートルも離さずについてきてれば嫌でも気づく。視線には質量があるんだ」
最後のは冗句だけどね。
なぜだか狼狽した様子を見せる愛思ちゃん。
わかりやすすぎる尾行は不可解を通り超えて不愉快なだけだ。どうせ尾けられているのなら、目に見える位置にいてもらう方がいい。
ちょいちょい、と手招きをすると、困惑したように眉をハの字に垂らして、歩いてきた。僕と観夕の間に入る形となる。
僕が歩き出すとほとんど同時に観夕も歩き出す。彼女は始終後ろも振り向かう、前だけを向いていた。そういうところだけいつも通りだ。僕の横にいること自体が『いつも通り』ではないのが謎なんだけど。
「せ、せんぱい」
「ん? どうかしたかな?」
僕と観夕の歩みに数拍遅れてついてきた愛思ちゃん。顔を右に向けると、やはり困惑の色が出ている。主に綺麗に整った眉毛に。
「怒らないんですか……?」
「怒る理由がない」
不愉快には思ったけれど、別に怒るってほどのことじゃない。四月の《破壊魔》みたいな奴に尾行されるよりはよっぽど安全だし、殺意なんか微塵も感じなかったから。
「じゃ、じゃあ、訊いてもいいですかっ!?」
「答えられることならね」
僕は知らないことの方が多い。存在を知らなければ知らないということを知り得ないので、そこは生物としてよく出来てるよなあと感心する。
「せんぱいとふしみやまさんは――つきあっていらっしゃるのですか……?」
「…………」
質問の意味を計りかねて、三点リーダを四つ吐いてしまった。いい冗句が思い浮かばないのは良くない。
だからつい口を滑らせてしまうのだった。
「付き合ってるよ」
仕事に、という意味の言葉だったけれど、これは良くない。こういう冗句は伏見山観夕が最も嫌う類のものだ。いつの任務だったか、対象を二十四時間ほど監視していた時に「これだけ長い時間を共に過ごしていると、まるで恋人みたいだね。キスのひとつでもしてみる?」という冗句を吐いたことがあったのだけれど、その時は酷かった。任務に支障が出るほどやられた。詳細は思い出したくもない。ただ、痛みもなく苦しみだけで人は死ねるのかもしれないと人類の新たな可能性に気づけそうだったのはここに記しておく。
この無遠慮な殺人鬼は愛思ちゃんの視線など関係なく僕の息の根を止めに来るだろう――と覚悟を決めていたのだが、その素振りがない。
変わらず歩き続けているだけだ。おやおや。本当に何があったのやら。実に奇妙なことだ。
「ほほほほほほっほほっほほほほー!?」
奇妙さで言えば愛思ちゃんもか。鳩にでも転生したのか、魂を交換したのか。意味のわからぬ声をあげている。
この年頃の女の子の精神は理解不能だとされているということなので、僕ごときが理解できるようなものではない、と諦める。乙女心は男子にはわからないものなのだよ。
「それはっ! それはつまり!」
だというのに愛思ちゃんはなおも続けようとする。普段は物分かりの悪い男が珍しく乙女に対して譲歩しているのだから、少しは察して欲しい。
「伏見山さんとせんぱいがすてきに性的にちちくりあう恋愛関係、カレシカノジョカンケーだということなのですかっ!?」
騒がしい後輩にしては珍しく一息で言いたいことを言い切った。代わりに早口で、そのため息が切れたせいか顔面は朱色に染まっている。
ああ、いや。
息切れ、ではなく。
緊張から、のものだ。目尻に溜まり、零れ落ちそうになっている潤みからそれがわかる。泣きそうになるほどに、僕と観夕の関係がショッキングなのか。
その意味は。
……うん?
これまでの言動や行動から推察するに、この後輩は僕に対して好意を抱いているということになる。のだけれど。
それだけはあり得ないだろう。こんな偏屈で卑屈な生き物に好意を抱く人間などいていいはずがない。人間に好かれることなどあり得ない。宿世現のような《支配者》でもない限り。
だからといって愛思ちゃんの思考を読み取ることができるわけではない。他の感情に思い当たる節がない。推理するには情報が足りないということでもある。僕と愛思ちゃんは出会って二日と経過していないのだ。そういう点から言っても、やはり後輩が僕に対して好意を抱くのはおかしい、と思う。
しかしこのままだと愛思ちゃんに勘違いされっぱなし、不必要で間違った情報を霞や皆人に拡散されてしまう可能性が高い。霞や皆人に喧伝されては困る。誤解を解いておくにこしたことはない。
いつもの言葉で。
「冗句だよ」
「じょ、じょうく?」
この娘はみゃこさんや観夕さんのように僕の冗句と、冗句という言葉に慣れているわけではない。
が、説明する必要も感じない。
僕は黙るだけ。観夕は黙ることしかしていない。虫の鳴く音が響く。
「……あたし、もしかしてからかわれてます?」
「からかってますね」
僕は劇的な変化を目撃する。
目の潤みが一気に引き上げ、紅潮した顔は変わらないものの、八の字に垂れ下がった眉が上がる。一転して笑顔に変化した。
「もー! せんぱいったらー!」
「おご」
破顔した愛思ちゃんが冗談半分に繰り出した拳が、鳩尾に決まった。
一度観夕に殴られた時のように地面に這いつくばるほど、呼吸が詰まるほどの威力ではないにしても、偶然上手く嵌ってしまったので、腹腔に痛みが広がり、咳き込んでしまった。
無感動のままに横目で見つめる観夕と目があった。みゃこさんから僕の護衛としてつけられた可能性も頭の片隅では検討していたけれど、そうでもないらしい。無干渉を貫いているということは。
だったらいったい何なのだ。
「…………」
僕の隣を誰かが通り抜けていった。
黒い学ランを丁寧に着込んだ男子。それくらいしかわらかない。
実は僕も観夕も、以前からそいつの存在に気がついてはいたが、それが誰なのかはわからなかったのだ。カーブミラーなどで確認してもわからない。同じ学校の生徒であることだけは制服からわかる。が、それだけだ。見覚えはあるのだけれど、思い出せない。そんな印象の凡庸な顔だった。
「誰だろうね。ドッペルゲンガーかな?」
「さあ」
珍しく語を発した観夕は、しかし素っ気なかった。その点においてはいつも通りだ。
まあ何も危害を加えてこなかったのならいいのだけれど。
危害。
手を加えてこなかった。堂々通り過ぎるだけ。
奇妙といえば奇妙。
――彼は明らかに僕らの様子を観察していたようだったのだ。
「むむむ。まっことこの世は奇怪なことで満ち満ちてるね」
霞にしろ皆人にしろ愛思ちゃんにしろみゃこさんにしろ観夕さんにしろ今の男子にしろ。
どいつもこいつも理解不能でわからない、気持ちの悪い連中だ。もっとわかりやすくいやがれ。だからこそ面白い、のかもしれない。
僕の冗句めかした言葉に対し。
愛思ちゃんは小首を傾げ。
観夕は再び黙すのだった。
3.
半ば予想できていたことではあるが、翌日も教室に存在していた観夕を見て、溜息を吐きそうになった。
僕よりも早く登校して、姿勢よく椅子に座っている。何をするでもなくぼうっと虚空を見つめているのが、僕としては不気味で、少しでも溶け込む気がないように見えて呆れる。
周りの男子女子を問わず魅了しているっぽいのが癪だ。見目だけは麗しいから初見だと誰も彼も惚れそうになるんだよな。こうやって窓から柔らかな風を受けているだけで、吹けば壊れてしまうような繊細な美少女のように見えてしまう。まことにこの世は理不尽だ。観夕みたいな血も涙もない《殺人鬼》に端麗な容姿を与えるのだから。
それもまた彼女の物語における皮肉ではあるのかね。
「おはよう、伏見山さん」
「……おはよう」
最近は意外続きなので、観夕から返事があることに驚いたりしない。返ってくるかもしれないという予想があった。
眉間に皺がいくつか集まったのを観測したので、あまり歓迎されている様子はないけれど。
朝課外授業とホームルームが始まるまでにいくらか時間があったので、外向けの言葉遣いで観夕と会話をする。彼女は嫌がるだろうけど、昨日までの経験で滅多なことはしてこないとわかっている。こういう時におちょくらなければ、いつおちょくることができるというのか。
「伏見山さん、今日は早いね」
「…………」
むっすう。
そんな音が聞こえてきそうだった。ただの会話のきっかけ振りに過ぎないというのに、不愉快そうに皺が集まっている。
僕が「伏見山さん」と呼ぶ度に不快そうに眉が動くので、どうやら話しかけられていることよりも僕から名前を――それも名字で呼ばれることが不愉快らしい。
「伏見山さん、学校にはもう慣れた? ああ、でも伏見山さんってまだ転校してから一日だっけ。だったらまだ全然だよね。霞や皆人は親切にしてくれるから、何かと頼るといいと思うよ、伏見山さん。大丈夫、人という字は人と人が支えあって成り立っているのだから、今は十分に人に頼ろう。そしていつか恩を返すことができるチャンスが巡ってきたときに、返せばいいんだからね。伏見山さんなら、こんなこと言わなくてもわかってるとは思うけど、一応ね。ごめんね、伏見山さん」
おお、見よ。人の眉間というものは、ここまで多くの皺を集めることができるのか。ギネス申請して表彰されたいレベルだ。世界一他人の眉間に皺を集めた男として未来永劫語り継がれていくことだろう。
もう少しだけおちょくりを続けようと思ったのだけれど、そこで霞と皆人がやってきた。
「おはよう」
「あー、おはよう」
「…………」
挨拶を返さない理由はない。観夕にはその理由があったのか、全くの無言だった。僕のせいで壊滅的に機嫌が悪いとかいうことではない。違うったら。
しかし霞霧子はそんなことも知らず(知る由もないのだが)、観夕に話しかける。昨日見たテレビがどうだとか、そういった雑談、世間話。
霞という親しみやすい女子が観夕と会話を開始したので、伏見山観夕に興味津々ではあったものの僕というお邪魔虫な男により形成されていた見えない壁が崩壊。代わりに、周囲に人の壁が作られていった。
全く人気者というのは羨ましいね。そのうち愛想が絶滅していることに気づいて離れるだろうけど。
僕の方はというと、一年のころはもちろん、二年の人間関係形成スタートダッシュ時期に長期間無断欠席するような得体の知れない奴なので、明らかに避けられている。先ほど僕が離れるまで誰一人として人が寄って来なかったことからそれがわかる。まあ去年と変わりない一年が送れそうだ。観夕や家庭科部という不安要素があるけれど。
相変わらず馴染める気がしないので、読みかけの文庫本を取り出して読書を開始しよう。
としていたのだけれど。
「よっ、隠居」
僕の机の上に、ひとつの顔が現れた。アシンメトリーの黒髪、健康的に焼けた肌。快活そうな表情に白い歯。朝によく似合う爽やかな男子。
自分の席に荷物をおいてきた皆人累が、読書姿勢の僕の視界に入るよう、机に顔を載せていた。腕も一緒に添えており、それはまさしく仲良し男子のするような姿勢であった。僕には仲良しの友達なんていなかったはずなんだが。
「おはよう、皆人。朝からどうしたね。僕みたいな話す相手がいなくて読書を始めるような根暗な奴のところなんかに来て」
「昨日からなんとなく思ってたけど、お前って結構ネガティブというか後ろ向きというか、いやに自虐的だよな……」
「根拠もなく自信満々なやつよりはマシだと思わない?」
「そりゃそうだ。でも根拠もなくネガティブなのもどうかなって俺なんかは思うわけよ」
「つまり根拠さえあれば自信満々でも自信無し無しでも全く問題ないということか」
空白が顔の表面を覆ったが、一瞬の間を置いて破顔一笑。
「そりゃそうだ! ただし他人にもその根拠が見えてるかどうかは保証できないけどな」
口からミントでも産出してそのまま名産地となりそうな笑顔だった。
……他人を惹きつける笑顔だ。他人に好かれる表情、性格、性質、物語。
参ったね。僕に欠けたものを全部持ってる。とてもとてもうらやましいねぇ。
「それで、本題は?」
「本題?」
「何か用があってきたんじゃないのか」
皆人は目を丸くしている。表情から察するにどうやら本当に何もないらしい。
「なんにもないぜ。全く隠居は疑り深いんだなぁ」
はっはっは。と白い歯を見せて爽やかに笑う。
不愉快になってもおかしくない僕の疑問を、綺麗に受け流している。生き方が上手なのか。僕よりも数段上手なのか。あるいはその両方か。僕には到底真似のできない生き方だった。
ああ、いや。
他人の生き方なんて、他人の物語なんて。
真似できるものではないよな。
裏技でも使わない限りね。
――やがて退屈な朝課外が始まり、学生の本分であるところの授業が続く。 教師が吐き出す言葉と書き出す文字を見聞きして紙に写して。時折返答を要求された者が立ち上がり答え、小テストというお題目で実力を試される。実際のところ小テストで試されるのは実力ではなく、ただの暗記力なのだけれど、試験の多くは暗記なので、まあ間違ったことではないだろう。
暗記。
覚えること。
忘れないようにすること。
感じ入りそうになりながら。勉学に励むことで、なかったことにした。
なかったことにしても、ないことにはならない。いつかは必ず思い出してしまうのだから。
やがて昼休みがやってきた。生徒たちは各々自らの選択したご飯を胃に入れている。それは食堂の定食であったり家人や自分の作った弁当であったり様々なのだけれど。
僕はコンビニで購入した菓子パンをお腹にいれることにしていた。僕は燃費がいいのか悪いのか、空腹を感じるまでにとても時間がかかる。軽食程度でも全然動けるので燃費がいいということにしておこう。お金も使わず、お腹が膨れる。いいじゃないか。至高の昼食だ。
僕ともう一人の問題児(とされている)観夕は驚くべきことに野菜ジュースだけで昼食を乗り切ろうとしていた。金を持っているくせにどうしてそのようなことをするのか理解できなかったが、そのうち彼女に興味ありな女生徒を中心とした集団がやってきて、食堂へと向かっていった。ううむ、また奢ってもらうのだろうか。美少女とはかくも無慈悲で無遠慮で、お得なものなのだ。冗句っぽい。
そのようなことを考えていたところ、僕とは真逆の位置にあたる扉の付近が多少騒がしくなった。僕は二百ミリリットルの紙パック牛乳をストローで啜りつつ、適当に目を向ける。
なんの期待もなく、ただ周りがそうしているから自分もそうする。それだけの行動だったというのに、僕の目は見つけてしまった。
「せんぱーい! なばりやせんぱーい!」
「……波佐見愛思ちゃん」
元気に跳躍運動をしながら、ちぎれんばかりに右腕を振りまくっている後輩の姿がそこにあった。甲高い声もおまけについてきた! 嬉しくない!
ぼっち野郎に来客か、という驚きの感情が教室に渦巻いた気がした。だから僕が彼女と完全に目があったというのに全力で知らない振りをするのも、不可抗力というものなのだ。ああ、不可抗力というものなのだよ、絶対に、誰がなんと言おうと。
が、現実というのは非情で無慈悲なものだ。美少女と同じくらいには。
気づけば僕の机の横。二年生の教室には似つかわしくない、赤色の上履きと赤色の文字。青の中に赤が混ざれば、目立つに決まっている。教室中の視線という視線が僕らに集まっているのを肌で感じる。冷や汗が出そうだ。
「せんぱい、無視しないでくださいよーおー。こんにちは、せんぱい!」
「あ、ああ……こんにちは、愛思ちゃん。今日も元気そうでなによりだ」
そのままお帰り願いたい。
「めぐっちじゃん、どったの」
そのうち昼食から帰還した皆人と霞がやってきて、愛思ちゃんを迎えた。家庭科部のメンバーであることを知ってか知らずか、周囲の生徒もだんだんと興味を失っていったようだ。
「霞せんぱいにおとどけものでーす」
左手に持っていたクリアファイルをそのまま渡す愛思ちゃん。ファイルがとても女の子女の子したキャラクターに彩られている。一方どちらかというと男子生徒に混じっている方が似合うような女生徒である霞がそれを手に持っているのは、些か不似合いであった。失礼なことだけれど。
「これは……回覧? 別に部活の時でもいいのに」
「善はいそげといいます!」
突然僕らのもとへやってくることは果たして善なのだろうか。まあ決定的な善悪などこの世には存在しないことだし、愛思ちゃんが善として判断したのなら善なのだろう。愛思ちゃんの中では。
「やややー?」
当人の目は僕に向けられていた。正確には、机の上に置かれた菓子パンの袋。中身は半分ほど残っている。
「せんぱい、大変しつれいなことをおききしてもよろしいです?」
「失礼かもしれない、ではなく失礼なこと、なのか……。まあ何を言おうとしてるのかわからないし、とりあえず『どうぞ』と言ってみる」
愛思ちゃんは右頬に人差し指を当て、小首を傾げ。非常に愛らしいと形容されるにふさわしいポーズを取り、唇を動かした。
「もしかしてもしかすると、それがせんぱいのご昼食です?」
「そうだけど」
何か問題でもあるのだろうか。
肯定の返事を受け取った愛思ちゃんは驚愕の表情を取る。表情豊かな子だ。羨ましいね。
「だめですよ!」
なにが、と聞き返す間もなく、愛思ちゃんは勢いのままに続けた。
「男子高校生の昼食がそんなひんそーなものではいけません! たんとたべなければいけません!」
「お……おう」
僕の至高の昼食を貧相だと罵られた気がしたけれど、僕はこういう明るく勢いのある状況に弱い。闇は光に弱いのである。自分が闇属性モンスターだとは思わないけれど決して光属性ではないだろう。何も言えずに頷くことしかできなかった。
「もしや――ふだんからあまりおいしいものを食べられていないのではっ!?」
どうしてそうなるんだ。
「結構いいもの食べてるぞ……あー、レトルトカレーとか好きだし」
例として用いるものを間違えたが、みゃこさんに連れて行ってもらった料亭とか、あんまり声を大にして言えるものではない……というかそうすると霞や皆人の注目を引いてしまうので、言うに言えない。ある意味ファインプレイかもしれなかった。
「なおさらだめですよー! そんなふけんこーな食生活はいけません!」
「とはいってもね。僕は別にこれに不満なんかない。結構美味しいよ、愛思ちゃんも食べないわけじゃないだろう?」
「そりゃあおやつくらいには食べますけどっ。主食にしちゃいけません、いけませんよー!」
喧しいというか姦しいというか。相変わらず光属性で、正しい子だ。
「せんぱいが食生活をあらためないというのならー! このめぐっちがおべんとう作ってきちゃいますからねー!」
愛思ちゃんはその発言を思考の外から持ってきたようだった。つまり、何も考えていなかったらしい。自分の発言を耳から脳に戻して初めて反芻し、意味を理解したようだった。
「あたし、おべんとうつくるっていいました?」
「僕の聞き違えや勘違いや意味の取り違えがなかったのならおそらく、言いましたね」
「んーんーんー」
目をつむり、しばし唸り、考えに考え、そして。
「……では、またあしたですねー」
「今日も部活あるだろー」
冷静に突っ込んだのは皆人であった。助かる。この電波な娘を相手取るには僕一人では役者不足だ。突っ込みを入れる場所を間違えているのは良くないが。
「とにかく、あしたをおたのしみに!」
何故か平坦な胸を思い切り張って見せた愛思ちゃんは、踵を返して退室。
なんだったんだろう、この嵐のような流れは。これから二時間、プラス一時間放課後課外が残っているけれども、一日分の疲労を得たような気分だ。
もう帰りたい。
最近はまるで出来の悪いライトノベルみたいな展開が続いてる。
もう帰りたい。
どこへ帰るのか、そもそも帰る場所など。
どこにもないけれど。
4.
金曜日。週末。
家庭科部である。体験入部期間はまだ続いている、ということで有無を言わさず霞に連れて行かれた。皆人も爽やかににやつきながら同伴している。
こんなことをされながらも霞に対しては負の感情を抱けないから不思議だ。喧しく、鬱陶しく思ってしまう愛思ちゃんとは対照的だ。
愛思ちゃんを鬱陶しく思ってしまうのは、僕のせいだけれど。ちらつくんだから仕方ない。あいつが残した影は、濃すぎる。
観夕製作の味噌汁の味くらい濃い。
今日は僕も観夕も一緒に料理の練習を行っていた。味噌汁を作ろうということで湯を沸かし出汁を取り野菜を切り豆腐を切り味噌を漉し。
そんな単純な作業であるというのにも関わらず、どうしてこうも味噌の主張の激しい味噌汁が出来上がるのか。なかなか理解に苦しむ。わからないことがあるのは不快ではあるけれど、これはどう足掻いても理解できそうにない。観夕が真実を明らかにしてくれるわけもない。
「濃いな……」
「濃いね……」
「…………」
味見を実行した皆人と霞も同意見、ということで僕の舌が狂っているわけではないということが証明された。当の観夕は普段と変わらず美味しくもなく不味くもなさそうに味噌汁を啜っている。ペースが早いので、実はこれが好みの味なのかもしれないが、訊いたって教えてくれないのが彼女だ。
まあ決して食べられないわけではないのが救いか。余計なことを言うとあとで殴られそうなので黙って飲み終える。
いつも煩いくらいの愛思ちゃんは、僕の対岸の椅子に座り、味わっていた。観夕と同じ舌をしていて満足している――というわけではないな、あまりに静かで、あまりに神妙すぎる。あの娘になにがあったのやら、味噌汁をじっと観察しているように見えた。普段から観夕とは違うベクトルで何を考えているのかわからないところがあるので、この子に関しても理解を放棄することにした。興味を惹かれるようなところもない。
と考えていたのだけれど。
「せんぱい、せんぱい。なばりやせんぱい」
「なんでございやしょう」
今日は静かに、というわけにはいかないらしかった。
「せんぱいは、おみそしる、どんな味がおすきですか」
普段よりはテンションがいくらか落ちている、ように思う。ローテンションとまではいかないが。
「少なくとも」観夕の顔色を窺う。「これよりは薄味の方が好きだな。あくまでも個人の好みとして、美味しいかどうかは考慮せずに」
観夕からの反応は特にない。良かった、センサーに引っかからなくて。
愛思ちゃんからの反応はわかりやすかった。喜怒哀楽の喜だ。
無防備な笑顔。どこかの誰かを思い出す、笑顔。
「やった! じゃあせんぱいもめぐっちとおなじ、うすあじがおすきなのですね! うふふぅ!」
この好意の安売りはなんなのだろう。やはりどこかの誰かを思い出さずにはいられないのだけれど、それはそれでこの子に対して失礼だと感じる。
「――おれも薄味が好きだな。豆腐ももう少し柔らかい方がいい」
一人称から皆人と判断、しかけたが。声としてはあまり聞き覚えがない。
僕の隣、学ランを崩さず、正確に着込んだ男子生徒。
黒い短髪。かといってスポーツマンというわけではなく単に短くしているだけといったような風情。顔つきも精悍でもなく丸いわけでもなく中間。痩せているわけでもなく太っているわけでもなく、中程。胸に留められたネームプレートが裏返っている――我が校では犯罪防止の観点から授業終了後は裏返すように義務付けられている――ので目線を下げて上履きの色――緑から判断するに、三年生の先輩であることがわかる。
平凡という字をそのまま人間にしたような男だった。
んっと。
えーっと。
どなたでしたっけ。
家庭科部にいらっしゃる緑色ということは間違いなく僕の先輩で家庭科部の年長なんだろうけど。こんな方いらっしゃいましたっけ。ぼんやりと輪郭だけは思い出せる、ような。
ようく記憶を探ってみると、確か昨日、最初の挨拶の時に部長付近で見たような。三年生だから当たり前のような。なんだろう、この曖昧さ。家庭科室以外でも見たことあるような気がするが、同じ高校に所属する生徒なのだから校内のどこかで見かけていても決して不思議ではなかろう。
肝心の名前を思い出せないので脳内での名前を『先輩A』として定義しておく。今更名前を訊くのも失礼だし、学校という機関の便利なところは、自分より上の立場の人間であれば敬称に類する言葉で個人の判別が可能だということだ。
しばらく黙ってしまったが沈黙というのは人々が嫌う雰囲気のひとつだ。僕は適当に言葉を選び出し、舌に載せた。
「先輩もですか。僕は白味噌の方が好きでして、同じく豆腐も崩れそうなくらい柔らかい方が好きですね。細く切った大根なんかも入っているとなお好みです。ここにはキャベツしかないので仕方なくはありますが」
途中で気づいてしまったがこの会話の続け方は大きなミスだった。机の向こう側から明らかな敵意を感じる。照射しているのが誰かは知りたくない。
しかし不思議なことは、敵意の照射源がひとつではないことだ。僕の隣の先輩Aからもわずかながら、マイナス感情の発露を感じる。
凡庸な笑顔の中に交じる、一滴の敵意。僕の中に存在する感覚機関が、その負の感情に対し敏感に反応していた。
しかし、言葉は。
「おれと同じだね」
大抵『普通の会話』の場合、同意というのは好意に等しい。敵意や悪意がない限り、誰かと仲良くしたければ同意すればいい。受け入れられない主張でもとりあえず同意を示しておけば、関係が崩れることはない。瞬間的には。
「……ええ」
僕がよく使うとりあえずの同意。僕は決して彼に心からの同意を求めたわけでもないけれど、とりあえず同意してもらう中に敵意を混ぜてもらうことも求めていない。彼の敵対感情は、一体どこから湧いてくるものなのだろうか。
まあ、そりゃ。心当たりはいっぱいある。
家庭科部というものは文化部で、体育会系の部活動ほど真面目ではない適当なグループだ。仲良しこよしのグループに僕みたいな奴が入ってきたら、そりゃ気に入らないだろうさ。女部長も僕と観夕には極力関わらないようにしているのを見るに、好意的にとらえてくれていないようだし、さっさと抜けるに限る。
でも悪いのは僕じゃあないんだぜ。霞や皆人、愛思ちゃんに文句を言ってくれ。
観夕にも、僕にも。
あなたがたと仲良くする気なんて、これっぽっちもないのですから。
だというのに。
どうして僕と観夕は、愛思ちゃんだけでなく、霞や皆人と帰り道を共にしているのだろう。
放課後だ。部活終了後だ。帰り道が同じ方向ということらしい。だからといって帰り道を一緒にすることにつながる意味がいまいちわからないけれども。
何故だ。
「そういえば俺さんねー、ちょっち気になってたことがあるんだよなー」
「え、何」
会話の中心は主に霞と皆人だけれど。
今度は僕に飛んできた。
「伏見山さんも隠居も仲いいみたいだけど、知り合いか何かだったん?」
仲が――いい?
「知り合いには見えたかもしれないけれどこれで仲良しの友達同士に見えるのなら眼科で精密検査を受けることをお勧めする。皆人、きみのためを思って進言しているので失礼に思わないでほしい」冗句抜きで。
観夕の方も同意なようで沈黙している。彼女の行動としては沈黙がデフォルトなので断定はできないけれど。
「はっははは。やっぱり面白いよな、お前」
「隠居はもう少しつまらない人だと思ってたんだよね、あたしも」
「おいおい、俺は隠居のことをつまらない男だなんて思ってなかったぜ。全く失礼なやつだなー霞は」
「なあっ!?」
しかし、彼女が転入してきた理由を知りたくて話しかけてしまったのは失策だったな。既に仲良しだと認識されつつある。昨日の愛思ちゃんといい、今の皆人と霞といい。
僕と観夕は仲良しなんかじゃない。謙遜でもなく、ただの事実として。付き合いが長いのは本当だが、彼女と親しかったことなどこれまで一度もないし、今後一度も発生し得ない感情だ。
相変わらず騒いでいる霞と皆人に対し、愛思ちゃんは静かだった。家庭科部での活動から一転、再び物事を考え続けている。この子でも悩むことはあるのだな、と失礼なことを思った。
彼らとは別に同行者がいるのを僕は感じ取っていた。
同行、というよりも。
尾行といった方がより正しい。
僕の十五メートルほど後ろを歩いている、その男。平々凡々とした顔の男。薄ぼんやりとした記憶を参照するに、先輩Aのようだ。
しかしいまいち自信がない。影が薄いというか。霞霧子という霞んだ名前よりもずっと霞んでいるというか。
尾行というよりはただ単純に帰り道が被っているだけなのかもしれない。前に知り合いがいるが話しかけるほどでもない、なんてことは普通にありえるのだから。
ま、僕は彼に嫌われているようなので、向こうから避けてくれるのならありがたい。余計な波風が立たないし、世話も焼かれることがない。そういった意味では賢明な先輩なのかもしれなかった。
視線を感じるけれども、そりゃあ前を歩くものがあればこちらを見もするだろうと好意的解釈でお茶を濁す。お茶は濁ったものだと思うし、それが普通普通ー。普通ってことはいいことなんだよー。
「伏見山さんは普段どんなことしてるの?」
「……食べてる」
「食べてる? 何を?」
「甘いものとか」
「おん? 甘党なのか?」
「嫌いじゃない」
「へええ、じゃあ今度あそこのアイスクリーム屋行ってみようぜ。自分で色々トッピングできて面白いんだ」
「わかった」
「甘いもの好きでその体型ならすごく羨ましいな……」
「運動すればいい」
「耳に痛いねー」
会話の区切りがいいタイミングを見つけて僕は告げる。
「それじゃあ僕はここらで曲がるんで、お別れだ」
てっきり観夕もついてくるものだと思ったが、どうも今日は違うらしい。
「…………」
「コンビニでお菓子買ってくみたいだよ」
翻訳者は霞霧子女史。
コンビニでお菓子……。昨日は妙に僕につきまとってきていたけれど、それはもういいのだろうか。彼女の優先順位の上位には甘味が来るのか。まあ別れてくれるというのならそれでいい。僕は一人の方が気楽なのだ。
気楽なはずなのだが。
何故か皆人と愛思ちゃんがついてきた。このまま徒歩で自分の部屋まで帰るつもりなのだけれど、どこまでついてくるのだろうか。
「んー。あー」
皆人はよくわからないうめき声を上げているし、愛思ちゃんは相変わらず黙ったままだ。僕にはどうすることもできないし、いつも通り静かに歩くことしかできない。
大通りに出ると、車道の交通量が増える。大型トラックがヘッドライトをぴかぴか光らせながら、轟音を立てて走って行った。
「あのさ、隠居」
「はい」
最近は名字を呼ばれることが多いな。
「ごめんな」
「……何に対して謝罪しているのかがわからない。ので、実況解説を求めておく」
「力不足で」
「何に対してなのかわからないままだぞ……」
皆人は後頭部を掻いた。
「いやね。俺も霞も隠居と伏見山さんを馴染ませようと思って無理に引き込んでさ。家庭科部にまで入部させてさ。結果的には上手くいってなくてさ。今日は先輩がなんかぴりぴりしてたしさ」
「見てたのか。つうか僕らは『入部』じゃなくて『仮入部』だろ」
そこで皆人は「しまった」というような顔をした。口が大きく開いている。
「あー……まあ、いつかはバレることだとは思うから言うけど、もう隠居も伏見山さんも入部してるよ」
「は?」
「仮入部届け、書いたろ」
「僕が名前書かされたやつか」
昨日の紙切れを思い出す。
「あれ、本当は入部届けなんだよ」
「そんなはずはない。ちゃんと仮入部届けって――」
「仮の字を足したんだんだよ」
じゃあ無効じゃねえか。
と言うと、皆人は悪びれた様子で告げた。
「消えるボールペンでそれっぽく仮の字を足した」
今度は僕が口を開く番だった。
「ごめんって」
「……ってことは僕もみゆ――伏見山さんも由緒正しき家庭科部に所属する部員ということになるんだな」
「悪い!」
素直に頭を下げられては、なけなしの毒気も抜かれてしまうというものだ。ただでさえ皆人には悪感情を抱きづらいのだ。その点は霞も同様だ。不思議と悪い感情が湧いてこない。僕の持つ『物語』――もともとの性質もあるだろうけれど。だからこう言うしかないのだ。
「いやうん、まあ。いいよ別に」
特に何が変わるわけでもない。
「ありがとうな」
だからありがとうと言われる筋合いもないというに。男子生徒の爽やかな笑顔を見ても嬉しくない。
「んじゃ、まー。俺っちは帰るよ」
本当はこっちじゃねーんだ。そう言って再び笑いながら、皆人は道を戻っていった。わざわざ謝罪するためについてきたらしい。なんというか、軽妙な男だとは思っていたけれど、こんなに律儀な男だとは思わなかった。
「愛思ちゃんは」
「ほわいっ!」
突然話しかけた僕も悪いと思うけれど、夜道でそんな声をあげてはいけないと思う。もし僕が変質者だと思われたらどうするんだ。ここは駅前繁華街に近い。こんなに善良な市民である僕を牢獄にぶち込みたいのだろうか。まさかそんな黒い本性を隠していたなんて、やはり女の子は怖い。
なんて被害妄想を冗句的に考慮して、続ける。
「どっちがおうちなのかな。僕はそろそろ曲がるけど」
「えと。じゃあ、えっと」
人差し指同士をつんつんする子なんて初めて見たぞ。あ、いや、現以外で。
「せんぱい、スーパーについてきてもらっても、いいですか?」
「……すーぱー?」
マンというわけではなかろう。この子が示してるのはおそらくスーパーマーケットという生鮮食料品店のことを指している。
ちょうど先に行ったところにスーパーマーケットがあることは、僕も知っている。
「おべんとうの材料を買いたくって」
「僕は別に買うものもないし」
部屋にはカップラーメンやインスタント食品などの備蓄がある。なければみゃこさんに奢ってもらうことだってできるのだ、えっへん。決して威張るようなことではない。
「えあっ……ご、ごようじでもあるのですか?」
「そりゃないけど、ないからといって誰かに割くような時間も」
と言いかけると、水が溜まり、今にも零れ落ちそうになっている瞳に気がついた。
や、やめろ。この時間帯のこの場所、周りに人は少なくないんだぞ。
鼻水まで垂らしかけている愛思ちゃんが追い打ちとなった。
畜生。
僕は後輩に言われるがままにスーパーマーケットに入店することになった。
そういえば視線の主はいなくなっていた。帰ったのかな。
何故か僕がプラスチック製の籠を持ち、愛思ちゃんが選ぶ食材をどんどん詰め込んでいく。主婦だってこんなに買わないだろうという量を、迷いなく。何故か楽しげに笑みを浮かべ、学校での沈黙が嘘のようにはしゃぐ後輩。
レジで取り出したかわいらしいキャラクターのあしらわれた、少女っぽい財布の中に収まったお札の量が思ったよりも多かったのが意外だった。お金持ちの家なのだろうか。羨ましいことだ。
それから店を出て、別れた。家までついてきてと言われたらどうしようかと思っていたが、杞憂で済んでよかった。
店の前で真逆に別れ、愛思ちゃんは元気よく手を振っていた。
僕はやる気なく片手を挙げた。それだけで満足したらしい愛思ちゃんは、背を見せて歩いて行く。
その一瞬。
また視線を感じた、ような気がした。
気がしたというのは、本当にその一瞬のみだったからだ。
それ以外には、何もない。
この時は。
なにもなかった。
了。