1.裁断

作:宴屋六郎



0.

 たんてきにもうしあげると、みんなみんな、あたしが殺してしまいました。
 せんぱいへ。
 あたしが告白することがあるのなら、その一点のみ、がただしいのかもしれません。
 でも、あたしはあなたにつたえたいことがありました。
 ただしく伝えるために、あたしはこのながいお手紙を書くことにしました。あたしのことをすべて知ってもらいたいのです。
 せんぱいにだけは、知っていてもらいたいのです。
 あたしがおかあさんをばらばらにしてしまったことも。
 せんぱいたちをばらばらにしてしまったことも。
 すべてあたしのせいなのです。あたしだけのせいなのです。
 あたしはこれまでの人生で、縁を切りつづけてきました。
 それがあたしの、どうしようもない生き方なのです。
 一期一会。いつだったか、せんぱいが教えてくれたことばです。あたしのそのとおり、一期一会で生きてきたのです。
 ひとを、切りつづけてきました。
 あたしの意思で。
 だから、おかあさんもきらなければいけませんでした。
 縁と、からだを。
 しょきしょきと。

失望奇譚集――奇談1
********

1.

 しょきしょきと鋏が走る。
 右手に握られた一対の刃物は、紙を容易く切り取っていく。無軌道に、しかし曖昧に形を切り取っていく。
 我が主こと、宿世現との工作遊びだったのだけれど、当の彼女はすでに眠りについていた。遊び疲れてしまったのだろう。数えて十七という年齢であっても幼い身体を保ち続ける現は、その幼児のような身体の通り、疲労を蓄積しやすいのだ。
 一般的に子供は疲れを知らず、その元気さを貯蓄しておいてもまったく問題なさそうなものだけれど、彼女は年齢が年齢だけに、どちらに含めて数えていいのか非常に困る。スーパーひとしくん人形を一個乗せてる程度には悩む。
 答えが出ようと出まいと、あまり関係ないのだけど。
「だいたい紙相撲をやろうと言ってきたのはお前の方なのにっつう話だよな」
 日曜の昼間。小さな寝息を立て、自らの細い腕を枕にしている現を横目で見つつ、ひとりごちた。
 ヒトガタに切り取り終えた厚紙を、弄ぶ。
 僕の手の中で生殺与奪を握られた不恰好なヒトガタは、しかし無反応であった。そりゃそうだ、ただの紙だもの。生でぴちぴち、獲れたての人間のごとく恐怖に震えるというわけにはいかない。
 獲れたての人間を調理していた異常者のことを思い出す。
 ――直近の記憶を再生。
 僕は喪服を着ていた。
 とはいっても、喪に服すためだけに背広を用意できるほど余裕があるわけでもない。単に学校の制服が黒に近い色であり、喪服としての利用が可能であったというだけである。
 行方不明であった晦日籠が、遺体となって発見された。
 晦日籠――あるいは天田和良。どちらでもなく。また、誰でもない彼、あるいは彼女の葬儀に出席した。
 出席したって言葉であってる? 参列した? まあいいか。どうせお通夜とお葬式の違いさえもわからないのだから。
 いかにも後輩といった体で死亡を悼むイベントに参加者として登録した僕。晦日は誰からも好かれるタイプの人間を演じていたようだったから、楽だった。
 彼の親族の関係と、彼自身の功績のためか、警察屋さんらしき人物が多かった。纏っている雰囲気が剣呑なのだ。一般人からは香ることのない匂いが染み付いている。
 たとえそれは、葬儀が土砂降りの雨の中で行われていたとしても、変わらなかった。
 金持ちらしい、豪邸と形容しても恥ずかしくない家の庭。そうそう、葬儀は彼の家で執り行われていたのだ。僕は庭で、佐藤さんの姿を見た。
 彼は真剣に、晦日籠の死を悼んでいるように見えた。赤く充血した目が無言でありながらも饒舌であったためだ。
 僕とともに殺されかけたというのに。佐藤一郎は晦日の死を悼んでいた。
 それが一般的な感覚なのか、あるいは佐藤さんの稀有な才能なのか。僕には判断できない。
 しかし。
 晦日籠。なのか、天田和良なのか。最終的には本人にすら己が何者なのかわからなくなってしまった物体に対して、どのような感情を抱けば正解なのだろう。
 彼らが晦日籠として認識しているその遺体は――廃墟で発見された他殺体は――天田和良であり、またはそうでないかもしれないあやふやなものだというのに。
 連続誘拐犯であり、連続殺人犯でもあるというのに。
 後者はほとんど発覚していないというか、被害者が物理的に残っていないので微妙なラインだけれど。この人生における一大イベントを開催している家族たちも、殺される予定に組み込まれていたというのに。
 人が死んだ。悲しい。だから泣く。
 滑稽だった。
 だけど、多分それで良いのだろう。
 僕と晦日。
 天田と晦日。
 僕らにはわからなくても、関係のないこと。
 僕は葬儀に参加した目的――彼の日記となっている手帳を取り出し、適当にめくった。
 目に付いた文字があった。
「恋だの愛だのくだらないんだよ」
 生前の晦日籠が綴っていた言葉。口にしたかもしれない言葉。
 この場において共感できるものはひとかけらも存在していなかったけれど、晦日(仮)が遺した言葉は、僕の心によく溶けた。
 然り、然り。
 確かに。
 その点においては僕も同感である。天田と晦日。
 家族に対する無知というのはひとつの幸せというものだな。冗句抜きにして。
 証拠として、お前のことを何ひとつとして知らなかった家族は、あんなに幸せに泣くことができている。悲しみに浸ることができている。それはとても幸せなことなのだろう。
 あいつはいいやつだった。
 イベント会場のどこでも聞ける言葉だ。マイナスの感情を抱くことなく純粋に悲しめている人ばかり。やはり幸せなことだろう。
 知っていて、それでも泣けるのは。佐藤一郎という男は。
 いったい何者なのだろう。
 鈍感なのか、優しいのか。底抜けの馬鹿なのか。
 僕には人間のことがわからない。彼を観察しても、わかることは何もなかった。いつか解明する必要がある。
 恐らくだけれど――彼は僕が晦日という存在を殺したことに、気づいている。
 直接教えたわけではないけれど、ともに《破壊魔》に命を狙われたこともあり、《サナトリウム》の協力者ということもあり、講義したこともあり。
 状況から判断していることだろう。特に彼は、ああ見えても刑事なのだから。その程度の判断くらい、できてもらえないと困る。たとえ彼が、僕らにとっていいように情報を引き出すための『端末』に過ぎなかったとしてもだ。一定のラインは超えてもらわなくてはならない。そうでなければ、端末に情報がインストールされることもない。
 端末である彼が僕を見た、ように見えた。少なくとも、僕は彼と視線を交錯させた。
 だけれど、それは一瞬のうちに終わってしまった。逸らされたのか、それとも僕に気づいていないだけなのか。僕はどちらでも良かった。なんにしても僕は人と視線を合わせることが苦手でしょうがないのだから、しないで良いのならしないに限る。冗句じゃないのが悲しいところ。
 というのが昨日の話。なんとも楽しいイベントであったことよ。ほっほっほ。
 冗句だよ。楽しくもなんともなかった。もっとも僕は、そんな気持ちを過去に放っておいてきてしまったので、楽しくも悲しくもあったものじゃないんだけど。
 まあ比較というものはできる。幸福度を数値化すると、昨日の葬式イベントがマイナス十くらい。対して、今目の前にあるものはプラス十くらいになるのではないだろうか。一般的な感覚に基づくのなら。
「いおりーんー?」
「物思いにふけっていたのは正直に謝るけれど、注意を引くためとは言っても髪を抜かないでいただきたい。今後の育毛方針に関わってくるから」
 白色に染まった彼女――宿世現が僕の髪を一房掴んでいた。
 先ほどまで眠っていたはずなのだけれど、気づけば僕の髪を持って行こうとしている。
 人質ならぬ髪質を取られている。すでに数人が犯人による犠牲となっている。これ以上尊い犠牲を出すわけにはいかないので、僕は交渉人を召還することにする。
 僕は両手を突き出した。
「ぬ?」
 我が一族に伝わりし奥義を食らえ。
「みゃああっはっははははははははははははは!」
 この世のものとは思えぬ奇声をあげて、現は笑った。
 そう、笑ったのである。
 笑わせているのである。僕が。
 脇をくすぐって。
 外部刺激による脱力で彼女の手が僕の黒髪から離れる。力を入れるべき場所がわからないのか、指が大きく広げられ、がくがくと震える。表情筋を目いっぱい使って笑い声をあげる彼女は、もはや何も考えていないようだった。
 うむ。これでよい。
 楽しませろという願望だというのなら、それでいいだろう。
 特に今日は、彼女が白い。いつもの白に近い白金よりも、もっと白に近い。この世のどんな物でも、彼女より白くなることは難しいだろうというほどに。
 アルビノ。今の彼女を示す言葉があるなら、それがもっとも相応しい。
 彼女が全身の色素を抜いてしまうときは、大抵何かの色に染めてほしいという無意識の表れだった。
 昔からの付き合いだから、知っている。
「あっふうー! しかえししちゃうんだからねー!」
「僕は昔から脇が強いのだ。効かぬ効かぬ。我にはどんな力も効かぬよ効かぬよ」
 いつもの白金の髪と、陶磁のような、きちんと色のある方の白い肌に戻りつつあった。
 彼女が望んだものはすべて望むようになる。こちらのほうが彼女にとって元の色ではあるけれど、さっきも述べたみたいに気分によって変わってしまうし、それは人間にとっては決して『自然』なことではないと思うので、戻してあげなければならない。時々だが、こういう瞬間が訪れる。
「自然、自然ね……」
「どしたのー? にあわないよ、そんな顔。なやんでたらはげちゃうよー」
 余計なお世話であった。
 僕は目の前に広がっている自然に目を向けた。
 いつもの屋上植物園。宿世現にのみ与えられた楽園。四季様々な草花が絶頂を保ち続ける狂風景。
 彼女が望んだ、楽園の絵。
 彼女が座り込んだ地面には緑色の葉――クローバーが群生していた。
 青々とした芝生の中にクローバー。まあそれはいい。牧歌的な光景で、大抵の人間にとっては好ましい風景ではあるだろう。
 けれど。
「いおりん、だっこ」
「はいはい。どうぞお入りください」
 僕は彼女の背を抱く。柔らかに。不快感のないように。
 淡い水色の寝間着と僕の制服を介して、太陽のような熱が肌に伝わる。
 現の体重によって倒れていたクローバーたちが、何事もなかったかのように立ち上がっていた。最初から彼女なんてなかったかのように、理想の形に。
 僕は無感動に彼らを見つめた。
 それらはどれも四枚の葉によって構成されていた。
 幸福を示すクローバーの理想形。
 目の前に群生しているクローバーたち、すべてが四葉だった。
 ギネスブックなんかによると世界にはもっともっと稀な、何十枚もの葉をつけたクローバーが存在するらしいけれど、彼女の知っている中では四枚が限界だ。とはいっても、数十枚の葉をつけたクローバーが実在するということ、それが幸福の象徴であるということを彼女が知ればこの群生したクローバーたちも僕が見たこともないほどに沢山の葉をつけることになるのだろう。
 緑色の、幸福の塊。
 可能性を捻じ曲げられて存在しているそれらのどこに、幸福があるのだろう。
「冗句だよ」
 全部冗句冗句。なに本気にしちゃってんのーもうばっかみたーい。と自分の中に生きる女子高生の魂を開放する。いや何言ってんの僕。さすがに今のは気持ち悪かったぜ。自分でも弁護しかねるので、そのまま処刑されてくれ。
 全部冗句に過ぎない。そういうことにしておけば万事解決する。己が内の問題も、外の問題も、すべて。
 いつの間にか寝息を立てている彼女の白金色の髪を梳く。
 僕にかけられた、あまりにも軽い全体重を少しずつ移す。
 そうして彼女を起こさないようにしながら――とはいっても彼女は他者からの刺激では滅多に目覚めないことがわかっているのだが――柔らかな土と芝生の上に横たえた。僕らの上で手を広げた葉の間から、陽光が木漏れ日となって彼女を優しく包んでいた。
 まるで眠り姫だ。
 乙女のような、安っぽい詩的表現が浮かんできたので死にたい。宿世現に毒されすぎた。またしばらく離れるべきだ。とは言っても、自分では彼女の希望に逆らうことが物理的に不可能なので、すぐに訪れることになるのだろうけれど。
 まったくどうして僕みたいなのが彼女に望まれているのやら。明確に存在感を放ち続ける心当たりから目を逸らして、僕は立ち上がった。
 迷いなく出口へ向かう。階段を降り、彼女の家を出る。家を出ても白塗りの廊下と高級そうな絨毯が広がっている。
 ここは宿世総合病院。彼女の領域、彼女が支配する王国にして、幽閉の地。
 カメラに合図をして完璧にカモフラージュされた隠し扉を開く。操作を行ったであろう、黒い背広を見事に着こなした受付さんと適当に世間話をして、エレベーターに乗り込んだ。
 重力を感じないままにしばしの時間を経て、一階に到着。
 病院のロビー。日曜日だというのに、あるいは日曜日だからこそ、順番を待つ『客』が多かった。病気に元気な社会という冴えない冗句が脳裏をよぎる。
 いつまで経っても使い慣れないスマートフォンを使ってバスの時刻表を呼び出す、のに四苦八苦する。八重葎さんがあんたみたいな機械音痴でも音声認識で楽に操作できるわよ、なんて言っていたけれど、いったいどうやって機能を呼び出せばいいのだろう。前に一時間ほど粘って探したんだけど、結局どうすればいいのかわからなくてあきらめちゃったんだよね。
 そもそも僕は断じて機械音痴などではないのだけれど。前の携帯電話なら使えたし。電話もメールもできたし。余計な機能なぞいらんのだ。うん。
 ようやく最寄のバス停の時刻表と経路が出た……。時刻はバス停に書いてあるからいいとして、どのバス停に止まるかまでは書かれていないのが面倒だ。こうやってバスの時刻表を呼び出しても、いまいち見づらい。まったくバスとは不便なものだ。乗り過ごしても修正が効きづらいのも、僕がバス嫌いになった理由だ。電車のほうがまだわかりやすい。どちらも客層は最悪なんだけどね。
 これから殺人の鬼へ捧げる供物を買いに行かなければならない。もし遅れると僕が殺されてしまう可能性すらある、危険な買い物だ。万全を期したい。
「ったあああああああああああっ!」
 携帯を制服のポケットにしまったところで。
 僕は銀色の刃を。
 視界の端に捉えた。
 凶器。人を殺傷可能な、対の形をした凶器。
 一瞬名前を引き出すことに苦労し、刹那で現在必要のない情報が引き出される。
 鋏だ。
 一瞬にして水分が生成され、寒気と同時に上から下へと伝う。特に背中、背中にしずくが流れ落ちる、鋭い刺激を与える。
「っ、と」
 端的に事実のみを示すと、僕は女の子に殺されそうになっていた。
 あれ、ここだけ取り上げると普段からすごく慣れている感じがするぞ? イニシャルMさんのことは言ってないよ。もちろん冗句であることを付け加えておく。
 『殺されそうになった』。
 その言葉が意味するところはつまり、結果的に殺されることはなかったということだ。
 ただ、女の子の『突撃』によって、僕は背中を強く打つことにはなったけれど。さすがに不意打ちには弱い。不意打ちでなくても倒れこんでいた可能性が高いのは冗句ということにしておけ。いいね?
 まるで少年漫画にありがちな展開だ――僕の上に重なった女の子を見て、思う。幸か不幸か、僕は後頭部を強く打つということはなかったので、さっさとどいてほしいものだ。だんだんと彼女の生温い熱が伝ってきている。
 かといって僕はさっと振り払うような真似ができるほど勇者ではなかったし、そんな力はどこにも存在しないのだけれど。
 しかし――女の子の反応がない。僕が下敷きになってほぼ無傷なのだから、霊圧が消えたというわけでもあるまい。
 ああ、そうだ。鋏。
 僕が無駄に冷や汗をかくことになった原因の鋏はというと、相変わらず彼女の右手に握られていた。
 どうやらすんでのところで惨劇は回避されたらしい。いくら僕が死にたがりであるとはいっても、こんなくだらない死に方だけは御免だ。冗句なんだけどね。
 しかし、なぜ彼女が鋏なんぞを右手に構えて持っていたのかはまったく理解不能である。
 というか本当にさっさとどいていただきたいので、不本意ではあるけど僕から声をかけなければなるまい。そろそろ周囲の視線も釘を打たれたように痛いわけだし。というかむしろ駆け寄ってきて助けてくれよ。
「えーっと。なんとお呼びすればいいのかわからないから僕の第一印象だけで名前をつけるけれども、ハサミちゃん。もしきみが良ければ、僕の日本語を理解できる生物なら少しばかり僕の上で昼寝することをやめてもらいたいのだけれど」
 我ながら回りくどい。そういう曖昧な言い方でないと進言できない己の臆病さにがっかりするね。
 僕の胸に顔を埋めていた(ここだけ表現すると大変いかがわしいが僕には現という将来を約束させられてしまった女性がいるので疚しい気持ちは一切ない。冗句かもしれない)女の子は、「はっ」と声を上げ、顔を持ち上げた。
 顔を持ち上げるということはつまり、僕の胸の上で顔を持ち上げるといういことになる。
 何が言いたいのかというと。
 至近距離で顔を見合わせることになる、ということだ。
 ハサミちゃんは一瞬ぱちくりと瞼を閃かせ。そして顔の表面すべてを朱に染めて。
「みゃおおおおおおおおおおおおおっ!?」
「わおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
 ロビーではお静かに。壁に貼られた注意をあざ笑うかのような大音声。女の子と僕との不協和音だった。
 至近距離でリコーダーのごとき高音を浴びせられてはたまらない。僕は正常な反応として叫んでしまったのだった。
 無論。
 その後看護師さんに怒られたことは言うまでもない。


2.

 ハサミちゃん――女の子はその名も波佐見愛思(はさみめぐし)といった。頼んでもいないのに自己紹介してくれたので、脳の片隅に記憶された。
 どこか見覚えが、既視感のある娘だった。
「あのう、ほんとうにごめんなさいっ!」
 高校生らしい、色を一切いれていない天然の黒髪を、お団子にしている。一口にお団子とは言っても、頭の両側面の塊から、さらに髪の束が背中のあたりまで伸びていた。一見自然だけれど、よく見ると結構奇抜な髪型だ。
 現も結構長いけれど、この子も髪をほどくと長そうだ。ひょっとすると現よりも長いかもしれない。
 そして既視感の正体に僕は行き着く。行き着くまでもなく、高校生であると認識した時点で思い至るべきだった。愛思ちゃんが着ていたのは、学校の制服だった。僕が通う、市立高校と同じ、藍色のセーラー服だったのである。
 セーラーに留められたネームプレートの文字色が赤色であることから、僕よりひとつ年下――高校一年生であることがわかった。ちなみに僕は青色、高校二年生。
 現とまではいかないものの、高校生どころか中学生に見えてしまう幼く愛らしい顔立ちをしているので、僕も怒りづらい。
 女の子に対して怒りを露わにするつもりも趣味も、ないけれども。
「怪我もなかったことだし、何も問題ないよ。ナースさんに怒られたことだけが少しばかり苦しかったけれど、それもある意味ご褒美みたいな面があるし」
 結局僕は背中を打っただけで済んだし。
 怪我については自分のことを述べたはずだったのだけれど、愛思ちゃんは盛大に勘違いしたようで「あたしのことを心配してくれるなんて……せんぱいはお優しい方なのですね」などとつぶやいていた。
 ま、都合よく解釈してくれるのならそれでいいさ。用事もないことだし、このまま愛思ちゃんに付き合うと、良くないことが起きそうな気もする。立ち去ることにしようじゃないか。
「それじゃあ愛思ちゃん、これからはよく気をつけて、鋏は刃の方を持つんだよ――」
 そうしなければきみは人を殺してしまうところだったんだから、と脅しの言葉につなげようと思ったのに。
「あーっ!」
 僕の声は愛思ちゃんのソプラノボイスにいともたやすく遮られることになる。これがいともたやすく行われるえげつない行為ってやつか。
「せんぱい、ボタン!」
「名詞だけで会話をしようとするんじゃありません」
 しかし愛思ちゃんの視線とぴっと立てた人差し指の先をたどることで、彼女の言わんとしていることがわかった。
 僕の黒い学ランの袖。通常ならボタンが二つ、夫婦のように留まっているはずなのだが、今は離婚協議のため別居中らしいな。一つしか残っていなかった。
 先ほどもつれあった際の弾みで飛んでいってしまったのか、あるいは――鋏に切り取られたのか。いやいやまさか、そんなはずあるまいよ。そんな神業、偶然にしたって確率はごく低いはずだ。
 周囲を見れば、椅子の下にボタンが転がっていた。
 僕の視線を辿っていたらしい愛思ちゃんも、鈍色のそれを発見する。僕の緩慢な動きとは対照的に、素早く屈んでボタンをつまみ上げた。糸の欠片らしきものが垂れ、ひらりと地面に落ちた。
「あああ、あたしのせいで……」
「あ、いや、大したことないと思うよ。一期一会って言うしさ、袖のボタンくらいなら、自分でも付けられ――」
「あたしが責任をもって修繕しますねっ!」
 二回目。愛思ちゃんに話を遮られた回数のカウント。
 どうやらこの小さな女の子は、思い込みが激しく、人の話を聞かない性質を持っているらしかった。
 しかし咄嗟に出た言葉とはいえ一期一会の使い方を間違っているぞ、僕。
「へへ……こう見えてもあたし、家庭科部なのです!」
 どう見えてなのだろうか。まあ自分が裁縫の似合う人間でないと思っていることだけはわかった。愛思ちゃんが言うほどに似合わないというわけではない。こういう愛らしい女の子は裁縫や料理が得意であるほうが世の男性諸君の理想に近いだろう。
 が、この娘は裁縫が得意だとは一言も言っていない。自分は家庭科部所属であるという情報だけが開示されており、どの程度の技術を持っているのか全くの未知数である。
 そこから考えると、この子に修繕を依頼するのは大変リスクが高いかもしれない。
 だから、断ろうと思った。
 のに。
「では明日! 放課後に家庭科室までおこしくださーい!」
 そう言い残して去っていった。僕のボタンを持ったまま。
 てっきりこの場で直すつもりなのかと思っていたけれど。まあそうか。この場に裁縫道具を持ってきているわけがないよな。だからといって明日にしようという愛思ちゃんの精神構造はなかなか理解不能だ。僕と同じ世界に生きているとは思えない。
 同じ世界。
 同じ世界ね。
 同じ世界に生きているわけではないことを自覚しながら自分でそういう言葉を使うのは良くないな。とても良くない。
 自分を戒めつつ考える。
 ボタンを買い直すというのもひとつの手ではあるけれど。
 今日は日曜日だ。制服店、やってるか、微妙。
 というか、制服の類はすべて学校側での注文で済ませていたので、そちらに足を運ぶのは単純に億劫だ。
 学校に書類提出に行って、帰りに病院に寄って現といちゃついて。時間が余ったので支部に行くつもりだった。
 春の事件の処理やらなにやら。先日参加したお葬式の話も、みゃこさん――僕の上司――は聞きたがっていた。
 まあ何にせよ、僕の袖は明日学校で修繕されるそうだから、良いではないか。破壊魔事件で長期休暇を満喫したあとなので、明日学校に向かうことが大変煩わしいもののように感じられるけれども。
 しかし。
 それにしても。
 これじゃまるで。
「巻き込まれ系受け身型ライトノベルの主人公みたいじゃないか」
 あまり、詳しくないけど。


 ――それから僕はいつものようにバスを使い、人工島をあとにした。バスで一時間程度、プラス徒歩で五分。だいたい一時間ちょっとで、中央区の外れにたどり着く。
 小規模な繁華街の影。裏通り。飲食店や一般の客相手の店舗は少なく、業者の入った雑居ビルが群れを成している。
 その中でも最も古臭く、おどろおどろしい雰囲気をまとった建物。そこが僕らの職場――職場と言っていいのか一瞬迷った――だった。
 今にも倒壊しそうな建物の中に入り、階段を踏みしめて登っていく。メンテナンスくらいしろと毎回思うけれど、これも意図的な構造なので仕方ない。ざらざらに赤錆びた手すりも、改善しろと毎回思うけど。思うけどさ。
 同様に肌触りの悪いドアノブを捻る。ようやく五階――伏見山観夕の居室兼みゃこさんの執務室に到達した。
 中に入るとやわらかな暖色の光と、ベージュの壁。ビルの外見からは想像できないほど綺麗で清潔な玄関。理想的なマンションの一室にしか見えない。
 これが内面美人ってやつなのかもね。人生の潤い、冗句である。
 廊下を歩き、最奥のリビングルーム。扉を開けると二人の女性が目に入った。
 二人でソファーに腰掛けている。
「……おや、庵さん……病院に行かれるということでしたので、今日はもうお会いできないと思っていたのですけれど……いやはや読めない方ですね……」
 向かって右側の女性――美彌湖。姓と年齢は不詳。
 白い肌、ラフウェーブの黒髪。黒いワンピースに黒のオーバーニーソックス。二の腕近くまで覆う黒のドレスグローブ。そして黒いマフラーで口元を常に覆っている。そろそろ暖かさを通り超えて暑くなり始めるはずなのだけれど、彼女は年中この姿で通している。
 僕の直属の直属の上司にして、《サナトリウム》不夜市第二支部長。《嘆き女(バンシー)》、《催眠術師》などなど色々なあだ名も持っているけれど、彼女は単純に自分のことをこう呼ぶように望んでいるので、その通りにする。僕は決して天邪鬼などではないのだよ。冗句かもしれないけれどね。
「みゃこさん」
「……はい、みゃこです……」
 相変わらずマフラー越しな上にか細い声なので、聞き取りに慣れがいる。が、わずかに微笑んだことが目の和らぎ方でわかった。ただしその目はこちらの視線と交錯することはない。理由は知らないけれど、彼女はめったに目を合わせようとしないのである。
 しかし、確実に微笑んでいる。目を合わせたがらないのは仲良くしたくないという意思の表れではないのだ。
 僕や観夕と違って案外表情豊かなのだけれども、顔の下半分を覆ったマフラーが仮面の役割を果たしているせいで慣れていなければわかりづらい。
 月光仮面か、あなたは。いや色も違うし。似ても似つかないけれども。
 ああ、そうだ。観夕と言えば。
 みゃこさんの隣に座っている少女がそれだ。
「…………」
 伏見山観夕。
 腰までの長い黒髪。深い深い闇色の瞳。端正な顔立ちをしているが化粧っけはほとんどないに等しい。黒いジャージを着用している。
 彼女が部屋着としてジャージを着ている場合は大抵髪を後ろに束ねているはずなのだが、はて。
 今は大変不思議なことに、その髪を下ろしていた。
 というか、みゃこさんに触らせていた。観夕がみゃこさんに背を向け、髪を触らせているように見える。
 見えるだけではなく実際にその通りなのだけれども、このような光景を今まで一度も見たことがなかったため、非常に驚いている。
「なにを、してるんです?」
「……観夕さんの髪の、お手入れを……」
 しているのです、と小さな声で続けるみゃこさん。見れば確かに、彼女は櫛を持っているし、ブラシや髪油のようなものが応接机の上に見える。
 驚くべきは観夕がされるがままになっているということだ。
 観夕は――この真っ黒な少女は僕やみゃこさんのように『こちら側』の生物である。僕らが《異常者》と呼ぶモノのひとつだ。
 寡黙で冷血な《殺人鬼》。完全無欠に他人を必要としない、天涯孤独。口癖は『どうでもいい』。
 他人が一定の距離以上近づいてくることを許さない。僕などが近づけば、ゆうに三回は殺されるだろう。
 そんな彼女が、自身の髪を他人に触らせている。
 明日は槍でも降るのだろうか。
「僕は今大変驚きを隠せないでいます。驚きを表現することで観夕に殺される可能性があったとしても、この驚きは言葉にせずとも漏れているでしょうから、もう仕方ないとして割り切ることにしました」
「……珍しく、冗句ではなさそうですね……」
「何があったんです? というか、何が始まるんです?」
 これから、と僕は付け足した。
 どこかにでも、出かけるのだろうか。それにしたってこんな光景は見たことがない。観夕は美しい少女ではあるけれど、自分の見目に頓着するような、可愛らしい女の子ではなかった。すべて、どうでもいいのだから。
「……第三次大戦だ、とお答えすると観夕さんに怒られてしまいそうなので口を慎みます……」
「どこかへお出かけでもされるのです?」
「……私は今少し忙しいところです……六分儀主任案件で、それどころではありませんよ……」
 本当に六分儀鬱子さんの案件が入ってきているのなら、今回は第二支部がバックアップに選ばれたのだろう。それは大変なことだ。彼女の任務はどの案件よりも優先される。忙しいどころの話ではない、はずだ。
 では本当に何があったというのだろう。観夕の髪の毛の手入れを行えるということは。
 すなわちそれは、仕事に必要なこと、だろう。
 みゃこさんはマフラーの向こうからもごもごと続ける。
「……明日になればわかります……」
「明日?」
 それまでは内緒です。
 みゃこさんは秘密めかして言った。
 さいですか。
 『ではまた明日!』と言った波佐愛思ちゃんの声を思い出す。どいつもこいつもあれもこれもまた明日。明日から本気出すってか。うーむ。
 僕は観夕を観た。
 これまで一言も発していなかった彼女は、僕の視線に気づき一瞬眉間に皺を寄せた。相変わらず嫌われているらしいな。伏見山観夕が僕に対して高機嫌であったことなど、これまで一度もなかったけれど。
「内緒」
 うん。
 なんだか嫌な予感をびんびんに受信しそう。今後の伏線となっては嫌なので断固拒否したいところだが、生理現象というか己の意思ではどうにもならないことなのでバッドエンド一直線って感じだ。僕に関係ないところで完結することを祈っておこう。
 みゃこさんが何かに思い至ったようで、僕の方に再び目を向けた(とはいっても相変わらず視線は合わないが)。
「……学校はいかがでしたか……」
「あ、それなんですけど。明日とても学校に行きたくなくなってきたので、もういっそのこと辞めてしまってもいいですか? 何故か明日も早朝から学校に来るように言われてしまいまして。きっと説教か何かだと予想します。もう一年ほど通うことができたのですから、そろそろ辞めてしまっても問題ないかと思いますよ。仕事に集中したいと思ってますし」
「……最後のは冗句ですね……隠居庵さんが職務に忠実であったことなど、これまで一度足りともありませんから……」
 ずっと忘れていたが、僕の名前は隠居庵(なばりやいをり)と言う。忘れそうになる程度にはどうでもいいことなので、忘れてくれて構わないよ、という冗句は伝わりにくいので今後改善の余地がある。
「……うふふ、学校を辞めることは許しません……私が遊女から怒られてしまいますからね……きっと庵さんにとっても学校生活というものは実り多いものだと思いますし……あなた自身が思っているよりずっと、です……」
 僕には決してそうとは思えないけれど、大人が言うのならその通りかもしれない。
 なんにせよ僕は進言できても自由などないのだから、こうして却下されれば反論する意味はない。僕の『ヒトとしての権利』は《サナトリウム》が握っているのだから。
 上司のみゃこさんの指示もあるし、更にその上――サナトリウム『院長』の吉原遊女の意向なら、そうそう変更は利くものではなし。
 つまるところ。
 明日こと、憂鬱な月曜日。
 久しぶりの登校を、しなければならないわけだった。
 ああ、そうだ。ボタンも直してもらわなければならないんだ。
「ままならないな」
 ままならない。


3.

 五月七日、水曜日。
 ゴールデンウィーク明けという高い壁を乗り越えて、僕は意を決して学校に登校した。
 いじめられっ子で不登校になった生徒が久々に学校に通う気持ちというのが少しだけ理解できた。わかりたくなかったけれど。
 ああ、でも。
 僕も中学校三年くらい通ってなかったな。小学校から、高校。いきなり飛んだし。人にはいろんな事情があるのです。たとえば――家族皆殺しとかね。
「この人生に登場する人物・団体はすべて架空の存在であり、フィクションです」ってか。
 確かにフィクションということにしておいたほうが平和だし、誰にも迷惑がかからないな。
 でも僕が七時から学校に呼び出されて(そのために六時半には家を出なければならなかったし、家を出るために五時半に起きなければならなかったんだぞ!)聞きたくもない体育会系男性教師の説教を受けなければならないのは全くをもってフィクションではないので安心してほしい。これこそフィクションにしてしまいたい、いや、すべきものだ。
 結局は以前校長や教頭に呼び出されたのと同様の内容。生活態度が悪いとか、意識が低いから無断欠席などしてしまうのだとか、何があったのか知らんが病気でもないのに休むのはいかんとか、そういう類のこと。
 みゃこさんも遊女さんも病気により休養とかその辺の工作をしてくれてもいいのに。できるはずなのにしてくれないというか。
 きっと自分の責任において管理するのが肝要とか、こういう理不尽に説教を受けるのも必要なことなのだとか思っているに違いない。
 体育会系男性教師は僕みたいなやつのことが嫌いらしい。それはまあ当然のことで、彼に好かれたいとは思わない。僕だって自分のことなんか好きになれそうもないし、そういう点では体育会系男性教師と趣味が合っていると言っても過言ではない。もちろん冗句なわけだが。
 化け物を殺す仕事に励んでいました! 努力を評価してください! だなんて言えるはずもないので、彼の説教を受け止めてすみませんと繰り返すしかないのだが、その控えめな行動自体が彼の癇に障っているらしい。
 すぐに謝ればいいというものではない、とのことだった。むしろ俺に逆らうくらいで来い、とか。
 うーん。暑苦しい。教育熱心で同僚や上司、一部の生徒からの信頼は厚いだろうけど、人には相性というものがあるので、僕の教育に無理をしなくていいと思った。僕にはもはや、教育の余地と意味が残っていないのだし。
 この体育会系男性教師もきっと悪い人ではないのだろう。終わりに近づいてきたころには、悩みでもあるのかとか友達はいないのかとか苛められているのかとか、心配しだした。むしろそれは、下手なお説教より辛いものがあった。特に友達はいないのかってくだりが。畜生いいストレート打ってくるじゃねーか。
 友達。
 ともだちね。
 口虚歪という言葉が浮かぶ。が、彼女と僕は、友達なのだろうか。
 ああ、いや、違う。質問を間違ってる。
 友達だった、のかどうかだ。
 きっとあの時はともだちだった。今は、どうなのだろう。答えはどこにも転がっていない。僕の中以外には。
 僕の中にある、僕の中でない部分。確かめることはできない。『僕』も『ぼく』も存在しないのだから、確かめようがない。
 思考が横道に逸れた頃には、説教から解放されていた。七時四十分から朝課外が始まるので、それに合わせて終了した形だった。
 他の生徒より一時間多く授業を受けた気分だった。
 上級生下級生同級生が跳梁跋扈する廊下を歩き、自分の教室に向かう。職員室は二階、同様に二年生の教室も二階。うちの学校は三階建てで、一年生から年を経るごとに一段ずつ上がっていく。
 二年一組。先日電話で教えられたクラス分けの結果、僕は一組に配されたらしい。一組は私立進学コースだったかな。単純に学力で分けられているだけなので、必ずしも進学しなければならないというわけではない。
 不夜市は特別な街だけれど、やはり首都と比べれば田舎であることには変わりないので、国立大学のほうが扱いが上になる傾向にある。だからなんだったかな。六組だか七組だかが国立進学コースだったはずだ。
 僕は進学する気など更々ないので、どこでもいい。
 どこでもいいが、どこも変わらないだろう。
 扉を開けた瞬間の、この雰囲気は。
「…………」
 体に纏わりつく膜のようなものを感じる。柔らかく、しかししっかりと質量の存在する、視線の膜を。
 廊下に響いていた感じだと結構話に華が咲いていたようだったけれど、僕が入室したことによって会話が停止していた。
 ああいや、どうぞどうぞお構いなく。わたくしめは空気と変わりませぬ。煮ても焼いても食えない男です。紳士淑女の皆様はわたくしめのことなどは気にせず、続けてくださいませ。
 と平伏したい気分に駆られるが、最後に残った一握りのプライドがそれを阻止していた。
 塵芥のようにないも同然のプライドだけれど。
 くだらん冗句はさておき、机に向かうことにする。
 ええと、確か黒板を前と見て、五十音順で右上から左下に並んでいたのだったか。それでいつまで経っても僕が出席しないから、僕の分を詰めてしまったとか、電話連絡を寄越した担任は言ってたかな。だから一番左側、窓側の一番後ろの特等席がもらえるはずなのだけれど。
 空席が二つある。
 ひとつは間違いなく僕のものだろう。あれ、もうひとつは?
 もうすぐ、一分ほどで朝課外前のショートホームルームが始まるはずだ。この時間に着席していない――単純に欠席か遅刻かと考えるのが妥当。
 妥当、なのだが。
 妙な胸騒ぎがわしゃわしゃと踊り狂っている。
 ……とりあえず、座ろう。一番後ろに腰掛けた、ところで。
 がららっと先程の僕と同様に扉を開く音。
 教師の入室。
 朝の軽い挨拶。
 ん。
 あれ。
 うちの学校の担任教師は一人のはずだが。
 他校だと副担任がいるところもあるとか聞いたけれど、僕の学校も同じ体制になったとは聞いていない。もしかすると僕がいない間にそうなったのかもしれないぞ、と希望を持ち続けるが、教師の後ろについている人間は明らかに制服――藍色のセーラー服を身につけている。
 んん。
 あれれ。
 僕にはその女の子が知り合いに見える。
 普段は黒尽くめの彼女が、コスプレをしているように見える。
 んんん。
 あれれれ。
 それは伏見山観夕にしか見えないんだが大丈夫なのか?
 僕の目がぶっ壊れてしまったのか。そういえば先日の事件の相手は《破壊魔》だった。いつの間に、知らないうちに『認識』、壊されちゃってたのかな?
 んんんん?
 あれれれれ?
 教師が「転入生、伏見山さんです。仲良くしてあげてね」などとのたまっているぞ。
 転入生は転入生で、「伏見山観夕。よろしく」などとのたまっているぞ。
 幻覚と幻聴の併発。これは身体からの危険信号だ。さっさと早退して病院に行った方がいい。
 額にじんわりと浮かんだ汗は五月の陽気のせいではなさそうだ。
 席を立とう。
 などと考えたところで、現実に追いつかれた。
「…………」
 僕の目の前に立った、黒髪の女の子。
 伏見山観夕に見えなくもない転入生。僕を見つめていた。
 恐る恐る、声を絞り出す。
「何、してる?」
「ないしょ」
 そして僕の前にある空席に座る。伏見山観夕(推定)の顔は見えなくなった。。セーラー服の後ろ姿は他の同級生と変わらない。ある意味、幻覚は去った。
 よし、僕は狂ってなどない。これはすべて白昼夢なのだ。
「隠居庵」
「はい!」
 前からの声に驚き、言葉が跳ね上がった。
 無色透明で、無機質な声が飛んでくる。
 よく、聞き慣れた声だった。
 《殺人鬼》が《異常者》を殺すときも、おやつを強請るときも、僕を殺そうとするときも変わらない、静かで、寡黙の中から現れる、あの声。
 振り向き、ただ、一言。
「よろしく」
「……ヨロシクオネガイイタシマス」
 彼女は――伏見山観夕(確定)は、そう言った。僕は顔をあげることができず、急に地球の重力が強くなったような心地がした。
 一体何がどうなってやがるのやら。


了。