6.クリープ破壊
作:宴屋六郎
知っても知っても知らないことばかりが増えていく。
0
そう、悪くない。
死体を目にして思った。
その都合上自分とはまったく関係のない人間でなければならないのがネックではあるが、壊せるだけで悪くはない。
それが僕の感想だった。
とうとう人間を壊してしまった。最初の破壊から随分経つが、自分がやりたいことをやっている。その満足感は何物にも代え難いものだった。これまで我慢していたのが馬鹿みたいだ。
形容し難い。
形容しなくてもいいほどに。
好きな形に壊す。
ばらばらに壊す。
ぐちゃぐちゃに壊す。
素晴らしい。
まさに僕の思い描く通りのシンプルだ。
人の形は気持ち悪い。
だからばらばらに、パーツになっている方が、よほど美しい。
むしろもっとばらばらになっている方がシンプルで美しい。
だが作品をそのままにするわけにはいかない。本当はこのままにしていたい。
僕は形に残さなければ意味がない、と思っている。美術にしろ、破壊にしろ。
だが捕まってしまえば何もかも終わりだ。僕の活動が阻害されてしまう。
死ぬわけにもいかないし、逮捕されるわけにもいかない。
分子レベル、原子レベル、それ以下の細かい形にまで破壊することができるのは、これまでの実験で判明している。
ある程度の形としては残るが、なかったことにできる。
血液も蒸発させたようにして、他の形に分解して、大気と撹拌して誤魔化すことができる。
しかし、それでは自分らしさが失われる。
自分が壊したという証拠が、証明が、失われる。
それでは駄目だった。
僕はこれでも芸術家の端くれだ。まだまだ自分の理想とする場所に到達出来ていないとは言っても、それでも自覚くらいはあるつもりだ。
欲望を満たすための破壊活動ではったが、それもまた、創作の形のひとつだった。
僕の作品だった。
壊れたものは美しい。
シンプルになったものは美しい。
だから写真におさめたこともあった。もちろん厳重に管理を行っているが、それがどれだけ危険なことであるか、理解している。危険性はどれだけ低くとも生みだすだけで、命取り。
わかっていても、僕の心の声には逆らえなかった。
それとはまた別に、僕は遺したいと思うものがあった。
だから、血液だけは。
サインだけは。
確かに何かを壊した証として、残すことにした。
血液からの鑑定で行方不明の某かの血液だったとしても、死体がなければ。
大抵は行方不明として処理されるだろうし、あるいは何かの事件に巻き込まれただけ、としか考えられないだろう。
肝心の死体がないのだから。被害者がいないのだから。
それは僕にとって満足いかないことではあったが、逆にメリットも生み出していた。
だけど忘れてはいけない。
これは練習にしか過ぎない。
練習だ。もっと重ねなければならない。
自分の欲望を満たすために。
そして、完成のために。
……などということを、考えていた。
僕は大学生になっていた。
不夜市では最もレベルの高い大学、ということになるのだろうか。周囲はすごいすごいと称賛ばかりをくれたが、もともと勉学に適性のある自分としては、あまり何かを成し遂げたという実感が湧かない。
そういう意味では、今まで通りか。
法学部法律学科。
全ては両親の意向通り。
表向きには自分の意志通り。
僕がそれとなく、わからないように、彼らの願いを叶え続けている。
僅かにぎちぎちという音がする。まあ気のせいだ。ずっと付き合ってきたから、慣れたものだ。
ぎちぎち。
趣味は変わってない。
表に言えるものと言えないもの。
絵画を作ることは堂々と言える。
そのために美術サークルにも入った。
一年ほど所属しているが、割と自由で、好きなことができているので、なかなか満足いっている。
何かと頼られているし、運営にも参加することになるかもしれない。組織運営というものに対しての興味はないが、自分のために良い環境を作ることができるのなら、歓迎しようと思う。
美術サークルで、頻繁に声をかけてくる女の子がいた。
一人。
顔は普通。スタイルはそこそこ。これまでの経験と彼女からのコンタクトを総括するに、彼女は僕に気があるようだった。長いこと浮ついた態度である。
正直なところ、僕に恋愛欲求は全くと言っていいほどない。
恋だの愛だのくだらない。
自分は自分の欲望を満たせればそれで良く、作品を制作できていれば全く問題ない。
適当に付き合って適当に破局しても良かった。自分にはそれを易々と遂げるだけの能力がある。自惚れでも過信でもない。冷静に判断できる。
両親も彼女も、同じだ。
しかし、頭に疼痛があった。
これ以上管理するタスクを増やすのはいかがなものだろうか。
ストレスとフラストレーション。
コントロールは必要不可欠であり、あまり負担を増やすべきではないだろう。
真正面から断るか?
しかし今後も居続ける予定なので、サークル内に禍根を残したくはない。
ああいう恋愛至上主義の女ほど、禍根を残すやり方で分かれると、後々面倒なことになる。過去に学習済みだ。あの時は後処理に困った。
後処理。
ああ、そうか。
処理だ。
同時にこなしてしまえばいい。
僕の欲望も問題の処理も。
一石二鳥。
曲がりなりにも自分に関係する人間であるがゆえに、多少手は打たねばらなないだろうが。これまでも手を打ってきた自分だから、きっと上手くいくし、上手くいかせる。
やること自体はそう難しいことじゃない。
考えていると、わくわくしてきた。
人を壊すことができるということに。
知人を壊せるということに。
痴人を壊せるということに。
そう、我慢は良くない。
過去の我慢が祟って、ここまで来てしまった僕だからこそ、わかる。
我慢は良くない。
失望奇譚集―壊虐奇談6
*******
1
我慢は良くないという。
我慢を続けているとストレスが溜まるし、もやもやしたものは自分の奥底に堆積して腐っていく。腐ったものをずっと持ち続けていると腐臭はするわ周りのものまで腐っていくわでいいことない。
だからその腐ったものを持ち続けることがないように、我慢をすべきではない。
我慢強さは確かに美徳ではあるけれど、我慢そのものは決して良いことじゃない。自分ばっかり落ち込んで行くし他人は我慢していることに大抵の場合気づかないので、自分ばかりが損をする。
石の上にも三年という諺はあるけれど、そんなに硬い石の上に座り続けていれば、自分の意志だって変化してしまうだろう。目的と手段が入れ替わる。三年もの間自分の意志と意思を保ち続けられるような強い人間は、そうそういない。
だから僕は宿世現の元を訪れることにしたのである。という言い訳。
僕の中にある、理屈を好む部分のために。
自然と赴きたいなぁと思っていたから、欲求に従ったまでだ。
僕はいつもの面倒な手順を経て、現の家にあがった。時々鍵がかけられているけれど、九割くらいの確率で施錠されていない。
ロックは結局真似事でしかないし、あのいい加減な娘に施錠の習慣はない。外に出ることはないし、外から入ってくることも、僕と世話係くらいしかない。その外に、鍵なんかでは比べ物にならないほどのロックが掛けられているから、安全性については保証されている。
まさしく箱入り娘ってことだ。あんな少女みたいな姿をしていても、僕と同じく今年で十七なのだから、娘って感じではないはずなんだけど。
大事な匣にしまわれた娘。
箱とは、安全の保証。
しかしそれは、どちらのためなんだろう。
内のためか。
あるいは外のためか。
僕は冗句しか言えないので、わからない。
わからないことにした。
いつものように部屋を探しまわる。こないだかくれんぼをしたばかりなのだから、今回も同じとは思えないけれど、しかし彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
混乱することでも困惑することでもない。
下にいなければ、上にいるのだ。
僕は玄関まで戻り、階段を登った。
登る、登る、登る。
普通の家にしてはやや長い階段を登ると、硝子板で囲まれた部屋に行き着く。硝子の向こう側には緑が見えた。
本当に階段と地続きになっているみたいで、一軒家の階段を登っているような感覚からの変化に、毎度慣れない。
硝子扉を開き、外に出た。
目の前には、植物園が広がっていた。
靴を履かぬまま歩く。ここは靴なんかなくても大丈夫だ。
靴下のまま歩くのはちょっと気持ち悪いけれど、そういう風になっている。
病院のビル、屋上まるごとが植物園。屋上とは言っても高層の強風対策で強化ガラスの壁や屋根に覆われてはいるけれど。
まるで冗句みたいな話。だけど、事実として目の前に広がっているものを見ると、現実として認識せざるを得ない。
木や植物や花。
豊かな土。
この場には、ありとあらゆる草木が共生している。
舗装された、歩道になっている煉瓦床を歩く。鬱蒼と生い茂っている名も知らぬ草木が、まるで壁のように両脇に並んでいる。ああ、あそこにあるのはわかるな、椿だ。
もともとは長期入院患者のためのリラクゼーションに用いられる予定だったとか。
根を張るような植物って駄目だったような気もするけど。それを気にするような縁命病院でもないか。どうせ多くの草花は『後』から出てきたものだろうし。
ともあれ、最上階が現の『家』となってからは、全く利用できなくなったのだろう。
ここは彼女の楽園だった。
現がいるなら中央かな。
僕は分かれた道の行き先を思い出しながら、選んで歩く。こうも背が高く茂られていると、迷路的な趣が出てくる。
しばらく進むと、右側面の草木の群れが突然開ける。
芝生と、背の低い花が広がっている。
ひとつの広場。いくつかの木製の長椅子に、中央には小さめのブランコ。
少し離れた場所には桜――ソメイヨシノの樹。最近の気候など関係なく、周囲とは関係なく、満開の花を咲かせている。
ひらひらと僅かに舞う花びらの中、水玉模様のパジャマが座っていた。
ブランコの片方に。
「現」
「んえ? ……あっ、いをりーん!」
花の冠でも作っていたのだろうか。手に持っていた小さな花たちを手放し、彼女はとてとてと走り寄ってくる。裸足だ。
慣れたもので、彼女が全力で突進して抱きついてくることは予測済み。僕は少し足に力を入れることで、彼女を受け入れることができた。
そもそも体重も何もかもが足りない現のことである。力を入れなくともバランスを崩すことはなかっただろう。
それでも。
彼女を受け入れるには『力』が必要だった。
……冗句だよ。
「いをりんいをりんいをりんー! おかえりおかえりおかえりっ! あっ、そうだっ、冠作ったんだよー!」
ひとしきり再開の抱擁を楽しんだ現は、思い出したようにぱっと離れ、元の位置まで駆けていく。ぼうっとしていたら、手を振って招かれた。
僕は花を踏まないように気を付けながら、歩いた。信じられないくらいふかふかしていても、やっぱり芝生に靴下って気持ち悪いから今度は靴を持ってこよう。そうしよう。
もしくはスリッパでもサンダルでも、なんでもいいけど。
ブランコではなくその場に座り込んだ彼女の近くに、僕も腰を下ろすことにした。
そうしないと、現じゃ僕の頭に届かない。
現は異常に楽しそうだ。何かよくわからない鼻歌をその場で歌い上げながら、花冠を完成させた。白い花が多いけど、これはなんだったっけ。ヒメジョオンだっけ。
植物の名前には疎いし、興味もあまりないから違ってもいいけどさ。
現は出来上がった冠を、笑顔で僕の頭に載せる。
そうしてきゃっきゃと手を叩いて喜んだ。
鏡がないので自分の姿は見えないけれど、絶対似合ってないだろうな……。
まあいいさ。現が喜んでくれるなら。
そういえば、と今更気になったように現が口を開いた。
「どうしてここにいるってわかったの?」
「僕はお前がどこにいるかなんてすぐにわかるからね」
「きゃあきゃあ!」
喜ぶ彼女。
まあ虱潰しに探していっただけなんだけど。現の『家』は閉じられているし、見つけること自体は簡単だ。彼女が隠れていたいと望まない限りは。
現は周りの花を摘み、また冠を作り始める。
彼女は基本的に不器用と言うか、繊細な作業は苦手だけれど。こういうのを作るのは上手だよな。
本当は、彼女が望めば、なんでも出来てしまうはずなんだけど。
これは教育の賜物なのかね。詳しいところまでは知らないし知りたくもないから知らない。僕はそれでいい。
《支配者》について下々の者が知るべきことは、少なくていいのだから。
――たとえば、この楽園の異常さとか。
「んふふーふー」
現は花を編む。
桜色の花弁が、僕の目の前に落ちてくる。
満開に咲き誇った桜。
僕はこの桜が花を散らし、葉を茂らせ、冬にはその葉も落としたところを。
見たことがなかった。
現は花を編む。
彼女との付き合いは四年ほど続いているが、桜は常に満開の状態で、常に花を散らし続けている。
散った花弁も、いつの間にか消えている。どこかへ吹き飛ばされていくのか、消えてしまうのか。わからないけど、それは気づくときにはなくなっている。
それだけならいいけれど、少し向こうに行けば、向日葵畑があることを、僕は知っている。ここからでは見えないが、それらも全て満開の状態だろう。
それも一年中、太陽の方を向かないままで。
目に見える範囲で言うと、桜の根元近くにはコスモスの花が群生している。
桜と秋桜のコラボレーション。自然の状態ではあり得ない現象。
秋桜だけじゃない。
アネモネも、菜の花も、梅だって満開だ。ソメイヨシノだって一本どころじゃないしね。
色取り取り。
毒々しいまでに極彩色。
春夏秋冬古今東西の花や植物が満開だ。
まるで季節感のない光景。
狂騒の美を湛えている。
狂風景。
狂っているから美しく。
美しいから狂っている。
あらゆる色と色が共存しあっている。
全てが見事に、最良の状態で、極まっている。咲き誇っている。
自然ではあり得ない状態が、自然に保たれている。
この楽園は常に全てが最良の状態で保たれている。
人の手は、一切入っていない。
現は花を編む。
彼女がそう望んだから、全てが望まれて最良の状態を保ち続けているのだ。
何故彼女がそう望んだか、訊いたことはないけれど。
でも訊ねればきっとこう答えるのだろう。
「綺麗だから」
《支配者》。
彼女が望めば全てがその通りになる。
なぜなら彼女は全ての《支配者》だから。
だからこそ、この植物園は世界で唯一の楽園なのだ。
現は、花を編んだ。
「……冗句かよ」
これだけ花々が咲いていて虫がいないのも不自然極まりない、が現のことを知れば当然でもある。
こいつは虫が嫌いだからだ。
結果、蜜蜂もいないのに花が増える、日光が入らぬ日も常に満開という、謎現象が起き続けている。
彼女の《支配》があれば、雄蕊雌蕊なんて必要ないんだけどね。
縁命グループの頭領。その孫娘。
宿世家直系の血を受け継ぐ彼女が、何故家の形を取った病室に隔離されているのか。
理由は推して量れ。
僕がここにいる理由も。
ぜーんぶ人任せでお願いします。人生ごと。
――現は突然思いついたように、冠の作成途中でこちらに飛びついて来た。
胡坐を掻いた僕に抱かれるようにして座り直す。
この体勢、現のお気に入りなんだそうだけど、やっぱりちょっと恥ずかしいです。
手持無沙汰というか何というか。どこに手を伸ばしたり落ちつけたりすればいいのか不明だ。しばらくすると足が痺れてくるし。
彼女がうごめく度、髪からふわふわと花と草木の香りが漂う。
ああ、いかん。毒されてる。
でも動くわけにはいかないし。
「できたー!」
現はその矮躯を僕から離れさせ、自分の頂点に冠を載せた。
かわいい。
いやそうじゃなくて。
「おそろい!」
「……ああ。とてもペアルックだね」
こういう場合に使っても良いのかわからないけど。
「おひめさまとー」
細く小さな指で自分を指さし。
「おうじさまー」
僕を指さし。
「僕はどっちかって言うと召使いとか奴隷とかって感じだと思うけれど」
「おうじさまー!」
「はいはい」
まあ。
柄じゃないけど。
彼女がそう言うなら。
そうなんだろう。
「えっへっへー。すきですよー、おうじさまー」
「…………」
え、なに。
何言うのを期待されてるの、これ。
目を逸らす。
が、現は両手で僕の頭を掴み、自分を見るよう強制する。
逃げられねえ。
じいっと覗きこまれているので、目を離すこともできない。
宿世現の深い色の瞳。
「ぼ」
言葉が引き出される。
「僕も好きだよ、姫」
あー。
顔が赤くなりそうだ。
体温も上昇しそう。
「ねね、いをりん。『ずっと一緒』だよね?」
「……ああ、『ずっと一緒』、だ」
「にへへぇ」
現は。
顔を崩して笑う。
笑う。
笑う。
笑った。
「いをりんいをりん」
「ん」
「笑ってー?」
無茶を言う。
面白いこともないのに笑えという。
それでも彼女が望むというのなら。
僕は。
「――どうですかな」
「いびつですなー」
「おい」
傷つきそう。
傷を付ける場所なんて、もうないのにね。
2
「しゅーと」
投げる。
「しゅーと」
投げる。
「しゅーと」
投げる。
何もかも投げてしまいたい。
書き損じの紙屑を丸めてはゴミ箱に投げていく。
暗闇。
静寂。
薄明かり。
晦日籠。
天田和良。
行方不明者達。
「しゅーと」
吉原遊女。
六分儀鬱子。
鷹巣遠見。
美彌胡。
佐藤一郎。
「しゅーと」
宿世現。
口虚歪。
「しゅーと」
父親。
母親。
「しゅーと」
姉さん。
「しゅーと」
過去の全て。
それ以外の僕を僕として僕であるように僕たらしめる僕の要素。
全て。
「しゅーと」
不断から冗句ばかりを捏ねている僕。
たまには冗句も喉に詰まる。
そもそも。
冗句は。
僕のモノではない。
それは口虚歪。
お前の専売特許で。
でも。
僕のモノであり。
ぼくのモノだ。
「死にたいな」
このボールペンを喉にぶっ刺せば何もかもが終わる。終わることができる。
鉛筆でも角度を考えれば人を殺せる。何の小説だったっけ。
「死にたい」
冗句だったら良かったけど。
「冗句だったら良かったけど」
冗句だったら良かったけど。
そうじゃないからままならない。
過去へ思いを馳せようとしている自分に気がつき、全てを忘れるように努力した。
忘れられないからめんどくさい。
だいたいボールペンなんかなくても人は死ねる。自分を殺せる。首を手で絞めれば簡単だ。
でも。
そうじゃなくて。
根本的に。
なかったことになりたいんだ。
背中とお腹から顔まで這い上がる無数の蟲たちを手で指で爪で潰し殺して。眼球をほじくり出せば全ては闇に包まれると。
知り。
知っていながら。
できないのは。
僕の意思と意志と意識と無意識のせいではなく。
縛られているからだと。
わかって。
余計に。
闇を降ろしたく。
なって。
メモを殺して紙屑を葬送する。
屑籠の周りには死体が沢山転がっている。
ひとつも入っていない。
「……ぼっしゅーとになります」
てれってれってーん。
口中で呟く。
「あーああー」
ぜーんぶ。
冗句なんだよ、冗句。
3
「おはよう」
「…………」
「おはよう」
「…………」
「起きろよ。おはよう」
「…………」
「おはようおはようおはようおはようおはようおはようおはようおはようおはようおはようおはようおはようおはようおはようおはようおはよう?」
「…………」
「おっ、やっと起きたかよ。おはようおはよう」
「…………」
「おはよう隠居庵。機嫌はどうかな? 調子はいかが? 俺はこの通り絶好調だぜ。まあ俺の調子が悪かったことなんて、生まれてこの方一度たりともなかったけどな。ずーっとご機嫌でずーっと絶好調さ。絶不調状態ってのはどんな状態のことなんだろうな? 俺にゃわからんから、お前が教えてくれよ。お前は間違いなく絶不調だろ? んんん?」
「…………」
「おいおい黙ってちゃわからんぜ。お前のパパやママみたいに死にてえのか? まあお前は最後に壊すと決めてるからな、安心してくれて構わない。むしろお前の反応が見たくてこうやってパーティーに参加させてもらったわけだしな。……ああ、そうだ、メリークリスマス、隠居庵くん。プレゼントは――ママの臓物なんてどうだい?」
「…………」
「かかかっ。モツ鍋にでもしようか、今夜は? クリスマスと言えば七面鳥なんだろうが、俺たちは日本人だしな。クリスマスもお正月も何でもかんでも楽しんじゃう民族なら、クリスマスが鍋でもいいよな関係ないよな。人肉は食ったことねえが、どんな味がするんだろうな? きっと噂に聞く感じ通りに、マズいんだろうなァ。肉食動物は基本的にゲロマズだもんな。だから俺らは牛や豚に草ばっか喰わせんだぜ、きっと。これからの食糧問題を解決する為に人類をベジタリアンにすべきなのかもしれんな」
「…………」
「ァあ? モツ鍋が嫌か? まあ嫌だろうな。隠居庵くん。でもお前は俺と同じだ。むしろ方向としちゃあ俺より極まってる。何もかもが他人事に思えるってのはどんな気分だい? 何もかもが他人事でしかないように感じてるんだろう? お前は周りの人間にはっきりと伝えたことはないそうだが、俺にはわかる。俺とお前は同じだからわかるんだよ。お前の目。顔。色。全部わかってるさ。感情に乏しく感動に貧しい。そんなくだらねえ評価にされてるが、そうじゃねえもんな。お前は世界を見渡すことができる。ほんとにすげえやつだ。お前の価値を真の意味で理解しているのは、お前のママでもお前のパパでもなくお前のお姉ちゃんでもなく、俺だぜ」
「…………」
「言葉はなくとも態度で示してくれたっていいじゃないか。そんな能面ぺったりぺたりのままじゃあ、傷ついちゃうぜ、俺。なんつってな! はははっ! まー俺も段々飽きてきたところだ。ここでちょっと振り返ってみようじゃないか。これまでの歩みをさ。これからのためにもなるだろうし」
「…………」
「まずはお前のパパを壊してみた。ほんとに色々やったなァ。まずは俺もやったことがなかった玉潰しだ。いやいや俺も想像するだけで怖気が立つし寒気もするね。自分がやられたくないことだわ。でも俺はお母さんやお父さんから、人が嫌がることは進んでやりなさいと教えられたもんでね。だから嫌がることをするのは大好きなんだよ。お父さんもお母さんも俺に壊されるのは嫌がってたけど、ありゃァ心ん中では喜んでたってことでいいんだよな? そういう教えだもんな。まあそれはいいか。今は隠居庵くんと話をしてるんだしな」
「…………」
「こう、ぐりぐりと革靴で潰した時の感覚は忘れられんぜ。玉は逃げようとするから大変だったけどさァ。なんだろうな? なんつっていいのかわかんねえ感触だったぜ。あれでお前の弟あるいは妹たちが生まれる可能性を全て消すことができたわけだ。パパのモノは震えあがって小さくなってたけどな。けけけ。まあそんなこと潰したあとは関係なかったね。革靴は底が厚いし硬いからよくわかんなくて、もう一個は手でやらせてもらったけどよぉ。確かに面白い感触ではあったが、人の性器の付属物なんて触るもんじゃねえな。汚ェし。お前のパパはお漏らししてたしな。そんだけ元気ならまだ使えるだろと思ったけど、俺は男だし男色趣味はないし熱烈な異性愛者だし。でもま、とにかく面白かったね。ちんちん引きちぎったりとかな。汚ェけど、あれはあれで男相手にしか楽しめない破壊だったな。最初は妻には手を出すな子供には手を出すなって言ってたけど、だんだん助けてしか言えなくくなったりな。あれはあいつの『息子』をいじめてやった時だっけ?」
「…………」
「んで、次は何したっけ? 年を重ねるごとに覚えるものと忘れるものが増えて敵わんな。まだ二十代なんだがね。ああ、次は指という指を抜いたんだっけ。でもありゃ失敗だったな。俺も壊すことに興奮しててな、ミスったわ。性器を先にやっちまったせいで、ちょっと反応鈍かったな。気絶しないように何度も叩き起こしたし水もぶっかけたけど、やっぱ駄目だな。そのあと目玉ほじくったのも失敗だわ。指、目、ちんこってやるべきだったなァ。視界がない状態での痛みってやばそうだし、反応良さそうなのに。あーあ、惜しいことをした」
「…………」
「玉潰した辺りで半分ショック死してたみたいなもんだし。指をちぎったあたりで失血死不可避って感じだったしなァ。ヒトってのは案外簡単に死んでしまうもんだな。俺のお婆ちゃんだって、驚くほどぽっくり逝っちまったし。ま、ありゃァ歳が歳かねえ。老衰って奴かな、誰にも悟られず消えるように逝っちまったよ。……あーっと、話を戻そう。パパを壊しただけじゃァお前の心は揺れなかった。面白いな。普通泣き喚いたりするもんだぜ。お前、十二歳だっけ十三歳だっけ? そんな感じの年齢だったよな、隠居庵くんは。もっと子供らしく振る舞って……もらったら本末転倒だな。俺は氷みたいに静かなお前が、あられもなく叫んだり泣いたり壊れたりする様子が見たくてこんなことやってんだから」
「…………」
「いや実際大変なことだぜ。こんだけ大騒ぎしたら近いうちにお縄になるだろうし。それでも妙な魅力があったんだよな。だから踏みきっちまったし。お前には魅力があったんだぜ。今も表情ひとつ崩さねェし。ママ壊したときもそうだったな。どっちかっていうとママっ子だろ、お前。違う趣向でいってみたが、なかなか強情だったなァ。名づけて内臓祭。……なんにもかかってねェか。内臓ってピンク色じゃなくて汚物色なんだよな。血に塗れて出てくるんだから当たり前だな。俺は前から知ってたけど、お前は初めて見ただろ? 内臓という内臓を引き出して、気を失いそうになったら叩き起こして。生命を生み出す女の腹から、汚物が出てくるってのは、倒錯的で面白かったなァ。腸で縄跳びしてみたりしたけど、ぬるっぬるしてて難しいったらありゃしねえ」
「…………」
「まーでも、結局は効果なし。ママは自然の摂理に従って死んだけどな。目的はお前のママじゃねーんだよなー。お前なんだよなぁー。よくよく我慢強いというか、無頓着というか。大器というか、何も見てないっつーか。最終的にはお前自身を少しずつ壊してみるしかないのかねえ。ああー……段々テンション下がってきたぜ。振り返りはそろそろおしまいにすっか。俺も記憶の整理になったしよ」
「…………」
「やっと終わる、なんて思ってないんだろうな。お前は不感症だし、何も感動しないし感情しない、冷たい人間だ。だからこそ、熱くして見たいと思うんだがな。お前自身を壊してみるしかないかァ。結局賭けになっちまう。これで壊れなかったらつまんねェ結末だぜ。ま、お前の体を壊せるってだけでも良しとするかね。ちょっと納得いかんが」
「…………」
「んじゃ、始めようか――――」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「なんて言うと思ったか?」
「…………」
「まだだよなァ。まだまだまだまだ。まだ一人残ってるじゃねえーか? なァ?」
「…………」
「お前が一番親しくしてたのはパパさんでもママさんでもなく友達でもなく先生でもない。だよな? 知ってる知ってる知ってるぜぇええー。お前のことは何でも知ってるし調べた。あの日から俺はお前にぞっこんだったからな。全部知ってる。お前がどんな人生を歩んできたか、大体全部知ってるよ、俺は。お前は俺のことを知らんがな、俺はお前のこと親友ってレベルで理解してんだ。そうだよ、お前のことを本当に理解してやれるのは俺だけだ」
「…………」
「お前の、姉ちゃん」
「…………、」
「お前が唯一心を開く人間。お前が唯一感情を動かす人間。お前が唯一世界を世界と認識できる人間」
「…………」
「お前の世界の接点」
「…………」
「壊してやるよ。お前の世界を」
「…………」
「なぜなら俺は《***》だから」
「――――」
声と。
記憶は混濁する。
濁り混じりあって。
「おうい、隠居庵。隠居庵、隠居庵」
「…………」
「相変わらず寡黙だねえ。沈黙は金なりとは言うけどさ。こんなときにまで寡黙でいられるってのはある意味羨ましいこと限りなし。最初から最後まで、ゆりかごから墓場まで。ずーっと黙っているつもりなのか? ……ま、僕はきみの幼い頃なんて知らないけどな。一ヶ月くらいの付き合いだし。二十四時間一緒の部屋ってのは、親交を深めるにはなかなかに最適だったな」
「…………」
「……深まったっけ? まあいいや。最期の瞬間を共にするんだから友達ってことにしておいた方がいいだろ。生まれた月日は違えども、ってやつだ。ああ、あれは友達じゃなくて義兄弟の契りだっけ。僕は三国志より戦国時代の方が好きだからなぁ。横山光輝の三国志だってそんなに面白くなかった、と言ったら貸してくれた先生に失礼かな」
「…………」
こんなときまで饒舌なのは何故なのだろうと思った。
「話が逸れたな。結局きみが何も言わないでついてきたってのは、同意してくれたってことでいいんだよな? 僕はそう思っても、勘違いしてしまっても、いいってことだよな?」
「…………」
『ぼく』は答えなかった。
答える方法がわからなかった。
そもそも自分が何を考えているのかもわからなかった。
彼は自分のことが、わからなかった。
「地上四十階。ここからホップステップジャンプで、確実に死ねる。僕が僕でなくなる前に。きみがきみでなくなる前に。『彼女』の支配から逃れるために。さっと、行っちゃおう」
「…………」
「何か質問や感想はあるかい、相棒」
「…………」
『**』は答えなかった。
答えるものを持ち合わせていなかった。
彼の中身は空虚であった。
「いつも通りだよな。僕はきみと出会えて楽しかったよ。いつもみたいな適当で軟弱でつまんない、死んでるようで生きてる連中とは違って、きみはとても面白かった。何も喋らないし何も語らないきみは、まさしく死んでいた。死んでいるだけの生き物だった。良かった。とてもよかったよ」
彼女の言葉は、どこか空虚だった。
相手を認めるだけの言葉を述べながら、ぬくもりは一切感じない。冷たくもなく、暖かくもない言葉。
ただの羅列だった。
垂れ流しだった。
「まあ、これは勿論」
最期の瞬間まで。
彼女はきっと、呟くのだろう。
持ち前の笑顔と。
いつもの言葉。
十八番の。
『冗句だ』、と。
そして。
この時から。
『**』は。
僕になった。
のだ。
ひかり。
ひかり。
光。
4
光だ。
目覚め。
…………。
過去のことを夢に見るというのは、ここまで寝覚めを悪くするものなのだろうか。
僕は今更ながらに知った。
「…………」
寝覚めは最悪だった。
もう見ないものだと思っていたけれど、人間の脳ってやつはそう都合の良い存在ではないらしい。
楽しかったこと面白かったこと嬉しかったことポジティヴな記憶よりも、悲しかったこと苦しかったこと辛かったことといったネガティヴな記憶や感情の方がずっと覚えている。
そもそも楽しかったこと面白かったこと嬉しかったことなんて、僕の短い人生において存在したかどうかすら怪しいけれど。まああったことにしておこう。人類の平和のためだ。
それよりも。
ここはどこだっけ。
自室ではないことは確かなんだけど。明らかに部屋の調度が異なっている。
しかしまるっきり見覚えがないというわけでもない。自室ではないが、自分の知る部屋だ。
そう、ここは――。
「あれ、観夕」
「…………」
無言で三点リーダを吐き出す娘は向かいのソファに座していた。いや実際はなにも吐き出さずジト目でこちらを観ていただけなのだが。所持しているフェティシズムによってはご褒美になるだろうけど、僕にはそんな性癖はない。
いやしかし。
観夕がいるということは。
「ああ、ここ事務所か……」
応接間で寝ていたらしいことを確認した。
仮眠室ではなく応接間。客間。
いつもはラップトップを使ってみゃこさんが仕事をしている場所だったけれど、今は黒猫のような美人の姿は見あたらなかった。
「みゃこさんは」
「知らない」
身を起こしながら訊ねても、彼女は素っ気なかった。いつものことか。
「和菓子は」
「え?」
「和菓子は」
素っ気はなかったけれど、なんだか図々しく強請られている。『ねだる』でも『ゆする』でも好きなようにルビを打ってくれ。
んん、なんか約束したっけ。
したような気もするし、しなかった気もする。
というか、少し前に水饅頭をお届けしたような記憶もあるのだけれど。
いかんいかん。夢の内容に引っ張られすぎている。主に脳味噌が。
まずは頭の中を整理することにしよう。
今何時だ。
壁掛け時計を見る。
短針は十時を指している。長針は六時を指している。
十時半。
……十時半?
外を見る。
明るい。
えっ。
夜の十時半でこんなに外が明るいわけがない。なんだかライトノベルのタイトルみたいだ。いやそうじゃなくて。
「……もしかしなくても朝では?」
「朝」
こういう時だけ無闇に親切な伏見山観夕。
超曖昧でぼやけて霞んでいる記憶を遡る。
宿世現の『家』に泊まった。うん、それは覚えてる。しっかりと。泊まっていけと誘われたら僕は断れない。そもそも家に帰る意味が見いだせないのが悪い。何か対策を考えるべきか。このままでは家賃が損だ。
そうじゃなくて。続きを思い出す。
朝早くに宿世現宅から抜け出して、一旦事務所に寄った、んだっけ。学校にはまだ早い時間だったし。だったら帰宅しろよとも思うけど、こっちの方が近いし一応代えの制服も置いてはいるんだ。
で、登校の準備も出来たしそれまでゆっくりするかーとソファに座って。
……そこから先の記憶がない。
夢は見た。
ということは僕は寝てたってことで。
僕の曖昧すぎる記憶力は、しかし確かに今日は土曜日であると告げている。
土曜日がただの休日であればどんなに良かったことか。
我が校は、『土曜課外』と言って、二週に一度、つまり月に二度は土曜日にも半日授業が割り振られている。
始業式、入学式後、初めての週末、土曜日。課外が入っていないわけがなかった。
今から登校しても、授業には間に合わない。ただ部活動生以外が消えた学校に、僕の居場所はない。帰宅部だから。これは冗句だけど。
何度も考えていることではあるけれど、クラス分けも知らぬ僕は、そもそもどんな顔をして出ていけばいいのやら。
しかも今回は特別な理由などなく、ただの寝坊というか寝過ごし。阿呆か、僕。
思わず嘆息してしまう。
「和菓子は」
相変わらず無色の表情で強請り続けている観夕も、なんだか腹立たしいというか邪魔に思えてきた。
だからこんな言葉を漏らしてしまった。
「いいよなニートは……」
「っ」
あっ。
やべ。
後悔した時にはすでに遅く。
目の前に拳が見えたと思ったら、消えた。
なにが消えたかって。
僕の視界が。
――十一時になっていた。
ソファに全力で背中を預けた状態になっていた僕の目に映った、時計。
烈火というか閃光のような攻撃だった。
三十分も時を飛ばすとは。やるじゃないか。
顔の左下とか右下とかがじんじん痛む。脳もいまだにぐわんぐわん揺れている感じがする。
その痛みと震盪加減のせいで、自分の悩みが些末なことに思えてきた。打撃を受けた頭をさすりながら、考える。
次の月曜日に堂々と出席すればいいさ……そろそろ電話かかってくると思うし、そのときクラス分けについて訊けば良かろう。
しかし月曜に半日、プラスまるまる五日休むとは。
一人ゴールデンウィークかよ。休んだ気は全然しないけど。
そりゃそうだ、ずっと動き続けていたもの。
加えて、襲われもしたし。
《破壊魔》。
あれの解決が先か、僕の登校が先か。
今のところは僕優勢だけれど。
ああ、そういえば。
「観夕に訊きたいことがあったんだけど」
「和菓子は」
「今度買ってきてやるからもう時間を飛ばさないでくれ」
「…………」
「どうせ土曜日は休みなんだよ、あそこ。珍しいことに」
「ならいい」
では質問を述べよと、まるで王様みたいに三人掛けソファに腰掛けている観夕。
RPGなんかで、そういうグラフィックが用意されてたりするとその横に自分のキャラを動かしてみたりしたくなるものだけど、今回はやらない方が良いだろう。
時間を飛ばされるだけならまだしも、殺されては敵わない。
殺される。
死ぬ。
生きてる価値。
死ぬべき人間。
自分が生きているべきヒトであるとは思えないけど、常識に従っておくに越したことはないからね。
「観夕、昨日だったか一昨日だったかの襲撃者、覚えてる?」
「……覚えてる」
僅かに言い淀み、身構えようとしているのは、自分が迷子であったことをほじくり返されると思ったからか。
勘違いで殴られてはたまらないので、早めに質問をはっきりさせる必要がある。早急に。
「あの《破壊魔》っぽいヒト、男性だった? 女性だった?」
「女」
「だよな」
断言を得た。
観夕が言うならほとんど間違いがないと言ってもいいだろう。
彼女は稀代の殺人鬼であり、観察眼については本物だ。僕なんか及ぶべくもない。
基本的に他のものに興味がなく、観ていないことは多くても、観ていたものならちゃんと観察しているし洞察している。
ましてや、殺しあおうとしていた相手なら。
尚更に。
「女性かぁ。女性、女性、女性。女の人。女のヒト。女の子。女の娘。あー、これは。くそ面倒な」
「…………」
観夕の三点リーダを翻訳すると、「何言ってんだこの変態」だろう。冗句だし多分違うけど。
しっかし。
僕は女性だと思い、佐藤さんは男性だと断言し、観夕は女性だと断言する。
晦日籠は男性のように扱われ、はっきりと女性で、でも晦日籠をよく知る佐藤さんは男性だと断言する。
二人の違い。
僕と佐藤さんの違いと、観夕と佐藤さんの違い。
この矛盾は何だ。
晦日籠が《破壊魔》であることはほとんど間違いない。
《破壊魔》が晦日籠であることはほとんど間違いない。
この矛盾も当てはまっている。
でも、この矛盾がどうして矛盾しているのかがわからない。
どうしてこんな矛盾が矛盾して矛盾し続けているのかが理解できない。納得できない。わからない。判別できない。判断できない。
誰かにあざ笑われているような感覚にさえ陥りそうだ。
まるでお前は何もわかっていないと。言われているような。
気持ちが悪い。
わからないことは気持ちが悪い。
ヒトは理解できないから、理解できない他者を攻撃する。
攻撃的な感情が生まれそうになっている。悪い傾向だ。
僕と観夕の間には沈黙が落ちていた。
それを破るかのように響く、ぽーん、という軽い音。
着信音だ。それも僕の携帯の、メールの着信を知らせる効果音。
「誰だろう」
メールを開いてみると、差出人は八重葎さんだった。もう少しかかると思ったけれど、相変わらず手の早い人だ。
テキストファイルやら画像ファイルやらPDFファイルやらが添付されている。ううむ、こうもたくさん送られてくると、ありがたいのはありがたいけれど、スマートフォンじゃろくに扱えないぞ……パソコンじゃないと。
いや、スマートだって言うくらいなのだから、それらも扱えたりするのだろうけど、僕はどうも携帯端末ってのが苦手で。
テキストファイルあたりは何の工夫もいらずに読めるので、さらさらと目で追っていく。
彼女のデータは正確無比。趣味でやっているからこその拘り。
そんな《情報家》によれば。
晦日籠は男性である。役所の戸籍が情報ソースなのでほぼ間違いない。
性転換手術の経歴なんかもなかった。
手術どころか大きな病気も大きな怪我もない、健康優良男性だった。
そのほかの情報も膨大ではあったけれど、さして重要だとも思えない情報群だった。表に出てくるようなものに、晦日籠が《破壊魔》であるとわかるような証拠を残すとも思えなかったし、実際そうだった。あれは非常にクレバーだ。
重要なのは性別、ではないのだけれど。僕が気になっているのはまさしく性別の矛盾だった。
晦日籠を見た僕は女性だと思った。が、佐藤さんは男性だと言う。
《破壊魔》を見た僕と観夕は女性だと言い、佐藤さんは男性だと言う。
ここまでならいいが。
晦日籠は男性だと、戸籍は言っている。
僕と観夕が晦日籠は女性だと言い、佐藤さんと戸籍は男性だと言っている。
正確には観夕が見たのは晦日籠ではなく、《破壊魔》と考えられる襲撃者なのだけれど――まあいい。
性同一性障害? そんな診療記録はないし、もしもそれが認められて複数の条件をクリアして戸籍上の性別が変更されていたのなら、八重葎さんの『網』にかからないわけがない。
同姓同名の別人? いやいやそれこそ冗句だろう。
晦日籠は男性で女性?
まったく意味が分からない。
まったく意味が通じない。
矛盾している。
矛盾しすぎているわけではないけれど、それが決定的に単純で、ゆえに大きく矛盾している。
気持ちが悪い。
気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い。
りんりんりん。
思考を打ち消すように電話の呼び出し音が鳴り響いた。
またも八重葎さんだ。今度は補足だろうか。
気だるげな美女、のような声が耳奥を撫でる。
成程、今日はセクシー系か。悪くない。嫌いじゃない。
「よっす、隠居くん。さすがに土曜日だから電話に出られるよねと思ったけど、あってたみたいね」
「ええ、そうですね……」
嫌味か。
ちょっと思い出したくないことを思い出しちまったじゃねえか。
「『色々』送ったけど見たわよね?」
「拝見しました。相変わらずお手が早く、正確ですね」
「アタシを誰だと思ってんの?」
「《情報家》」
「グッドだわ」
本当は情報屋って言ってからかおうと悩んだけど。
「補足するまでもないとは思うけど、見逃してたりしたらやだからね。晦日籠は男性、二十歳。大学生で、この春三年生になってるわ。身長体重は略す。パーソナルとしては、そうね。天才、って感じ? 秀才でもいいんだろうけど。なんかいい学校ばっかり出てるわよー。不夜大学ってだけで、もうお察しだろうけどね。法学部法律学科、成績優秀。何をやってもお上手みたいよ。一応趣味は絵画みたいだけど、お遊びなのかもね。お家も『そういう系』だし、将来はキャリアな警察官か、検事とか弁護士とか。その辺でしょうね。エリートエリート。羨ましい人生だわ」
全然羨ましそうじゃない八重葎さんであった。
「家族構成は父親母親妹が一人ずつ。長男ってことよ。父親は警察官。警視監で、一緒には住んでないとか。母親は専業主婦ではあるけど、カルチャースクールの講師なんかもやってる。元お嬢様で習い事や趣味には事欠かないからでしょうね。兄は優秀だけど、妹は平々凡々。大した悩みも苦労もない、普通の女子高生よ。でもこの悪意と敵意に満ち満ちた社会で、普通であることは幸せなことかもね」
ちなみにこの子はいい線いってるから寝顔写真持ってる、とどうでもいい情報までくれる八重葎さんであった。
「父親母親の来歴とか、付き合った女の子たちの情報――悔しいことに結構な美少女ばっかりだったわ――、は添付しなかったけど、いいわよね?」
「いいです。いらないですから。余計な感情を喚起してしまいそうだし」
「面白いのはこの晦日くん、不夜市の警察とも多少の繋がりがあって、高校生の時から難事件を解決に導いちゃったりしてるわ」
「ああ、それは知ってます。まるで漫画の主役みたいな人ですね」
「主人公じゃなくって?」
「探偵が主人公とは限りませんからね、ミステリって。――『天才大学生晦日籠シリーズ』、みたいな」
「三流小説並のタイトルセンスだわ……」
「僕にはミステリなんか書けませんからね」
センスなどいらぬ。
「まあないとは思いましたけど、《異常》についてはなにもなしですよね」
「そりゃね。それが表に出てるなら、アンタらがもう解決しちゃってるでしょ?」
全くをもってその通りだ。
「少なくともカメラが写るような場所で何かをやったことはない、か」
「ああ、それなんだけど。ちょっと開いてほしいファイルがあるのよね」
僕は困った。
どうやって通話を切らずに他の操作をしたらいいのだろうか。
通話を終了させかけたり、四苦八苦しているところに八重葎さんが呆れながら教えてくれたことで、彼女指定のファイルを開くことができた。
ついでにハンズフリーで通話する方法も教えてもらった。これは便利かもしれない。
「全く、現代っ子とは思えないほどに機械に弱いわね、隠居くん。まさかアプリケーション終了の方法すら知らなくて、時々電源切ったりしてるとは思わなかったわ」
「電話とメールはできてるからいいじゃないですか。……えっと、待ってください。八重葎さん、これってもしかして」
「お察しの通り。晦日くんは定期的にカメラに写らない時間がある」
高校生の時から、だいたい三週間、一ヶ月に一度。一定時間、消えている。家から出たことは確かだけど、どこの防犯カメラにも監視カメラにも映っていないとか。
それがわかりやすく表にまとめられている。
不夜市は《サナトリウム》によって、他の街よりも見えるものから見えないものまで、カメラだらけだ。もちろん映せない場所だってあるけれど、他県他市の比ではない。
だったとしても。
八重葎さんはどうやって気づいたのだろうか。
訊ねてみるが、彼女は「企業秘密よ」と言うだけだった。
企業ってこたぁ趣味じゃねえじゃんか。
そう思ったけど、野暮なことに突っ込むのはやめておいた。
蒐集家というものは概して気分屋で、機嫌が崩れやすい。これからも良好な関係を築いておきたいので、発するべき言葉はしっかりと考えなければならない。
それが人間関係というものらしいから。
「うーむ、しかし、これは」
「怪しいでしょ? 《破壊魔》っぽいでしょ?」
うーむ。
確証ではない。
確たる証ではない。
僕の勘と、先日の襲撃。
どちらも晦日が《破壊魔》であると告げているけれど、別に証拠が必要か。
それは警察のようにきっちりかっちりした確固たる証拠――最大限の皮肉だよ、勿論ね――でなくていい。みゃこさんは判断を現場に任せるタイプであるし、最終的に彼女が納得すれば許可は下りる。
僕が信用に足ると思え、晦日を排除して、結果的に殺しが止まれば、行方不明者が止まれば最良。
そうでなければまた調査のやり直し。
みゃこさんには皮肉を言われ、観夕には殴られ蹴られ最悪殺されるし、再調査そのものも面倒だろうけど、ま、何事にもリスクは付きまとうものだ。
じゃあ即断即決で晦日籠(仮)を排除してしまえばいいじゃないか、とも思わないでもないけど、あんまり人道的じゃないっていうか。
何が人道的で何が人道的でないのか、その辺の定義は曖昧だけれど、バランス感覚は必要ってことだ。
もし無実の人間を排除してしまったら、それはそれで寝覚めが悪いしね。
冗句かどうか微妙なラインだ。
「で、追加メニューはどうする?」
「ええ。晦日籠の家に出入りする人間全員の行動パターンを、全て。事細かに。お願いします」
スケジュールにもよるけど。
月曜日も学校には行けないな、と僕は覚悟した。
「やっすい仕事だ。観夕ちゃんの寝顔、まだまだ使えるわよ」
「あっ」
観夕はこれまで一言も言葉どころこ音を発さなかったし、僕は彼女が同じ場にいることを説明していなかった。
そして。
これ、ハンズフリーモードで。
耳から離しても、周囲にも聴こえるようになっていて。
観察眼ならぬ観察耳に優れた彼女は大体のことを察してしまい。
何も見えなかった。
ちなみに。
今度は二時間飛んだ。
5
月曜日である。
四月第二週である。
新入生はそろそろ高校生活に慣れてくる時期だろう。中学校とはまた違った雰囲気があるしね。僕は中学校にはほとんど通わなかったというか通えなかったので、よくわからないけど。想像だよ、想像。
想像力って大事ね。
新入生が授業に慣れつつある中で、僕は他人の家に侵入を果たそうとしていた。
……冗句としては十点以下だな。つまんないし、ただの寒い駄洒落だ。
午後二時過ぎ。
不夜市北区、高級住宅街、『眠舎』。明治時代に不夜市が成立した当時から、官吏や政治家や企業家の邸宅が並んでいたとか何とか。
それは今も変わらず、どこもかしこもご立派な人々が住んでいる、のだろう。実際に目にしたことはないので断定はできないが。
僕には関係のない人たちが住んでいる、閑静な巣の群れ。
関係のない人と言えば、もう誰でもそうなってしまうけれど。
不夜市中央の喧騒から離れ、しかし北の不夜山麓のような田舎ではない。中都市から小都市の間。家々が連なっている。
連なっている、というには家屋と家屋の間隔が広いけど。
どこもかしこも家の背が高く、庭が広い、と思われる。
何故断言できないかと言うと、ほとんどの家は塀が高く、中身はしっかりと見えないからだ。ただ、家そのものの高さはかなりあって、二階とか三階とか(中には四階もあったりする)、屋根くらいは見えるので、そこから推量することはできる。そういうことだ。
家と家の間隔は、普通の住宅街と比べて二倍三倍。そんな感じ。
アメリカンサイズではないけれど、ファッキンジャパニーズイエローモンキーサイズではないな、決して。……少し口が悪すぎるか。
どこの家のガレージもシャッターが降りていたりするけれど、それすら横に広い。ということは、高級車を何台も所持していたりするわけですな?
はあ、金持ちって。ほんとに。
二階建て三階建ては珍しくないけれど、『晦日』と表札の出ている家は、二階建てだった。それでも随分と縦に大きいし、屋根も広い。
電車とバスを乗り継いで一時間足らず。プラス、徒歩で二十分。
やっとラストダンジョンに到着だ。
待っているのはラスボス、ではない。
今回の目的は先に述べたように侵入であり、対決でも退治でもないし、対峙ではない。
ラストダンジョンに潜って、目的の宝物を見つけて、脱出。
ゲームに例えるならそんな感じ。
気を付けるべきことはラスボス。即死級の魔法を放ってくるので、そもそもエンカウントしないような対策が必要である。
その対策が、八重葎さんってわけだ。
戦術であり、僕の最大の武器。
まさかラスボスも自分の手からようやっと逃げ出した小鼠が、わざわざ自分の棲家に飛び込んでくるとは思うまい。
「父親は単身東京に、母親は昼から活花の講師に、妹は学校に、晦日籠は大学に、家政婦は出勤の時間前。この時間が最適だと思うわよ」
僕はどちらかというと後衛職……というか、盗賊とか遊び人って感じなので、護衛の前衛職が必要なはずなのだけれど。
観夕はただ「対峙しないのならどうでもいい」と言うのみだった。
どうでもいいと言うのならついてきてくれてもいいじゃないかとも言ったけれど、彼女はそれきり黙ってしまったので、しようがなかった。
対峙の可能性はほとんどないからね。それを先に説明してしまったのがまずかったか。適当言って騙してしまえば良かった。あとで殴られそうだけど。
最近は殴られすぎて時間が飛んでるからな。時間の消費はおさえなければならない。
まあ。
何とかなるだろう。
何とかするしかない、とも言う。
「しっかし、外観からしてすっげえ豪華な家だなぁ」
木造屋敷を改築したのだろうか。いやそれにしては元の面影がなさすぎるが。
瓦なんかは残っているけれど、白塗りの壁。テラスやバルコニーも見える。洋館風だけど、和風でもある。見事な調和を保った、和洋折衷。
他の家々もそこそこの敷地をお持ちのようだけれど、晦日家は別格だった。あからさまに土地が広い。他は家が大きいなぁって感じだけど、ここだけちょっと異質っていうか。先祖代々有力者だったのかもしれないね。
門の外から見えるのはその程度だけれど、決して悪趣味ではなく、それだけに高級感が漂っている。
そう、門。
石造りの塀と、門。
晦日家に侵入するにあたって、第一のセキュリティだった。
普通の家はこんな大きな門は備えていないし、他人に対して拒否感を醸し出してなどいない。
塀は僕の身長よりも五割増しくらいで高く、黒い忍び返しもしっかりと備え付けられている。したがって特殊な道具を持たない僕は、この門を破る以外に晦日家の敷地に入ることができぬのです。
まあこの辺の家はだいたいこんな感じ。黒塗りの門か、あるいは和風の木造門か。
鍵を使うか、中から許可してもらえないと門のロックを解除してもらえない、って感じか。普通の家とは異なっている。
普通の家。
普通の、家。
「…………おっと」
昔の自分の家のことを思い出しかけてしまった。忘れるに限るぜ。
さっさと仕事しよう。せっかく学校休んでるんだし。
さてさて。
僕は上着のポケットから、一つの金属体を取り出した。
冗句的に脚色というか粉飾したけれど、鍵だよ、鍵。
流石にオフラインなものなので八重葎さんにいただいたものではない。他人の家の鍵なんか、八重葎さんの蒐集物ではないのだ。あくまでも情報が彼女の蒐集物、コレクション。
この鍵は「侵入しますよ」と連絡した時に、みゃこさんが用意してくれたものだ。
入手方法は知りたくない。彼女の得意技か、あるいは《サナトリウム》の力か。僕の想像力では、そんなところだろう。
重要なのはこの鍵が使えるかどうか、なのだ。
きょろきょろと周囲を見渡す。晦日家は恐らく名の知れたお家だと思うので、僕のような部外者が鍵を使用するところ見られるとまずい。
門に備え付けられている防犯カメラなら大丈夫。八重葎さんの追加メニューで、『色々』頼んで、偽の映像をループさせているはずだから。
警備システムも同様。
究極のセキュリティシステムは警備員を配置することだけど、流石にそれができるほど面の皮は厚くないだろうし、器も狭くないだろう。世間体というものは厄介だね。
別に現の『家』の話はしてないし、宿世の器が小さいという話はしていない。あれは、必要だからだ。
閑話休題。
周囲に人はいないし、窓からこちらを見ているような覗き趣味の方も見当たらない。平日の昼間ならこんなものだろう。
それに、晦日家の人々も全員外に出ている。それはスケジュール表から明らかなので、もう一度確認する必要はない。
必要なのは、迅速さと慎重さと。相反することをやらにゃならんとは。言うは易く、行うは難し。言葉は軽いのだ。
まあいっか。
結局鍵を差し込んで回してみたら、ロックは解除されて門がゆっくりと開いたし。
もっと早く開いてもらわないと困るんだよね。誰かに見られそうでさ。
人が通れそうな隙間は開いたので、僕は身を滑り込ませるようにして中に入った。
中は……おおう、見事だね。
石畳が玄関まで続いていて、その側には小さな木や花が植えられている。なんとなく現の『植物園』を思い出す。
あれは予定調和で彼女の望み通りになった結果の楽園で、こちらは人が丁寧に手を入れた庭園って感じ。
まあ見事だ。
金かかってるね。
ボキャブラリーが貧相な僕はその程度の感想しか抱けないので、さっさと通り抜けることにする。
しっかし、玄関まで遠いと面倒じゃないんだろうか。
郵便届けるときとかさ……届くものはあっちから来てくれるからいいだろうけど、葉書とかポスト見るの面倒そう。
「玄関に到着でございー」
警備システムが停止しているので難なくここまで進めたけれど、途中途中に備えられた防犯カメラを見つけてしまう度に、どきっとしてしまった。
物理鍵よりも重要であろう警備システム。どのように動いているのか、詳しい仕組みは知らないけれど、それがもし八重葎さんによって止められていなければ、すぐに契約会社から警備員が飛んできて、僕は捕まってしまっていただろう。今のところは不法侵入かな? 余罪も追及されたらやだなー。ああ、本当に防犯カメラが止まっていてくれて良かったよ。
本当にさりげなく置いてあるので、気を付けなければ見つけられなかっただろう。
見つけることに慣れている自分がちょっと嫌になりつつ。
黒塗りの玄関扉に、先程の鍵を差し込んで回す。
これだけじゃない。もうひとつ鍵を取り出した。
この家は二種類の鍵を必要としている。扉の比較的下方にある鍵穴に、これまたみゃこさんから受け取った鍵を差し込み、回した。
そこでやっと、がちゃりという音と手応えを得ることができた。
しかしな。
これも面倒じゃないのかねえ。
セキュリティの充実と住みやすさはトレードオフなのかもしれなかった。冗句みたいな話だ。
鍵を手に入れられて、僕如きに破られているのも、何だか冗句じみている。
これならもっと厳重にしていいと思う。でもまあ、鍵を手に入れられたら、こんなものなのかもしれない。
最大のセキュリティはどこに居を構えているか知られないことだけど、社会で正式な身を持つと、それは到底不可能な話になるものだ。
僕は扉を引いた。ちょっと重たい。
現の『家』に引けを取らない程度に広い玄関。全然圧迫感がない。ちょっと懐かしいというか、親しみさえ覚えてしまいそうだ。
「よっこらせ」
高い段差をカバーするために置かれた石に足をかけ、おっさんみたいな声を出しながら家に上がる。靴は脱いだ。痕跡を残すわけにもいかないし、手に持ったまま歩く。
フローリングが少し暖かい。
外は四月だというのに、例年のように暖かくなってくれず、まだ寒さが跳梁跋扈しているけれど。床暖房でも常に入っているのだろう。
家の中も暖房が僅かに効いているのか、暖かい。上着を羽織っていては汗を掻いてしまいそうなので、ジャケットを脱いで、小脇に抱えた。
外出中も暖房を切らなくてもいい、という豪気さ。環境の敵め。冗句ですよ。
さて。この家は広くて迷いそうだけど、目的地である宝物庫――晦日籠の部屋は把握している。
玄関正面を少し奥に進み、左手に見えた無駄に幅の広い階段を登る。
携帯で間取りが記されたPDFファイル(これも八重葎さんに開き方を教えてもらった)を表示させて見るに、子供に割り当てられている部屋を除いても、空き部屋が多いな。
ほとんど倉庫として使っているのだろう。どんだけ金が有り余ってるのやら。恵まれない僕に募金をお願いしたいね。お前らの募金を待ってるぜ。
中は改築を重ねてきたのだろうけど、外見は少し時間の経過が見られるので、最近建てた風ではなかった。そうすると祖父の代とか、それより前かね。お爺ちゃんの頃から金が、あったと。
いや羨ましいね。
長男――あるいは長女。ここまできて性別不確定とは恐れ入った――が《異常者》であるかもしれない、という疑惑を除けば、全く理想の家庭だ。
階段から見て奥の部屋の一つに入る。
流石に室内の扉にまで鍵はかかっていない。
そう、『家の中にいる者』に、不逞の輩などいない――はずだからね。冗句だよ。僕が侵入者であり不逞の輩であるということは、冗句じゃなくてまぎれもない真実だけどね。
ドアノブに僅かな違和感があったが、すんなりと開いた。中の機構が緩んでたりするんだろう。
「個人に割り当てられた部屋のくせに広いな」
何畳くらいだ、これ。
そう疑問に思える程度には広い。
本棚とベッドと机とクローゼットと壁収納とテレビとパソコンと壁にかけられた虹色の抽象画と。
一番多いのは本棚か。
娯楽用の本も多いが、それ以上に難しそうな本も多い。僕が一目見てわかったのは、六法全書くらいなものだけれど。
学究の徒か。そういえば晦日籠は天才と呼ばれるほどに勉学に秀でた人物だったか。
奥には硝子戸。外にはバルコニーが広がっている。木製の椅子や机は何に使うんだ。読書か? それにしても広く、快適そうだ。それは部屋も同じ。大学生に相応しいとは思えない絨毯も敷かれているし、部屋も広いのに暖かい。
僕なんかこの半分以下の広さで姉と相部屋だったんだぞ。ちなみに二段ベッドだ。
それはそれでその手のフェティシズムを持った人間には羨ましがられそうなエピソードだけど。
男の部屋の割には綺麗だ。散らかりというものを知らない。もしかすると散らかったことすらないんじゃないだろうか、と思えるほどには。
雇われている家政婦が掃除しているのか、母親が掃除しているのか。
何となく晦日籠が掃除しているような気がするし、それが一番正解に近いのではないかとも思った。
これは誰も招き入れていない自分だけの世界だ。
綺麗に整頓され片づけられた部屋が、他者の介入をあからさまに拒んでいる。
シンプルな、世界。
「これはなかなか」
捜査――空き巣ではない。念のため――のし甲斐がありそうだ。
これから二時間ほどすると、家政婦が出勤してくる。家の前やここら一帯の防犯カメラや監視カメラを掌握してもらっている八重葎さんが、アラートを鳴らすことになっている。アフターサービスの充実した蒐集家だった。
「まずは机からがいいのかね。本棚からでも、いいだろうけど。とりあえずは」
引き出して見る。
引き出しの中身を確かめる。
全て確かめては元に戻していく。
侵入したことを悟られるのは良くないので、崩す前の状態をきちんと覚えてから中身を見ていく。
メモ用紙とか筆記用具類が多い。
部屋も綺麗に片づけられているけれど、机の中まで徹底されている。なので逆にやりやすい。
しっかし。
シンプルだ。
人を壊すこともシンプルだったのかもしれんね。壊されたものがだいたい同じ形になっていたのは、そういうことかも。
ああ、いや、まだこいつとは決まってない。もっと調べよう。
――ある程度時間が経過したが、机の中や周辺、本棚の中に何か手掛かりになるようなものはひとつもなかった。
机の裏とかに何か隠されていたりしないだろうかとも思ったけど、漫画みたいなことはありませんでした。というか、上着や靴を持ったまま捜査するのが思った以上に疲れる。置いてしまうと忘れていきそうなので、やはり持ったまま続けるしかないけど。
うーん、なら次は壁の収納かなぁ。
クローゼットもを開いて見ても、めぼしいものはない。乾燥材のきつい臭いが鼻を刺激しただけだった。
壁収納の戸を引く。白い壁に取っ手の穴を掘ったような、妙に隠密性の高いデザインだった。こういうのが金持ちの中では流行りなのだろうか。まあ確かに、一見して壁にしか見えないので、デザイン性は高いけど。
開いてみると押入れのようになっている。上段と下段。上段には布団類、下段にはダンボール箱小箱、箱箱箱。
「冷静に考えて調べるべきは箱の方なんだろうけど、僕は布団に隠されているのではないかとか勘ぐってみたり。まあ裏を考えてみることは重要だよね。たとえそれが外れだったとしても」
結局外れでしたけど。
僕は軽い溜め息を吐いて、下段を調べることにした。
配置をしっかりと覚えてから、まず手近な箱を引っ張りだす。
埃は被っていないので、用心する必要はない。時々取り出している、ということか?
蓋を開けると、ごみが詰まっていた。
ごみ。
ごみとしか形容できない。
折れたペンとかばらばらになった消しゴムとか破れた紙とか。
およそごみとしか言えないものが詰まっている。
「…………」
何もかもが壊れてる。
中身を詳しく漁るのはやめて、他の箱も次々取り出して中身を検分していく。
他の箱も似たようなものだった。
大き目の箱には一体の人形と、またごみが詰め込まれている。
いずれもどこかが壊れていて、歪な形に変えられていた。
それだけで全て足りた、としてしまいたかったが、そうもいかない。
いつかの死体のように、全て同じ形、というわけではなかった。
これは《異常》を使っていない。
土壌はあったかもしれないけれど、まだ。
確信できない。
本音を言えば、してしまいたいけど。
ただのごみ箱である可能性もなくはない。数値としては限りなく低いけど。
だってごみを取り置く理由がない。この部屋の主が、物を捨てられない病気の人だとは思えないし。
他の箱も同様で、何かしら壊れたものが詰め込まれている。
明らかに『普通の人』の趣味とは思えないけれど。
うーん。
わかりやすい証拠とか出てくりゃ良かったんだけど。そんな間抜けでもないだろうし、まだ彼が無実である可能性も捨てきれないわけだし。
あの矛盾も含めて。
「参ったね」
注意深く箱たちを元の形に復帰させて、収納から離れた。
調べてないものがなくなってしまった。この家は広いのだから、この部屋以外にも調べられる場所は多いけれど。
しかし自分の領域外に置くとも思えない。
あの『矛盾』も併せて、実は晦日籠は《破壊魔》ではないとか?
いやいや、『矛盾』こそが彼と《破壊魔》を繋ぐ証拠であるというのに。
思考をぐるぐる回しながら部屋を眺めていると、壁に掛けられた絵画に注意がいった。
壁収納の延長線上に掛けられた絵画。
抽象画、としか思っていなかったけれど。これは。
近寄って見てみる。
あの日大学この構内で見たものと作風が似ている、ように思えた。タッチというのだろうか。どこか似ている。
それにこの絵自体が。
展示会よりもずっとストレートにグロテスクを露わにしていた。
何だろうね、人? 人がぐっちゃぐちゃっていうか。
出血してたり断面が見えてるわけじゃないけどぐっちゃごちゃに『混ざって』いる。芸術芸術している、とは思う。
肉体による、自席の交換会かな?
自分で描いたものだとしたら、ナルシストなのかな。自分は何かを作って飾るなんてしたことないので、理解が及ばない。
ふと、閃きがあった。
観夕の時と似た、思いつき。
「……いやいや、まさかね」
僕は上着を床に置き、靴を逆さにして上着の上に載せた。
おもむろに絵画の両脇を掴み、持ちあげた。幸いにして大きなものではなく、僕が両手を広げるより幅が狭かった。
少し重たいけれど、壁や床に傷をつけたりしないよう、慎重に下ろして、立て掛ける。
「ふむ」
これはこれは。
壁収納。
先程のものとは別に、小さな壁収納が。
絵の裏に。
「バイオハザードかよ」
感想を素直に述べる。
怪しいね。
怪しいね、怪しすぎるね。
隠すだけの何かが、そこにあると。
雄弁に告げている。
同じように取っ手に手を引っ掛け、引く。
ずずず、と。
そんな音はしなかったけれど、宝箱でも開いたかのような感触があった。
中に収められていたのは、小さなアルバム帳。
手帳のようなそれを、手に取って開く。
これは――決定的だ。
十数枚の写真。
なんてことのない、ただの写真。廃墟や深い森の中の様子が、写真の向こう側に収められていた。
だけれど、どこまでも決定的な現実の写し鏡だった。その全ては、行方不明者の血液が発見された場所――僕がしっかりと死体を確認した、廃美術館のものもあったのだ。
へええ。
消失する前の、現場状況。
それをデジカメ撮影したものが。
プリントアウトされて。
収まっている。
僕は上着と靴を手に持ち、上着の中から一枚のメモ用紙を取り出した。
「あーあ。これで確定しちまいましたかね」
矛盾のことは気になるけれど、とりあえず排除執行の許可は降りるだろう。僕はその写真を、携帯で撮影しておくことを忘れない。持って帰るわけにもいかんでしょうしね。
――しかし。
こんなわかりやすい証拠を、それこそバイオハザードのように、わかりやすい位置に?
置いておくだろうか。
僕ならこんな場所に置かない。
僕でもこんな場所に置かない。
晦日籠は天才。
少なくとも天才と呼ばれる程度には頭の良い人。
そんな奴が、こんなわかりやすい場所に?
僕ならプリントアウトなどせず、パソコンの中にでも隠しておくだろう。
アルバムを素早く片付け、屈んで上着と靴を拾い上げた、ところで。
視界に。
背筋に。
嫌な予感と悪寒が同時に訪れた。
右側、扉の方からわかりやすい違和感が飛び込んできた。
僕は咄嗟に後ろへと飛ぶ。バックステップのような形。
目の前には手があった。
僕を掴もうとしていたらしいその手は、グーとパーを何度も繰り返す。上手く掴めなかった手は、空を切ったことを確かめていた。
「……おいおい。いったいどういう手品だい、こりゃあ。イリュージョニストかよ」
晦日籠が現れていた、わけではない。
だって防犯カメラを全て監視している八重葎さんから、そのような連絡は来ていない。
しかし、手はあったのだ。
手だけが在ったのだ。
目の前に。
女性の右手らしきもの。
スプリングコートに包まれた腕、だけが空中に浮かんでいる。
ように見える。
そのようにしか見えない。
親指が左の方にあるので、右腕か。
右腕だけが、晦日籠の室内に顕現していた。
その手が感触を確かめるような動きをやめた。準備運動を終えたように。
準備運動?
ということは、次に来るのは。
腕が消える。
「……っ!」
本番に違いなかった。
再び目の前に現れた腕が、手のひらが、僕に迫る。
触られてはいけない――。
過去に無効化された、観夕のスローイングナイフが脳裏に浮かぶ。触れられただけで、ばらばらだ。
しかしこちらに迫っているものは止められないし、僕がその腕を掴んで止めるわけにもいかなかった。なにしろ《破壊魔》の《異常》を全て把握しているわけではないのだ。今目の前に腕が在るということがその最たるもの。
いったいどうやったらこんなことできるんだ。
破壊というシンプルな技で業だったはず、なのに。
透明人間?
いや待てよ。
破壊?
ああー。
あーあーあー。
成程ね。すごいな。極まってる。
「…………」
僕は右手に持っていた靴を投げつける。
触れられてはいけない。しかし止めなければならない。
何かを壊させて、その隙に。
脱出しなければならない。
――果たして僕の投げつけた靴は、《破壊魔》と思しき腕、手のひらに命中した。
皮の部分と布の分と紐とその他靴という物体に包括される全てがばらばらと。
全て均等に等しく小さな欠片となっていく。
至近だったがゆえに、その様子がはっきりと見えた。
観夕のナイフの時にも思ったけれど、もしこれが僕の体に触れていたのなら。
想像するのも恐ろしいことだね。
流石に背筋が冷える。
しかし、成程。
これが、死体の痕跡――肉から骨から全て同じ大きさ、同じ形になった訳。
やっぱりラスボスじゃねーか。
宝箱はミミックだったし。
いやそれ以上に運のステータス値が低すぎるな。
ミミック引いたらラスボスと強制エンカウント。
うーむ。
晦日籠は罠を張っていた。読んでいた、裏をかいたつもりだったのに、さらに裏を読まれていた。
飛び込めば大丈夫、気づかれないと思っていたのに、それさえ読まれていた。マジかよ。晦日。マジかよ。
でもまあ、攻略のヒントをひとつ頂いたということで。
何を持って発動中とするかは、《破壊魔》の手の動きを見て判断するしかない。フェイントを織り交ぜられると怖いので、頭の中に留めておく。
肝要なのは先程からわかっているけれど、触れてはいけない、触れられてはいけない。再確認。
みゃこさんに報告して観夕に伝達しなければならない、と今後の予定に組み込みつつ、自分の逃走ルートも試作する。
靴の破壊で目くらまし(どこに目があるのかは知らないけど)になっている、という希望的観測のもと、とにかく扉から廊下に出る、ということを提案する。
だけど、ここは晦日籠の家であり、私室だ。目くらましが成功していたとしても、すぐに復帰するであろうし、見えていなくても間隔だけで僕の体を探り当てる可能性は高い。
なぜならここは彼のダンジョンでありアジトであり、隅々まで知り尽くした、住み慣れた家であろうからだ。
危険は冒せない、というよりも、ミスが許されない。ひとつでもミスがあれば、即死。ばらばらになって終わり。
「オワタ式かよ」
呟くと同時に右手が動きを見せた。ぴくりと僕の方を無効とする。
反射。
僕の体にしてはいい反応速度だった。
大したことのない運動神経を総動員して、再び背後に跳んだ。右腕は消えていない。
が。
新しく左手が『生えて』いた。
また違う場所から。
僕に近い場所から。
というよりも目の前。
右手と左手の位置は遠すぎる。人間二人分くらいは優にある。
やはり透明人間などではない。
僕の想像通り、予想通りなのだろう。
ああ、しかし。
想像力が足りなかったな。人間スケールで考えちゃだめだったんだ。
それに、この速度はいかん。
とてもいかん。
なぜなら僕はまだ、後方に跳んだまま、空中にいるまま。
右腕の動きに反応しすぎた。
ひとつのミスに気を配りすぎたがゆえに、他のミスを誘発し、フェイントに引っかかっている。
引っかかりつつある。
空中にいる僕へと向かって、手が伸びてくる。伸びる速度の方が早い。
猫じゃないから姿勢の変更もできない。
観夕や鬱子さんなら可能なのかもしれないけれど。
僕には。
その心得が。
ない。
「っ、ぉぉおおおおおおおおおおおおおおッ!」
苦し紛れ。
脇に抱えていた自分の上着を、投げる。
一か八か。
視覚は顕現していないはずだ。その証拠に目の様なものは見当たらない。
あるいは手の目線で見ている可能性もある。
どちらにしても、自らの記憶と曖昧な視界に頼って僕を攻撃している、はず。
そうでなければ僕が死ぬからそうであってくれと願っておく。
指先に伝わる触覚。布の手触り。
右の袖が奴の左手に命中。
頼む掴んでくれ掴んだ握られた!
僕は上着から手を離した。
《異常》が発動。
破壊が始まる。
端から分解されていく。
布と糸と毛と。
ばらばらになっていく。
確証はないけれど、掴んでいると良くないと思ったし、僕はさっさと次の行動に移らねばならない。手を離す。
上着は安物なのでどうでもいい。勿体ないとは思うけど。
尻から床に軟着陸。
想像していたような痛みはない。
室内に敷かれた、柔らかな絨毯のおかげである。嫌味な奴め。これだから金持ちのボンボンは。羨み百パーセント。
接地した右足を軸にして、姿勢変更、回転。
後ろを向いた。
ここから先は完全に速度勝負だ。布と糸とその他諸々がばらばらに分解されていく向こうで、右腕が消えたのを見た。きっと、今は左腕も消えている。
次はどこから湧いてくるかわかったものではない。予測を立てている時間はない。
じっとしているわけにはいかない。
左足で絨毯を蹴る。滑らかな毛並みのせいで力の半分程度が流されそうになるけれど、ぐっと堪える。蹴りだす。
バランスを保てず前のめりになりながらも、走り出すことが出来た。
姿勢の崩れは手をつきながらでも何とか支える。
転倒だけはやっちゃいけない。
進む。
進む。
進む。
部屋が広いのが恨めしい。
羨ましいし恨めしい。
つまんねー冗句だ。
背後の殺意をびんびんに感じながら、何とか硝子戸まで辿りついた。
目的は外だ。外に出なければならない。
サッシを引く、けれど開いてくれない。僕の予想ではがらがらとすんなりスムーズに開いてくれるもんだと信仰していたのだけれど。
鍵がかかっているのを忘れていた。結構焦っているみたいだね、僕。
さっとロックを下ろした、ところで。
背中に悪寒がもりもりと立ち昇る。
身を竦めるようにして屈む。何かが背後で薙いだような、不自然な風が肌を撫でた。
やっべー、頭の上通ってんじゃん。
とすると、次は左手が伸びてくる。
僕ならそうするからだ。
右手をフェイクにして。先程と同じ手で。来る。
体勢を買えずに顔と視線だけを背後にやる。
やはり左手が迫っていた。
背中のの真中あたりを狙っている。
「ぐおおおおおおっ!」
呻き声を挙げながら、無理やり体を逸らした。
捻じ曲げるように。
捻じ曲がるように。
どっくんどっくんと耳の裏が脈打っているのがわかる。
回避できた、はず。
代わりにぼきぼきぼきぼきっ、と人体から聞こえてはならない音を奏でたような、気がする。
アドレナリンが分泌されているのか、痛みは感じない。
これ後で来るパターンだよね、たぶん。
僕の思考を余所に、硝子が割れる。
割れるとかいうレベルじゃない。
アルミ色のフレームも。何もかもが砕けるように。均一に同じ形になっていく。
同じ形にされていく。
硝子片の一部が僕の手の甲や腕の露出している部分に突き刺さり、血が流れるのを感じたけれど、無視しなければならない。幸いにして痛みはないので助かる。今は。
捻じり運動のまま、左方に転がる。
起きて、左手を伸ばした。
壊れていない硝子戸を掴み、強引にレールを走らせる。
右に、右に!
完全には開ききっていないけど、これでいい。最初の門と同じだ。
人が通れるサイズなら、何でもいい。
体を部屋から脱出させ、バルコニーへと躍り出た。
暖房に温められた空気に背中を押されるように、外の冷たい空気に刺されれるように。
後ろから更なる手が迫っているのは、見なくともわかること。
振り返るな。進め、とにかく進め。
靴下を履いていても、地面から伝わる冷たさは相当なものだった。
それ以上に、割れた硝子片が足裏に刺さるのがわかる。痛みはなくともわかる。想像するだけでも血の気が引く。
だけど、知るか。
躊躇しているような場合じゃない。
家の門の方角――このまま真っ直ぐか!
風景から判断。
走る。
走る。
走る。
走る走る走る!
時間がゆっくり流れているようにも思える。
意識が過敏になっているのか。過剰になっているのか。
もうよくわからないままに走らなければならないという焦燥感と背後の圧迫感と恐怖感に駆りたてながら、走る。
そして柵とも壁ともいえる塀目掛け。
ほっぷ、すてっぷ、じゃんぷ。
手摺のついたそれに手をつけ、勢いのままに足を外に出す。
跳び越える。
体育の成績に自信はない。
跳び箱も苦手だし、走り幅跳びや走り高跳びだって苦手だ。よく足が棒に当たって失格になる。
同様に、手摺や塀に足がかかると、とんでもなく不味い。
が、これしかない。祈るしかない。
果たして、足は棒に引っかかることはなかった。
跳び越えてくれた。
だけどまだ安心できない、というかここからが本番であることを、景色が圧倒的な現実感を伴って教えてくれている。
体はまだ、完全な空中にあった。
デジャヴ。
地上四十階と二階では圧倒的な差があるというのに、昔のことがフラッシュバックしようとしている。
今は地上二階に集中しろ、と僕の様な僕が囁いた、ような。
重力から解放されたような浮遊感と、意識がさらにスローにスローにスローに遅れていく。
――一瞬とも永遠とも思えるような刹那の後に、重力が働いて、僕の体は落下する。
晦日籠の私室は、二階にあった。
そして、この辺に建てられている豪邸の例に漏れず、一階も二階も無駄に天井が高いということを、考慮し忘れていた。
空中に飛び出した後に、ようやく思い出した。
普通は三メートル前後の高さだろうけれど、ここは五メートル近くありそうだ。三階くらいから飛び降りてるのと同じなのか、と。
落下しながら景色を見て思い。
地面が迫る。
綺麗に整えられた芝生は柔らかかった。
左足右足。
接地。
着地。
して、何とか受け身を取ろうともがく。
鬱子さんに教えてもらった『ロール』という前転によく似た動きで、衝撃を受け流す。
マットの上で形だけしか教わっていないのでぶっつけ本番である。
回転に移行するまでが若干遅かったので、ちょっと失敗した。
足裏から膝までにかけて、じいいいいいいいいんと、ずきずきする痛みを数倍に増幅した痛み。痛みが滲んでいる。
もうアドレナリンが切れているのか。
まだ体は痛みを訴えていないけれど、そのうち暴れ出すだろう。
足裏を軽く確認する。運が良かったのか、硝子片そのものは刺さっていない。けれど、足裏の皮膚の各所を引き裂いて、血が流れ出しているようだった。
「いっっっ」自然と溜まった。「てえええええええええええええええ……」
じんじんと足の骨に滲む痛みが、一番きつい。
よく考えたら靴も履いてねえじゃん。そりゃ受け身とっても痛いわ。
晦日籠め、恨むぞ。
地面が土と芝生でダメージが軽減されていると言っても、痛いもんは痛かった。
だけど、あまり痛んでいる暇もない。『庭に出れば大丈夫』というのは予測であり希望的観測であり、僕の願いでしかないからだ。
部屋は彼の世界だが、外はどうかな、っていうね。そもそも今見たような離れ技に対しての予測が正解でないと、成り立たないし。
痛みを我慢しながら、門まで急いだ。
我慢しても、痛いものは痛い。ひょこひょこと足裏に刺激を与えないように、それでいて急ぐという行動により、間抜けな足取りになるのも仕方ないことではあった。
晦日家の敷地内から出て一分ほど走ると、背後の気配はなくなっていた。
バルコニーから外へ飛び出した時点でなくなっていたけれど、ついてきているような様子はない。
やはりあれは、自分のよく記憶している場所か、実際に見えている場所でなければ使えないのだろう。
一息、吐いた。
そうしてやっと、自分が死ぬほど息を吸ったり吐いたりしていることに気がついた。
わあお、酸欠になりそう。膝に手をついて、深呼吸を繰り返す。
まだ住宅街の中ではある。道行く通行人――おばさまの視線が妙に突き刺さる。
改めて自分の姿を確認すると――黒いシャツに藍色ジーンズ。靴は吐いておらず、鼠色の靴下だけ。汗をだくだくと流し、荒い息。おまけに腕や足には血の痕が。
完全に変質者だった。
通報される前に、とりあえずどこかで靴を買おうか……両方とも壊されてしまったので晦日籠に請求したいところだ。直接対決ではなく法廷で戦おうじゃないか。冗句だけど。
また財布が薄くなるな。困ったもんだ。
僕はびりびりと痛みだした足裏と全身の意見を無視しつつ、歩きだした。
「はー……しかし。まあ。とてつもなく面白くて、とてつもなくやばいってことはわかったよ、《破壊魔》。破壊、破壊ね……」
次元の裂け目を見た、ということになるのだろうか。
僕はもちろん初めてだけれど、人類にとっても初めてのことになるのだろうか。
いや、次元というよりもむしろ、晦日籠が壊したのは――『距離』、かな。
あいつがどこにいたかは知る由もないので、あとで八重葎さんに訊くとして。とにかく遠く離れた位置から、『そこ』から『ここ』までの距離を破壊して、腕を顕現させていたと。だいたいそういうことだろう。
恐らく視覚はなかった。監視カメラの類はあったかもしれない。八重葎さんに見つからないような。
けれど、僕がと彼女が見つけられないのならそれは超小型であり、あまり鮮明な画像を送信できないものだろう。
だからこそ僕は助かったのか。隠しカメラの鮮明でない映像と、自分の記憶と予測のみで、僕を追いつめてきた。やっべえな。
いっそのこと目の距離も破壊してしまえば良かったのに、とも思うけれど――それは彼がまだ実践していないのか。普通に考えたら怖いもんな。距離を壊した先になにがあるともわからない。
……ああ、それであの『写真』か。成程ね。見ている場所か、自分のよく知っている場所しか壊せないのか。成程成程。
しっかし、壊した距離はどうなるんだろう。考えても栓のないことではあるけれど、時間とともに治ってしまったりするのだろうか。
――冷静に考えるほど、あり得ないことであり、途轍もないことである。
あり得ないからこそ、あり得る。ヒトの発想や物語は可能性を捻じ曲げる。可能性の方向性を決める。
科学技術さえ追いつけないことを平然とやってのける《異常者》は、ただただ、ひたすらに恐ろしいばかりだ。
そこまでに進化と変貌を重ねている晦日籠の《異常》も凄いし、やばい。やばすぎる。
よく生きて帰れたな、僕。まだ帰ってないが、逃れることに成功した。
ほとんど全部賭けみたいなものだったけどね……幸運なのか不運なのか。死んでおけば、あいつの《異常》を知って尚立ち向かわなければならないって予定も、なくなったかもしれないのにね。
ラスボスとエンカウントして、逃走ができたということは、これはまだイベントエンカウントではなかったということだ。
僕にとっても、相手にとっても。
しかし、まあ。
晦日がどのように犯行を重ねることができたのかもわかったし。自分の腕を余所に送れるのなら、他人丸ごと送ってしまうことも出来るのだろう。
後ろから近づいて、対象の『意識』を破壊して、廃墟や人目のない場所に送って。そして破壊を行う。
そんなところだろう。
目的は大体果たした。
写真の写真を手に入れたし、晦日籠の部屋で襲撃を受けたこと事態が証拠になるだろうし。
「メモも落としてきたしね。きっと晦日籠は目敏く見つけてくれるでしょ。あとは――詰めていくだけ。シンプルに」
携帯で周辺の地図を呼び出す。靴屋はないかな。ショッピングモールでもいい。
おっと、その前に財布の内容量を確認せねば。なけりゃ引き出さなきゃいけないし。
と。
僕はそこで、重大なことに気がついた。
財布は。
上着の内ポケットに入れてたんだ。
そして肝心の上着は。
「……畜生」
ついてない。
了。