4.亀裂

作:宴屋六郎



自分探しという言葉の陳腐さを自覚すべきだ。



 明日の行動は決まった。
 もう我慢しきれない。欲望が決壊しようとしている。
 目には見えなくとも、確かな実感があった。
 それは汚い。
 それは臭い。
 それは腐っている。
 警察官として働く親戚の何人かから、聞いていた。
 死体の話だ。
 まるで自慢話のように語られるそれを、僕はつまらないと思いつつも、笑顔で聴いていたものだ。無論、愛想笑いではあるが。
 『大多数の人間とは異なる仕事をしている』。
 彼らはどうも、それに関して多少なりとも自分を特別だと思っているような節があった。
 宴会の席だ。
 僕が無事に某有名校に成績トップで入学したことの、祝いの席。
 いずれは警官か検事か弁護士か、あるいは学者か。そんな話の流れで。
 酒の入った彼らは同職の人間が多いからか、仕事の話をしたがった。僕にも警察官なんかになって欲しかったからかもしれないが、はっきり言って鬱陶しいとしか思えなかった。
 しかし、死体の話。
 人間だったもの。
 壊れた人間。
 確かにそれは、興味深い話ではあった。
 とはいっても、その話はほんの数分で終わり、あとは仕事の不満や無能な部下、尊大な上司。そんなこまごまとしたくだらない話にシフトしていったのだが。
 ――あれからの己の人生の方はというと、何の障害もなかった。
 自分は確かに、親族一同の言うように、成功への道を歩いている。正確には、歩かされている。
 彼らにはレールを敷いた自覚はない。僕だって彼らのせいにするつもりはない。レールを選んだのは選んだのは自分自身だ。
 けれど、確かに。
 目の前にレールを用意したのは、彼らなのだ。
 まあいい。
 不夜でも有数の進学校に入学し、今のところは学年で一番の成績を維持している。
 これまでのように。そしてこれからも、それは続くだろう。
 他人ほど努力を必要としない。僕の脳や思考が勉学に向いているからだろう。
 だからこそ、何にも面白みがないわけだが。
 高校に入学して良かったこともある。
 中学校ではスポーツクラブの勧誘が鬱陶しかったのだが、こちらの学校は勉学と文化に力を入れていて、ある程度は過ごしやすい。
 公立だったせいもあるかもしれない。
 ここなら、と美術部に入部することもできた。三年間我慢した甲斐があったのかもしれない。
 独学でここまでやってきた僕にとって、美術の勉強は非常に楽しく面白いものだった。何もかもが新しい。
 概念という概念が僕にとっては新鮮で、受け入れていくことは歓びだった。
 しかし、楽しさと喜びを感じつつも、僕は不満のひとつを抱え込んでいた。
 自分の本当に描きたい絵は、描いてはならない。
 美術室、少し遠くの席に座り、特徴のない絵を描いている女の子。あんな絵じゃない。あんな綺麗にまとまっているだけで、何の特徴もない絵じゃない。そうじゃないんだ。
 ――僕にはわかっていた。
 僕が描きたいものは、他人にとって受け入れ難いものだということを。
 あの日あの時の母親の顔がそうだ。
 憧れの絵画。それを見たときの母親の表情。
 嫌悪感そのもの。
 絵画の、圧倒的シンプル。
 どこまでも他人を歪んだ目でしか捉えられなかったであろう彼の、シンプルな人間。
 人間はもっともっとシンプルでいい――。
 それは僕以外の多くの人にとって、受け入れ難い価値観だろう。
 だから美術部に入り喜びを享受している僕であっても、自分の描きたい絵は自分の領域でしか描けなかったのだ。
 描けるだけいい、と思う。
 だが、僕は僕の心の奥底に潜むそれを抑えることができない。
 このグロテスクなほどにどこまでもシンプルさを追求した絵画を、他人に見せることは叶わないのだろうか、と。
 心のどこかで求めている自分に気がついてはいた。
 とは言っても、まだまだ自分の理想には程遠い。いつかどこかで他人の目に触れる機会が来るまで、それまでに完成させればいいだろう。
 才能や芸術は完成しないとわかっていたが、自分にはできるのではないかという確信に似た想いがあった。
 今は、技術を学び、自分の好む絵を描くこと。
 それだけでいい。多くは望まない。
 複雑な色合い、アングルや技巧の凝った絵。
 確かに、技術としては面白い。
 が。
「もっとシンプルでいい」
 そう、もっとシンプルで。
 目下の悩みはそれ。
 ――だが、悩みはひとつだけとは限らない。
 人間という複雑な構造と思考を持ち、社会という複雑な構造の中で、人生という複雑な道を歩む生き物にとって、悩みというものは慢性的に発生するものだ。
 それも単体ではなく、複数であることも、多々。
 この頃はもう、破壊衝動を抑えることが難しくなっていたのだ。
 壊したい。
 何かを壊したい。
 前と同じように妹の要らなくなった人形、だけでは数が足りなくなってきた。
 自分でも押さえてはいるが、週に一度は我慢ができなくなる。
 幸いにして我が家は裕福な家庭であったため、支給される小遣いはそれなりにあった。
 だから、人形を自分で購入することができた。
 実物を店頭で買おうとすれば、僕の年齢からするとちょっと不審者になってしまうが――ネット通販とは便利なものだ。
 かくして僕は定期的に人形を壊すことで自身の満足を得ていたのだが、それはそれでまた違った問題が生まれようとしていた。
 いや、どちらかというと、不安か。危惧を抱いていたのだ。
 ネット通販で、吟味して選ぶ。
 壊す。
 壊すために買う。
 そして壊したものを描き、それを壊す。
 そのサイクルは、果たして自分にどんな影響を与えるのだろう、と。
 他人は抱かない(と思われる)、この欲望を、抱えているのは。
 幼いころには押さえようと思った。だができなかった。
 結果的に折衷案として、定期的に発散することにした。
 今のところ、僕の破壊衝動はそれで満足してくれている。
 しかし。
 このままで大丈夫なのだろうか、という不安は残る。奥底で静かに燻り続けている。
 だから、僕はどうにかしようと思ったのだ。
 試す価値くらいはあるかもしれない。幼いころには考えられなかったが、今なら、何とかなるかもしれない。
 そう、明日の行動は布石。
 午前のうちに学習塾(僕には必要ないというのに、母と教師は頭が固い)での活動を終え、それから遠出する予定だ。
 スタンド・バイ・ミーではないが、死体を観に行こうと思ったのだ。
 何か具体的な目的があるわけではない。完全な興味本位だ。
 僕はただ知りたかった。
 自分のこの破壊衝動は、人間を壊すことを求めているのではないか、と。
 今まで直視を避けていたことだが、だんだんと目障りになってきた。そろそろとどめを刺す、あるいは確認を行っても良い頃だろう。
 だから、話は戻る。
 死体は恐ろしく汚く、臭いものだと言う。彼らは確かにそう言った。
 そんな忌避すべきものならば、僕の欲望を砕くことができるかもしれない。人間を壊してしまうと、汚くなるのだと。言うのなら。
 僕はまた、自分の欲望を抑えようと試みていたのだ。
 人形を壊しても、得られる快感が小さくなってきているのは火を見るより明らかだった。自分のことは、自分がよくわかる。よく言ったものだ。
 解放して、抑えて、解放して、抑えて。そんな繰り返しだ。そろそろここらでけりをつけておくべきなのだろう。
 だって僕は。
 レールを外れるわけにはいかないのだから。
 ぎちぎち。レールが音を立てる。見えない螺子がゆっくりと回る。
 不夜市の北には不夜山という、名前そのまま象徴のような山がある。正確な標高は寡聞にして知らないが、そこそこ大きなものだとは思う。
 その麓には富士の樹海――青木ヶ原とまでは言わなくとも、割と大きな森林が広がっている。
 不夜樹海。
 そんなふざけた渾名が定着する程度には、深い森。
 林道以外にはほとんど人の手が入っていない原始林。
 そもそも不夜市北区は高級住宅街を抜けて更にしばらく進むと、それはもう絵に描いたような田舎が広がっている。
 地元の学生たちにとっては、ありとあらゆる意味で人気の『スポット』である。
 怪談噺やら都市伝説やら。
 不夜市屈指の自殺の名所であることも相俟って、時折ヒトの死体すら見つかることが多いらしいとも聞いた。親族の何人かが言っているので、間違いなかろう。
 僕の家は例の高級住宅街に威風堂々と建立されているので、不夜樹海に足を踏み入れる難度は、他の区に住んでいる人たちよりもぐっと低くなる。
 不夜山にも、何度か入ったことがあるというか、むしろ常連だということも付け加えるべきか。その目的は、これまで何度か書いているので割愛。
 だから、そこで。
 探してみようと思ったのだ。
 人の死体を。
 生きていない、姿を。
 今から楽しみだ。

 ――――果たして。
 僕の目の前には人の死骸があった。
 林道から外れて二時間と少し。
 人の背程度の高さの岩陰で、緩やかに壊れていた。
 素人目には新しいものか古いものかわからない。しかしこの鼻腔を鋭く刺激する匂いから察するに、その中間であるように思えた。
 腐っていた。
 晩夏の熱気に当てられたものか。この森林は深く、日中から薄暗闇にあるが、それでもなお温度というのは、ヒトであることをやめたモノにとっては圧倒的だった。
 眼窩は窪みつつあり、肝心の眼はどろりとしている。形容し難い。
 これは女のモノだろうか。髪の毛の多くは水分が失われているが、残っている毛を見ていると、男とは思えない程度には長い。
 肌は――土気色とでも言えばいいのだろうか。生気を失っている人間に対して使ったりする言葉だが、目の前にあるのは生きていないもの。まさしく死んでいる人間だ。彼女は、死んでいる、と思わせる色をしている。全体的に。
 Tシャツであったりジーンズであったり靴であったり。それらは風雨に曝され劣化はしているものの、着用している本人ほど劣化しているわけではない。
 首筋には何かの痕がしっかりと残っていた。まるで手の様な、とまで考えてから思い出した。
 人は自分の首を絞めても死ぬことができるという。
 いつだったか本で読んだだけの知識ではあるが、目の前にそれらしきものを並べられると、無慈悲な説得力がある。
 自分で自分を壊すために、彼女はこの樹海までやってきたのだろうか。
 そして人間であることをやめて、静かに朽ち果ててゆくのか。
 確かに汚い。
 臭いも酷い。
 濃厚な『死』の臭いが漂っている。
 生理反応で喉をせり上がろうとしているものの存在を感じる。
 しかし。
 同時に。
 惜しくも思った。
 確かにこれは壊れている。
 壊れていること自体は。
 とても美しい。
 だが足りない。
 圧倒的に破壊が足りない。
 腐敗?
 臭気?
 温度?
 そんなことどうでもいい。そんな緩やかな破壊は破壊ではない。
 僕なら。
 もっとシンプルにする。
 こんな複雑形には絶対にしない。
 やるなら、もっと――。
 だから。
 壊したい。
 壊したい。
 壊したい壊したい壊したい。
 人を壊したい。
 人間。
 人間だ。
 人間を壊したいのだ。
 僕は。
 僕は僕の欲望を自覚した。
 自覚してしまった。
 抑えるなんて無理だったんだ。
 客観視することでよくわかってしまった。
 自分のことは自分がよくわかっていたくせに。
 後悔はある。
 だが、もう遅い。
 もう、手遅れなのだ。

失望奇譚集――壊虐奇談4
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 もう手遅れだと思った。
 何が手遅れって、大学のことだよ。ここまで来たら手遅れだ。帰れない。
 オープンキャンパスで指定されていた日。
 交通費は出る、だから学校に行って担任と交渉するべきだと脳内スケジュールに組み込んでいたのは良かったけれど、同時に思い出してしまったことがある。
 僕は新学期に突入して、一度も出席していないということに。
 記憶を辿る。
 始業式のようなものには参加した、と思う。校長や教頭や学年主任が話していたありがたーい無駄話の内容は一切覚えていないというか、そもそも誰が喋ったのかなんて完全に脳の外だけれど。一年生の紹介なんかは見た覚えがないこともないので、きっと出席していただろう(という希望的観測である)。
 それから蟻の行列のように、没個性的な十代思春期少年少女たちと一緒に、のらくらと歩いていた、ような。
 ああ、そうだそうだ。
 クラスの振り分けを見に行こうとして――みゃこさんから電話があったのだったか。マナーモードにしていて良かった。
 とにかく場を外して話を聞いてみて、《異常者》がどうの、鷹巣さんが予測地点を割り出したどうのという要領を得ない話があったので、午後からの予定を全てキャンセルして、学校から脱出したのであった。
 そこから僕の連続サボタージュ記録世界選手権への挑戦が始まったのだ。冗句かよ。
 つまり、僕は、自分が二年何組になったかも知らないし、担任が誰であるかも知らない。
 だからオープンキャンパスについて訊くこともできないし、交通費の支給を求めることもできなかった。そもそもどんな顔して学校に向かえばいいのだろう。脳味噌の足りない僕には想像もシミュレーションもできそうになかった。
 ということは、これもまた無断欠席になる。オープンキャンパスの手続きを取れば公欠になると聞いていたのだけれど、それもまた前述の理由で叶わぬ夢というわけ。
 しかしこれほど欠席を続けていると、そろそろ家に電話がかかってきそうだ。固定電話は持っていないので、この携帯か、あるいはみゃこさん辺りにかかってくるのではないかと思われる。保護者が誰になってるか思い出せないけど、みゃこさんだと思う。大穴で鬱子さん、ってことはないだろう。多分ね。あの人僕のこと嫌いだし。
 選手権大会については冗句であるとしても、サボり記録がずっと続いて記録されていることと、クラスメイトの顔ぶれや担任についてまるで知らないのは冗句でも何でもない事実なので、この世界は手に負えない。早く滅べ。主に僕のために。
「まるで冗句だ」
 僕は自分の部屋で呟いて、出かける準備をしたのだった。
 徒歩二十分ほどの最寄駅まで歩き、電車に揺られて不夜中央駅という不夜市のメインターミナルとも言うべき場所へ。
 そこからローカル線と言うべきか専用線と言うべきか、とにかく乗り換えを行って不夜大学前まで電車で六駅ほど。それから徒歩十分程度の道程を歩き、門の前に立っている。
 古めかしい、時代と共に在ったような煉瓦を積み上げられた門。
 こっちが正門だったかな。裏門だったとしても、地名以上の価値はなさそうだけれど。
 んで、何が手遅れかって言うと。
「…………」
 携帯の液晶をつついて、しばらく待つが、応答はなく「只今電話に出ることができません」と誰もが知っている声で、誰もが知っている決まり文句だけが垂れ流されていく。
 メールをしても電話をしても応答しやがらない伏見山観夕のことである。
 昨日護衛を依頼したときも生返事だったので、大きな不安要素ではあったけれど。
 携帯の液晶に表示されている時刻は午前九時、を少し過ぎた程度。
 気が乗らないのか。
 興が乗らないのか。
 あるいは女の子の日なのか。
 ……ごめん、忘れてくれ。今のは我ながら最低の冗句だった。
 とにかく彼女はサボタージュだった。なんだ、僕がとやかく言える立場じゃないじゃん。
 いやそうじゃなくて。これは仕事であるし、現在無職でありながらも《サナトリウム》から給金が出ているのなら観夕も働かないといけないとは思うんだけど。
 どうにも気まぐれだからなぁ。
 これも僕が言えるようなことじゃないか。
 僕のあやふやな記憶を辿る限り、同い年だったからオープンキャンパスに参加しても違和感はないと思うんだけどね。まあ顔は可憐な感じだから、ちょっとは浮くかもしれないけれど。
「でも観夕だと私服がやーんな感じか」
 黒い長外套黒いブラウス黒いジーンズ。
 オープンキャンパスは制服での参加が義務付けられていないとはいっても、あまりに個性的すぎる。何で単色で統一すると、逆に怪しい感じになるのだろう。
 闇に紛れて《殺人鬼》として行動するのなら文句のつけどころのないチョイスだけれど、普段から着る服としてのセンスは壊滅的だ。むしろ不審者だ。
 部屋着は黒のジャージだし。かといって黒が好きなのか訊くと、「どうでもいい」って返してきそうだし。
 まあ、これまた自分のファッションセンスに自信のない僕が言えたことではないか。
 いやあ制服って素晴らしいですね! 自分の個性を主張することなく、ファッションセンスも問われることはない! 冗句です!
 観夕は学校に通っていないので制服なんか持っていない、というお話でした。あれ、そんな話だったっけ?
「さて。こんなところでぐずぐずしていても、衆目の注目を集めるだけなので移動するか」
 わざわざ思考を声に変換してみたけれど、得られたのは空虚さのみだった。
 護衛は得られなくても、やるべきことはやらねばならない。
 何、そんな大きな争いごとはないさ。だってここは大学だぜ? 公共の場ですよ?
 観夕がいたとしても、こんなところで大きな騒ぎを起こすわけにもいかない。
 《破壊魔》にしたって目立つことは避けたいはずさ、と心中で伏線を張ることに余念がない。
 僕は、生まれてこの方開かれ続け、この道五十年といったふうな顔を一切していない門を通り抜けた。左側に植わっている巨樹を横目に、オープンキャンパスの受付と思しき机まで歩く。
 不夜市いちの学力を誇る大学なのだから、さぞかし真面目なお方ばかりなのだろうと思っていたけれど、そうでもないらしい。僕の家の近くにある大学(中の中程度)とあまり変わらないように思える。浮ついた服装や明るい髪色の人とか、反対に白衣を着て如何にもといった感じの人(ただし顔が若いのでコスプレにも見える)もいて、まさしく玉石混交。
 まあ、ピンキリだよな。
 受付で量産品といった風情の大学生――ボランティアだろうか、アルバイトだろうか――に自分の所属校と名前を告げ、学生証を見せると、プリントアウトされた地図といくつかの資料が詰まった封筒、そして手で僕の右手の方にある施設を示された。
 まずは全体で集まって説明会なんだとか。ふーん。
 僕は一言礼を言い、とりあえずその施設に向かってみることにした。
 構内のメインストリートは煉瓦床。両脇には緑樹が一定間隔で植えられている。
「なんだか大学大学しているな」
 意味不明の冗句をひとりごちながら、歩いた。
 僕と同じように制服を着た少年だか青年だかおっさんだかわからない学生とか、まさしく僕と同じ学校の制服を着ている人間がちらほら見える。残念ながら僕の知る人ではなかったので声を掛けられなかった、というか、知人だったとしても僕は臆病だし面倒臭がりなので話しかけようだなんて思わないんだけど。
 比較的新しいタイル造りの施設に入る。自動ドア。うーん、外見と言い、まさしく大学って感じ。
 まるで僕はおのぼりさんだ。間違ってはいない。
 親切にも目的の部屋までの順路がプリントアウトされた紙が要所要所に貼り出されて示してあった。
 脇の階段を登り、目的の部屋に入る。
 蛍光灯の光が強い。どうやら広い講義室のようだ。
 テレビなんかで何度か見てはいたけれど、こんなに広いんだね。鬼ごっことかできそうだ。冗句冗句。
 周囲を見渡すと、どれもこれも制服から首を生やした生徒ばかり。色んなところから来てるのだなぁと呑気に思った。
 この中で不夜大学に合格して通えるのは、何割なのだろうとか失礼なことを考えつつ、入口近くの適当な席に腰掛けた。
「間違いなく僕不合格だろうね」
 将来どうするかも未定なのだし。
 それどころか未だに自分の担任やクラスメイトの顔も知らない駄目学生の僕であるからして。
 大学の講義室、と言われて想像する通りの段々になっている長机と長椅子。
 周囲は友達連れなのか、少しざわざわとしているが、前方の巨大な黒板前にスタッフらしき人たちが準備を行っているので、然程煩くはなかった。
 頬杖を付いて待っているとスピーカーから声が漏れてくる。天井から提げられたモニターにも電源が入り、映像が流れ出す。
 どうやら前方の黒板をズームして映し出しているらしい。モニターは室内に何ヶ所も備わっている。
 金のかかり方が違うね。
 男が話し始めた。
 モニターは時折前方のスライド資料を映しだしたりして飽きさせなかったけれど、そもそもこの大学に入学する気も入学試験を受ける気もない僕なので、興味のない話が続いた。
 まあそれでも、我が校の代表たる校長や教頭ほどつまらない話ではなかったけれど。まだまだだね、僕らの校長に追いついてみたマエ。
 などと意味不明な供述を続けているうちに、オープンキャンパスの今後の予定について話し始めた。
 ここから自由に体験授業を受けて良いらしい。資料の中にどこで何の授業が何時から行われるか書いてあると言う。
 周囲の学生たちが思い出したように一斉に動き出す。僕だけが動かないと浮いてしまうと思ったので、僕もそれらに倣うことにした。何から浮くのかわからないので冗句的だ。
 緑色の封筒から一枚の印刷物を取り出した。地図とスケジュールを兼ねた資料のようだ。
 多くの施設が乱立している。大学とはまるでひとつの町みたいだ。
 これから三十分後――午前十時半には教室に入っておけばいいようだ。
 しかしどうするか。オープンキャンパスにかこつけて不夜大学の中から調べてみる、とは言ったものの。
 こんなに広く、色んな人がいる中では、ろくに嗅ぎまわれそうにない。
 午後三時くらいからはサークル見学なんかもできるらしいので、それに賭けてみるか。
 一番の本命は、天田和良の所属していた美術部なのだから。
 彼女の受けていた授業なんかもみゃこさんから教えてもらったけれど――うーむ、授業体験ということを使ってもなかなか難しい。
 最も働くべきはサークル見学なのだから、それまでは、まあ。
 適当でいいか。
 僕は酸素分子を数えることにした。
 略して、暇潰し。





 大学の講義というものはひとつひとつがかくも長いものなのか。
 どこかで九十分という話を聞いたような覚えもなくはないけれど、実際に受けてみるのでは勝手が違う。
 まああれだけの内容を扱うのなら、高校生のように五十分では足りないのだろう。多分ね。
 そうであってほしい。
 三つほどの授業を体験した。
 合間に昼食の時間があったけれど、結構体力を使った、ような気になっている。
 ちなみに親子丼は美味しゅうございました。このために不夜大学の食堂は訪れる価値があるかもしれない、と思えるほどに。
 鶏肉さんありがとう。
 どちらかと言えば鶏さんか。どうでもいい冗句でした。
 まだ体験授業は行われているようだけれど、僕はそろそろお暇させてもらうことにしよう。
 資料を見て美術サークルに割り当てられている場所を探す。
 印刷物を見る限り、美術室、ではないようだ。
 資料曰く、『縁命記念館』。
 美術や文芸サークルが発表として使っている場のようだ。学生のサークル活動に対して、豪勢なことで。
 でもまあ、ちょうどいいのかもしれないね。美術室で黙々と作業しているところを見せられるよりも、作品を見せてもらう方が、比較的楽なように思えるから。
 美術部志望者にとってはがっかりかもしれない。芸術をする手も見る目もない僕にとっては、歓迎だけれど。
 作品を見せられるのって、どうなんだろうね。著名な画家による作品ならともかくとして、所詮は学生のものだろうし。ああいや、これは失礼か。冗句だよ、冗句。お茶を濁しましょう。
 だけど展覧会でサークルの雰囲気がわかるわけでもないのは事実だろう。
 まあ、見学対応のやり方にもよるか。
 とか何とか考えているうちに到着でござい。
「なんというか、まあ」
 瀟洒な洋館。みたいな。
 この大学はよほど煉瓦が好きなのか。昔から建っていた風には見えない。記念館という名前のせいもあるだろうけど。
 その割には葉の茂った蔦が這っている。だけど不気味さはない。外観を演出するためにわざわざ這わせているのだろう。
 小ぢんまりとしている二階建てであることもあって、どこかアンティークショップのような雰囲気があった。
 こういう女の子女の子したところに入るのって苦手なんだよねえ。かといって雄々しい場所に入るのが得意というわけでもないけれど。
 躊躇するところがあっても、やるしかない。
 ええい、僕の重たい足め。さっさと歩まんかい。
 木製の扉(これまた雰囲気作りのためか白塗りで所々薄くなっている)のドアノブを握り、回し、押す。
 扉に嵌めてある硝子は磨り硝子となっていたので中の様子はわからなかったけれど、入ってみると数人の学生が見えた。制服を着ている。割と盛況らしい。
 暖色の光が灯っている。アンティークショップのようだと評したのは、間違いではなかったかもしれない。
 天井や壁に供えられた照明、壁の柄、絨毯のように見えるマット。アンティーク調で統一されている。
 ちょっと現の『家』を思い出したりしたけど記憶の彼方へと投げ捨てた。
 入ってすぐ右手に二人の女性が座っていた。受付らしい。
 一目で愛想笑いだとわかる笑みを贈呈しながら、一階全てが美術サークルの展示室になっているから、存分にゆっくりしていけという旨の言葉を並べられた。
 礼を言い、愛想笑いを返せない僕のことをちょっと嫌になりながら進んだ。まあ、僕が僕のことを嫌いだなんて、今更のことだよな。
 即席の壁として建てられたパネルに掛けられた絵画たち。
 カンバスって言えばいいのか、それともキャンバスって言えばいいのか。僕は審美眼など持ち合わせていないので、目の前に飾ってあるそれらが油絵なのかアクリル絵なのか水彩画なのかすらもわからない。
 いや流石に水彩画くらいならわかるけど。とにかく自信を持ってこれはこうだとかどれがどうだとか、どこがどうだとか、言えない。
 でもまあ、学生っぽい作品群なのかな。
 真似事、と言えばいいんだろうか。
 感想としてはそれだけだ。意味深長にしておけば批評っぽくなる、という冗句。笑いは必要だ。誰が笑うのか知らないけど。
 あんまりじろじろ見ていても楽しくないので、適当に順路を進むことにしよう。
 それから受付の人に適当な理由を見つくろって天田和良のことを――。
「わー、きれいー」
「ほんとー。すごい」
 ……何やら純粋培養されすぎている感想が聞こえてきたけれど、僕より先に入っていた高校生か。気づかなかったな。
 パネルの向こう側にいるらしい。声からすると女子二名か。
 美術館や博物館でもそうだけど、見ず知らずの他人と同じ作品を見つめるのは苦手だ。なんだか空気の詰まる思いをする。
 これ以上喉と肺に空気を詰め込む必要はない。過剰摂取は体に毒。歩みを止めて、適当に時間を作ることにした。
 うーむ、見事じゃないか。特にこの絵なんてどうだね。どこか憂いを帯びた女性。目から光線を出そうか葛藤している感じがよく出ている。
 わかってないようなわかってないような評価を下していると、パネル向こうの気配が動いた。
 足音と扉の開閉音。去ったようだ。
 どれ、障害は去ったしゆっくり観ていくかね。
 あれー? なんだか矛盾してるような気がするぞー?
 まあいい。とにかく語彙少なめに賞賛されていた絵画を観てやろうじゃないか。
 批評は語彙が多ければ多いほどいいというものではないけれど、少なければ少ないほどいいというわけでもない。匙加減の必要な職人技なのじゃよ。
 でっちあげですけど。
 角で折り返し、四枚ほどの絵画をちらりと見やる。
 手前三枚はこれまでと変わりない。一瞥だけをくれて通り過ぎる。
 一番奥。
 展覧会の一番最後に位置しているそれ。
「…………」
 人物画、と言えばいいのだろうか。
 男性とも女性ともつかぬ人物が、木製の額縁の中に収まっている。
 確かに、これまでの作品とは一線を画す雰囲気がある。線は素人目に見ても繊細であるし、人の表情の機微を綺麗に写し取っているように思う。
 実にシンプルな絵だった。
 だけれど。
 僕は。
 僕の内面の何かがぐらぐらと揺れる心地がした。
 先客たちはこれを「綺麗」だと評していたけれど。
 僕にはとてもグロテスクな絵に思えた。
 何がどうグロテスクなのかはわからないけれど、この人物画の奥底には、何か人の道から離れた強い意思を感じるのだ。
 絵を評しているわけではない。
 僕は審美眼を持ち合わせていない。
 でも、この絵画の向こう側に、確かな何かがあるように感じた。
 欲望。
 そう、欲望とも言うべき何かが。
 絵画の向こうでぐつぐつと煮えたぎっていた。
「この絵を描いた人は――」
「僕だよ」
 声。
 強制的に、現実に引き戻されたかのようだった。
 遅れてびくりと体が震えた。
 僕は一体何を言おうとしていたのだろう?
 左側に学生らしき人が立っていた。焦げた双眸が僕のことをじっと見つめている。
「この絵、わかるかい?」
 軽く脱色された髪の毛が小さく揺れた。
 ……第一声を信じるなら、この絵を描いたのは目の前の人物だろう。この人はフロアの担当なのだろうか? 受付では見なかったけれど。
 外出していて、返ってきたのかもしれないな、と一応結論付けて、言葉を手探る。
「僕はあまり芸術に詳しくないというか、むしろ疎いのですけれど。ひどくシンプルな絵ですね」
「『ひどく』」
 まずったかな。絵画に集中していた所に突然の襲撃だったので、少し頭が上手く回っていない感じがするのは確かだ。
 失礼なことを言ってしまっただろうか。心当たりはあんまりないけど。
「すみません。僕、美術にはあまり慣れてないもので。なんて言えばいいのかわからないんです。とても綺麗な絵だとは思いますよ」
「ふむ」
 学生は少し考え込むように顎に手を当てた。
 自身も絵画を見つめている。
 僕ばっかり相手を見ているのは何だかばつが悪いので、僕も同じように美術鑑賞と洒落こむことにした。
 気持ち悪いけど。
 どこがどう気持ち悪いのかは言い表せない。
 この人を放っておいてさっさと天田和良について聞き込みたい。しかし通路を塞がれているような形になっているため、ここを抜けるためには無理やり押し退けなければならないだろう。
 一言二言喋っただけの見ず知らずの他人を相手にできることではない。特に、僕みたいな臆病には。
 諦めと共に目線を下げていくと、今更のように絵画にタイトルが振られていたことに気づく。
 目線だけを動かして振り返ってみると、他の絵にも同じようにプレートが備え付けられており、タイトルと製作者の名前が彫られている。
 気がつかなかったな。それだけ興味がなかったということでもあるけれど。
 目の前のどこか曖昧にグロテスクな絵には、『追求』という題が付けられていた。
 製作者は『晦日籠』。
 ……読解の難しい名前だ。
「お名前はつごもり、こもり。でよろしいんでしょうか」
「ん? ああ、僕の名前か。そうだよ、つごもりこもりだ。ついでと言ってはなんだけれど、きみの名前を教えてもらっても?」
 何故いち来場者に過ぎない僕の名前が気になるのかわからなかったが、訊ねられたのなら答えなければなるまい。
 製作者は再び僕へと視線を戻している。
「佐藤一郎です」
 偽名ですが。
 本名を答えろとも言われてない。記号があれば問題なかろう。
 晦日さんは僅かに笑みを湛えて言った。
「すごい名前だね」
「大したことのない、ありふれたものですよ。ありふれた名字に、ありふれた名前を組み合わせたものです。まったく、創造性も想像性もない両親には呆れるばかりです」
 晦日さんは静かに首を振った。
「うん、まあそれが本名だったなら、その通りなんだろう。でもきみは、きっと違うね。きみはそんな名前じゃないはずだ。そんな普通の名前を、持ってはならないはずだ」
「…………」
 一体どういう意味を込めて言っているのだろう。
 しかし、本物の佐藤一郎氏に失礼だ。
 と思ったし、全国の佐藤一郎さんに失礼だとも思った。
 今時『佐藤一郎』なんて名前珍しいとは思うが。
 まあそれはいいんだ。
 それはいいが。
 晦日籠。
 これを偽名だと思った、その根拠は、いったい。
「あなたは――」
「晦日ぃぃー!」
 二度あることは、ではないけれど、一度起きたことは二度あるんだろうか。確率的にはあり得るような気もする。
 順路を逆走して現れた男子学生が一人。
 髪の毛を明るく染めていて、髭がうっすら生えている、ちょっと軽妙な感じの男性が、晦日さん目掛けて飛びついて来たのだ。
 僕は面喰って、不名誉なことにまたも何を言おうとしていたのか忘れてしまった。
「糟谷。二回で写真部を手伝ってるんじゃなかったのか」
「いやあなかなか人が来なくってさあー。俺っち暇暇なのよおー」
 晦日さんは溜め息をついた。
 糟谷と呼ばれた男子学生は、晦日さんにおんぶされるような形で組みついている。顔には悪戯っぽい笑みが。
 随分とお仲がよろしいようで。
「はあ……、わかったから向こうに行こう。展示フロアでうるさくするのはNGだ。それと」
「それと?」
「暑苦しい。くっつくな」
「いやーん!」
 男子学生のロックを解きながら、晦日さんは僕に背を向けた。糟谷さんを引きずるようにして連れて行く。
「それじゃあ」
 ごゆっくり。
 顔だけで振り返って、微笑。
 記念館の外へと歩いて行った。
「…………」
 僕は。
 再び絵を見る。
 グロテスクにシンプルな絵を。
 晦日籠の描いた絵。
 絵とは世界。
 自分の中身をぶちまけるもの。
 大なり小なり。
 画家の。
 心象風景。
「成程ね」
 こいつだ。
 確証はない。
 根拠もない。
 けれど、僕の探している人物は『晦日籠』に他ならなかった。
 確信のようなものがあった。
 晦日籠。
 僕は歩く。
 主目的である天田和良のことについて訊かなければならない。受付でニ、三言葉を交わす。適当な言い訳を体験授業中に考え付いていたので、びっくりするほどすんなりと話してくれた。
 しかし内容もびっくりするほど簡素なものだった。
 幽霊部員だから知らないと。知ってる人もいないだろうと。何故在籍していたかもわからないと。
 ふうん。まあ、そんなものか。
 でもいいんだ。
 僕にはもう必要ない。
 礼を告げ良い展覧会でしたとお世辞を述べて外に出る。
 日が傾きつつあった。
 少し遠くに自販機と喫煙所があり、そこには件の晦日籠と糟谷さん、それと複数名の男子学生が座り、談笑していた。
 彼らは僕には気づいていない。それをいいことに、しばらく観察する。
 糟谷という学生が現れた時から、ずっと気になっていたことがある。
 正確には、そうはっきりとしたものではない。
 小さく引っかかる違和感。
 そんな感じ。
 小さな棘に過ぎないそれが、しかし僕の胸中で跳ねまわっている。
「なんで」
 どうして女なんだ?
 晦日籠りと名乗った『女性』は、サークルのメンバー、あるいは顔見知りと思しき男性たちと合流して盛り上がっている。下卑た笑いも起きている。
 男性というものは、『女性』のいる場で下品な振る舞いはできない、と僕は思う。少なくとも僕の経験では、見たことがない。
 確かに晦日籠の言動は男性のするそれだし、顔や服装も男性的だ。
 しかし、体の線は全体的に柔らかだったように思う。
 肩幅は男のように広くないし、腰回りも女性と同様に緩やかだ。
 春物のロングコートなんかであまり線を出さないようにはしていたようだけれど、どう見ても女性だった、はず。
 男装の女性、ならわかる。
 けれど、周囲にいた人間たちの扱いは、男性のように。
 まるで男性のように扱っているのだ。
 先程受付で世辞を述べた際、女子部員と思しきスタッフは「晦日くんの作品はすごかったでしょう?」と発言した。
 『晦日くん』と、はっきり言った。遊びで呼ばれている可能性も否定できないけれど、何かが引っかかる。
 それに喫煙所での感じ。
 男性グループの中に女性を一人放り込んで、あんなにも馴染めるものなのだろうか。
 大学生だと、あんなものなのだろうか。
 それとも、僕の考えすぎなのだろうか。
 僕にははっきりとした判断ができなかった。
 なんだろう、この違和感は。
 ただ単に性差を超えての親愛なら、何も問題ない。
 はず、なんだけど。
 少し調査が必要だろう。
 全く、ここ最近は冗句が少なくて困る。もっとわかりやすい冗句のようであってほしいものだ。
 僕はもう一度呟いた。
「成程ね」



了。