3.塑性破壊

作:宴屋六郎


だから何度言っても君の言葉は届かないよ。
聞く耳など持ち合わせていないのだから。



 学校に行かなければならない。
 朝になったから。
 僕は『それ』から手を離した。
 今朝は日が昇る前などという、随分と早くに目覚めてしまった。だから、昨夜の続きをしようと思い、耽っていたのだ。
 寝間着に付いた屑を念入りに取り払い、ゴミ袋に詰めた。『それ』をひとしきり眺めたあと満足して頷き、いつもの場所にしまい込み、鍵をかけた。
 カッターシャツやスラックス、ジャケット等の制服一式を着込んでいく。
 ――僕は某有名私立中学に進学していた。「特別な待遇」も受けるようになった。
 理由と原因。
 そして結果。
 受験者のどの人物よりも高い点数を取得したこと、それが満点だったこと。ただそれだけのこと、だったのだが。
 点数、点数、点数。
 学校というものはどこもかしこも点数だらけだ。何をしても何をしなくても点数がつけられる。他の連中はわかっていない。些細な行動に点数がつけられていることを。
 大多数の彼らが評価し点数をつけていたのは、僕が何をしても、何をさせても優秀だったからだ。
 と書くと少々自意識過剰になってしまうだろうか。
 しかしながら、何をやっても人並み以上にこなすことができたのは事実であり。自分でも否定するのが難しい。
 人の苦労することを、さらりとやってしまう。やってしまえる。
 面倒なことでもあった。
 曰く、文武両道を体現している。
 曰く、まさしく天才で万能。
 そんなことを何人もの人に言われた。
 呆れるほどに言われた。
 僕は努力なく何事かをうまくやることに長けているらしい。自分には才能がある、だなんて自惚れた思考を回すことはしたくないし、それは言い過ぎであろうとも思ったのだが、周囲はそうは思っていなかったようだ。
 特に、両親は。
 彼らは純粋に喜んでいた。
 優秀な家系の中でもさらに優秀な者が生まれたことを。そして、自分たちが生み出したことを。
 父母は僕のことを大切に育てることに決めたらしかった。
 小学生の頃からずっとぼんやりとしたものはあったが。
 このとき初めて、明確にレールを意識した。
 父と母が敷いた軌条を、目にした。
 もちろん、僕には選択する自由もあった。
 両親は優しかった。
 きっと僕が言い出せば、その鋼の線と枕木をすべて取り払ってくれただろう。
 きっと僕が言い出せば、彼らは一抹の寂しさを覚えつつも、僕を自由にさせてくれただろう。
 きっと僕が言い出せば。
 でも。
 だからこそ。
 僕は言い出すことができなかったのだ。
 選択できないも同然だ。
 選択する権利を与えてくれている両親を裏切ることなど、僕には出来ようはずもなかった。
 出来なかった。
 ……いや、他者のせいにしてはならない。
 やらなかった。
 僕は選択しなかったのだ。
 彼らが望んでいること。
 僕の父が望んでいること。
 僕の母が望んでいること。
 僕の家系が望んでいること。
 僕には、よくわかった。
 手に取るようにわかった。
 わかるほどにわかっていた。
 そして、彼らに僕の本心を悟らせないようにするには、どうすればいいのかも。
 全てわかっていたんだ。
「おはよう」
 登校を終えて、改装したての真新しい教室に入ると、友人たちが次々に声をかけてくる。最初は扉の近くに席が配置されている地味な女の子。名前など覚えていない。その都度思い出すことにしている。僕にはそれが出来る。それから男子の友人一同。女子の数人も声をかけてくる。
 僕はその挨拶に、快活そうに返していく。おまけとして笑顔を添付することも忘れない。
 何人も。
 何人も。
 成績は常にトップを維持。スポーツも基本的には優良。
 良い意味でも悪い意味でも目立つ。
 自覚はあった。
 だからこそ、僕は友人を作った。
 周囲に溶け込み、周囲と親密になっていくことには自信があった。
 自分は能力を持っている人間だからこそ、少し下から歩み寄れば、彼らは喜々として親愛の情を交換しようと歩いてくる。
 あまり褒められるやり方ではないだろうが、そうすることが自分のためでもあり、周囲のためでもあり、自衛のためでもあった。
 悪い意味でも目立つ。
 昔から僕のことを妬み嫉む人は少なからず存在した。当然だ。逆の立場であったなら、僕だってそうしていたかもしれない。
 しかし『もしも』の話は無駄だ。何の役にも立ちやしない。
 彼らの子供ゆえの情動を抑制するために、僕は友人を作ったのだ。
 なまじ周囲や先輩たちとの仲が良いだけに、彼らは僕への攻撃には出られなかった。
 いくら僕でも、全員と友人になれるわけがない。
 そんなことができたのなら、世界で戦争が起きている理由が説明できない。
 人間関係は複雑怪奇だ。互いに絡まり合っている。しかも、自分から。
 そんなもの、捨ててしまえばいいのに。
 しかし、それが役に立っていた。
 人間関係は複雑怪奇、誰かの関係は誰かの関係に繋がる。
 それは友人同士であったり、先輩後輩であったり。
 様々ではあったが、僕への直接攻撃を難しくしていただろう。
 代わりも、いくつかの人間関係に修繕不可能な程の亀裂や破壊や破滅が巻き起こったりしたけれど、それは仕方のないことだ。必要な犠牲である。
 そして、僕には果てしなく関係のないことだった。
 自宅に帰る。
 母は家事に勤しんでいたが、おかえりと帰宅に対して歓迎を示した。僕はただいまと言い、自室に向かった。
 その前に何か部活は決まったのかと質問が飛んできたが、僕は笑顔でもう少し考えさせてください、絞っている最中ですから、と答えたのだった。
 そう、部活。
 何か部活をしないかと。母にも同級生にも先輩方にも言われていた。
 我が校は学年で成績を競い合うような学校であった。競争心やハングリー精神を養うためだとかなんだとか、右から左に流れていくような主旨で、開校当時からの方針だとか。
 僕はそれらの中で安定して首席を維持し続けた。
 仰々しいことに、天才などとも呼ばれたことがあった。将来は学者か政治家か。そんなことを言われもした。
 明らかに期待をかけられていた。
 僕は僕であって、彼らではないのに。家族であれば、まだわからないでもないのだが、何故か彼らは自分たちの誇りであるかのように言うことが多かった。僕はまだ子供だったから、理解できないのだと思うことにした。
 体育などでの身のこなしを見た先輩方や、体育会系部活の顧問を務める教師たちから、何かスポーツをやらないかとも誘われた。
 曰く、筋がいい。
 曰く、個人種目であれば間違いなく活躍できる。
 曰く、団体種目であれば間違いなく戦力の増強に繋がると。
 僕は――絵を描いていたかった。
 見よう見まねの美術は、今も続いていた。もう何年も描き続けてはいるが、僕の理想とする芸術にはまだまだ程遠い。
 不勉強だからではないか、とも思う。
 だから、僕は美術部にでも入って、少しでも絵の勉強をしてみたかった。
 そのことを暗に、遠回しに言ってみたことはあった。
 彼らは一様に理解できない、という顔をした。両親も同じ様であった。
 我が校は美術のような文系の部活動が何になる、むしろ無駄に金を毟り取っていくだけで、何の成果にも繋がっていない、という考えが主流だったからだ。
 僕はそれを聞いて、落胆はしなかった。予想できていたことだったし、だからといって僕が描くことをやめることになったわけでもない。
 まあ、そんなものだろうと納得した。
 僕にはわかっていた。
 わかっていたので、そちらは我が家でひっそりと続けていくことに決めたのだった。
 決意したことは立派ではあるが、部活動についての対策も必要だ。
 先輩方や教師たち、そして父母の急かすような期待しているような声をずっと聞いているのは少しは滅入るところもあるので、どこか適当な部活に入っておくのが良かろう。
 活躍したいとは思わない。個人戦の活動であれば、嫌でも目立ってしまうのは火を見るより明らかだった。
 団体競技がいい。チームメイトに紛れ、適度に役に立ち、適度に役に立たない。
 チームそのものが活躍してはならない。適当な大会で敗退するのがいい。市大会か、県大会か。そうしなければ、僕の絵を描く時間がなくなってしまう。僕以外の誰かにヘマをさせればいい。それだけの話。
 それらを実現できる力が、僕にはあった。
 かくして僕は望まないまま望んでサッカー部というありふれるにありふれた、一言で言うならつまらない部活動に入部したのだった。
 高校では文化系の部活にも力を入れている学校を選ぶとしよう。本意でなかったとはいえ、中学は親に選ばせすぎた。だがそれなりにレベルが高くなければ両親は喜ばないであろうことは想像に難くないので、事前に念入りな調査が必要か。
 それまではじっと独学でやるべきか。基礎くらいはきちんと学びたいが、それも高校に期待。
 毎日のくだらない活動に予定と余力を使わせられて、夜に帰宅して。一応の予復習とすべきことを済ませて、就寝前の一時間。
 過去に己が壊したもので手元に残しているものたちを引っ張りだしてきて、デッサンやスケッチを繰り返す。
 時々は新しく壊したくなる。この頃はただでさえ少ない時間を、あのくだらない部活に削られていた。ストレスの存在を確かに、しっかりと感じていた。
 だから。
 妹が成長するにつれて捨てられていった美少女の人形。
 ヒトガタのそれを、回収して。
 美少女を象ったそれを。
 手で。
 砕く。
 道具は使わなくなった。
 より実感を得られる方へ。
 手足をちぎり、首をもぎ、腹を裂く。
 シンプルになったそれらを並べる。
 すううううううううううっ、と。
 自分の中身が浄化されていくのがわかった。
 負の感情が消え失せていく。
 ――最早、自分の文房具類を破壊することは快楽ではなくなっていた。
 もともと自分の所有物を壊すということは快楽を得づらい行動ではあったが、それを出し惜しみに出し惜しんで、小出しにしたとはいえ、六年も続けていれば体と脳が慣れてしまうものだった。
 それに、自分の欲望の正体と詳細についても、気が付き始めていた。
 今の行動がそうだ。
 モノを壊すことが好きだ。
 好きなことは好きだ。
 だがもっと好きなのは、人形――ヒトガタを壊すことなのだ。それも、他人のモノ。
 思えば幼少時に友人たちの持っていたロボットや人形やぬいぐるみを壊したがったのは、そのためだった。
 だから僕は、妹のモノであったヒトガタを壊して。
 それを絵にしようとして。
 こんなにも悦んでいる。
 脳内麻薬をだばだばと垂れ流している。
 あーあー。
 ああ。
 ずっとこうしていたい。


失望奇譚集―壊虐奇談3
*******




「ずっとこうしていたい。睡眠というのはいかに素晴らしいものかわかるね。特に仕事をやりきったあとでは、眠りは格別だ。まるで麻薬みたい。僕は二度寝三度寝四度寝くらいまで快楽を感じることができる。後悔もせず。たとえそれがまた学校への出席が叶わず、どんどん欠席日数がチェックされていっているものだとしてもね。ちなみに今回は三度寝だったよ。いやあ、本当にすがすがしいくらいの朝だよ。お外が真っ暗だけど、朝といったら朝。僕がそう決めた」全部冗句ですけど。
 心からそう思うね。
 冗句ではあっても、嘘ではないから困っている。
 上半身を起こした。被っていた毛布がめくれていた。
 周囲は少し暗い。寝台の傍に、小さな光が灯っていた。
 薄暗闇。
 曖昧な輪郭の影が揺れる。僕のものではない。
 誰かだ。
 影が声を発した。
「……寝起きからそんなに元気なら全く何も問題ありませんね……」
 仮眠室として使われている部屋に、みゃこさんが立っていた。
 出たな妖怪黒マフラー。
 寝台に向けられた椅子に座っている。いつものように、床と見つめ合っていた。
 なんだか起きる寸前にべちんべちんと頬をぶっ叩かれたような記憶と、頬にひりひりとする痛みがあるのだけれど。まさかみゃこさんのようなお淑やかで静かな女性がそんな残酷なするとは思えない。きっと夢の内容を引っ張っているのだ。
 ……冗句か? 自分でも判別がつかない。
 もはや病気だ。
「……つかぬことをお聞きしたいと思います……たいへん汗を掻いているように見えるのですが……どうかなさいましたか……」
「あれ? ……いえね、ちょっと変な夢を見ていただけです。すみませんね、ご心配をおかけしました」
 言われて初めて気づいた。
 手の甲で額を拭うと、塩分を含んだ水が存分に付着した。寝間着として使っているシャツも、水分を吸って体に張り付いているようだ。
 気持ち悪い。着替えたい。
 けれど、夢か。
 夢。
 昔の夢。
 思い出したくもない記憶。
 思い出。
 忘れてはならないことはいとも容易く忘れるくせに。
 忘れたいことはずっと覚えている。
 だから、冷や汗でも脂汗でも掻いてしまうのだけれど。
 そんなくだらない内面の問題でみゃこさんに心配をかけてしまったのなら、申し訳ない。
「……心配なんてしていませんが……?」
「そんな気がしていました」
 心優しくお淑やかではあるけれど、過激な部分も持ち合わせているみゃこさんなのであった。
 うーん、美人は棘を持っているというのは本当のことかもしれないな。どちらかというと天然な気がしないでもないけど。
「それで、結局『友達』と全力で遊んでしまった上に仕事をしてしまったせいで学校に行けず、支部に帰ってきてもみゃこさんが不在だったので不貞寝をしてしまった隠居庵に何か用ですか?」
「……嫌に説明口調ですね……しかもわかっているくせに……」
「えへへ」
「……気持ち悪いとは言いませんが壊滅的に不愉快な気分になるのでやめてください……」
 それ、ひどくね。
 マフラーの中から毒が溢れてきている。
「……調査報告、お聞かせください……」
「なう?」
「……なう、です……」
 みゃこさんは椅子に腰掛けたまま言う。筆記用具やPCの類は見当たらないけれど、必要ないのだろうか。
 まあ彼女は僕と違って記憶力に自信があるようだから、問題ないのだろう。
 僕は頭を掻き、記憶を掘り起こすことにした。昼間の記憶。数時間ほど遡っていく。
 一度眠っていたから記憶がこんがらがっている節もある。整理の意味も兼ねて、やってみることにしよう。
 えーっと回想回想。開始。
 しかし。
 僕の言葉を繰り返すみゃこさんは、ちょっと可愛いな、と思った。
 ……冗句かな?




 朝の早い時間。まだ陽は完全に登りきっておらず、どこか薄暗い。
 病院の外に出たところで、電源を切っていた携帯電話の存在をすっかり忘れていたことに気づいた。
 現の家の中では切らざるを得ない。そうでなくても病院の中では切っておくべきなのだろうか。
 まあいい。休止ボタンを長押しして、電源を復帰させた。
 スマートフォンに切り替えてからどうにもこの作業というか、この動作に慣れない。そもそもタッチとスワイプで操作というのが、未来的に思える。まるでSF映画の世界だ。
 僕が化石人種なだけだろうか。タッチパネルというのもどこか現実感がない。ボタンのように感触がないからか。
 ややあって携帯が完全に起動を終えた。矢継ぎ早にメールが受信される、なんてことはない。僕には頻繁に連絡を取り合うような友達がいないから。冗句、じゃないのが残念無念。
 携帯を上着のポケットに仕舞おうとすると、手の中で震えだした。どうした、そんなに怖いのかね、僕の上着が。
 なんて冗句を言っている場合ではない。画面を見ると、電話の着信であることがわかる。
 見知った名前が表示されている。
 僕は通話ボタンに触った。
「電源を入れたと同時に電話をかけてくるだなんて、みゃこさんはエスパーなのでしょうか、と僕は疑問を露出させます」
「……むしろ貴方に幸運がついてきているのでは……もしや庵さんはラクシュミーの生まれ変わりだったりするのでは……私にも少しはその運気を分けていただきたいですね……」
 電話越しでも、マフラーを介しているのでやはり声はごそごそとしていて聞き取りづらい。風が吹いていることもある。
 僕は巨塔の影に避難した。これで少しは邪魔されずに済むだろう。
 人工島には高い建物が病院以外には少なく――というか病院の他には住宅くらいしかない――、邪魔をするものがいないだけに、ほとんど常に風が強いのだ。
「僕は美しくないですし、四本腕になったり、自分の元に留めたいからって四つに分けられたりするのは嫌ですよ……」
「……冗句です……」
 最近盗まれすぎている。そろそろ僕も本気を出さねばならないのかもしれない。
 本気の冗句を見せてやろう。
 ――そしてこういうときに限って何にも思い浮かばないので、僕はただ、頭の回転の遅さに落胆するしかなかった。
「それで、みゃこさんが電話をかけてきたということは」
「……仕事です……」
 ですよね、と僕は短く口にした。
「……庵さんが持ち帰ってきてくれた肉片や血液などですが……身元がわかるまでには少し時間がかかるようです……鬱子も忙しそうにしていましたし……本部の方でも何やら大きな案件を抱えているのでしょう……難儀なことですね……我々も似たようなものですけれど……」
「本部は常に忙しそうじゃないですか。でもまあ、幽霧さんも帰ってきていないとなると、ちょっと面倒ですね――手掛かりが、明らかに、少なくなる」
「……と言われると思っていたので、手は打っておきました……」
「さすがみゃこさん。早速情報を手に入れてきたわけですね?」
「……ご期待には添えませんね……私の持っている情報量は、貴方と同程度ですよ……だから、これから庵さんに手に入れに行ってもらうのです……」
 びゅう、と強い風に吹き付けられる。どうやら風向きが変わったらしい。
 なんだか嫌な予感がする。
「……身元の情報などは私達よりも、警察の方々がよくお持ちでしょう……肉片の人物だけでなく、被害者はいずれも行方不明者ですしね……捜索願なんかも出ているでしょうし……それらの情報があれば、少しは調査が進むのではないか……庵さん、そうは思いませんか……?」
「思いませんと口にすることは非常に簡単ですけど、この場でそれを言ってしまうと無能認定されてしまうので、口が裂けても言えませんね。端的に同意を示しておきましょう」
「……ふふふ……本筋から目を背けても無駄ですよ……さあ、私が良いおつきあいをさせていただいている方を、紹介しましょう……どの方か、ご存じでしたよね、庵さん……?」
 予想通りだ。
 予想ができていたからって何でも回避できるわけではないけれど。
 それでも一応退けられるか試みる価値はなくもなくもなくもない。あるのかないのかはっきりしないのはつまり、そういうことだ。
「これまで懇意になさっているのなら、みゃこさんが聞き出した方がいいんじゃないですかね。僕も一応の面識はあるつもりですけど、流石に警察屋さんとと直接対話するのはちょっと荷が重いというか何というか。僕が引き出すのは得策でないように思えます。とにかく、略して僕には役不足な気がしますよ」
「……役不足、ということはつまり、庵さんにとってこの仕事は簡単すぎるということでしょうか……」
「あ」
 じゃねえ。
 普通に誤用してしまった。
 力不足とか役者不足って言えばいいのに。僕の馬鹿馬鹿馬鹿。
「……では、行っていただけるということで……なあに、心配いりませんよ……相手はあの佐藤氏です……言葉遣いに長けた庵さんであれば問題なし……まさしく役不足ですよ……」
「みゃこさんって時々意地悪ですよね」
 主に僕に対して。
「……意地悪は好意の裏返しと言うではありませんか……」
「えっ、みゃこさん、僕のこと好きだったんですか?」
「……いえ別に……」
 声に感情が乗せられていなかった。
 じゃあなんでその言葉を引用したんだ。
「はああ。佐藤さん相手でも一応は刑事屋さんなんですよ……色々口に気を付けなきゃいけないじゃないですか。苦手なんですよね……人に気を使ったりとか、気を揉んだりとか、言葉を垂れ流しにしないようにするのって。そうでなくても警察関係者ってだけでちょっと背筋にくるものがあるというのに」
「……佐藤氏ですからそんな心配はいらないと思いますが……では暗示をお教えしましょう……それで引き出すも良し、記憶を消すも良し……便利ですよ……?」
「彼にも仕込んでたんですか」
 僕は素直に驚いた。
 みゃこさんは第二支部をまとめる支部長でもあるけれど、優秀な《催眠術師》でもある――。
 それは彼女の異常というわけではなく、一種の『応用技』なのだけれど。それによって暗示をかけられた相手は、条件によってこちらの言うことを聞く人形と化すのだそうだ。実際に人形にされた人形を見たことがあったけれど、あれは、いやはや。まさしく人形であった。
 まさか刑事である佐藤さんにまで施術していたとは。
 しかしそれは、少し考えれば当然のことでもある。
 警察屋さんの末端情報に触れられる『端末』があるのなら、それを傀儡にしておくのは非常に有効な一手だと思う。
 ――それが人道的に見てどうであるかは、さておくとして。
 ま、今更か。
 《サナトリウム》だから。
「……一度しか言わないのでよぉく聞いてくださいね……」
「はい」
 そう言われると少し自信がなくなる。忘れるなと言われたことほどすっぽりと記憶が抜けてしまうことがある。僕の悪い癖だ。
 しかし、その必要はなかった。
 その言葉は。
「……みゃっこみゃっこりーん……」
「――――なんですって?」
「……一度しか言わないと言ったはずです……もう言いませんよ……訊かれたって言いません……大切に使ってくださいね……」
 もしかするともしかしてみゃこさん流の悪ふざけというか、そういったキャラ作りなのかとも思ったが、あまりにも衝撃的な言葉なのだった。
 いやはや。これは流石の僕でも忘れられそうにないな。
 と言いつつも忘れてしまったらどうしようと不安になる。
 メモするのもまずいだろうし、己の記憶力に期待するしかない。不安しか残らないじゃないか。
「それで、佐藤さんとはいつ、どこで約束を取り付けているのですか? 時間によっては学校を休むことも考えなければいけないし――」と言い終わらないうちに頭に浮かぶものがあった。「まさか、今日とか言いませんよね?」
「……さすが庵さんです……たいへん頭の回転が早い……」
 褒め言葉が棘のように飛来してくることミサイルの如し。
 というか、理不尽な。
 僕は現の家にまで制服を持ってきて、着替えてそのまま登校しようとしているというのに。
 バスまでの時間はまだ少し猶予がある。もう少し粘ってみようか。
「また学校休ませる気ですか。これで何回休んだと思うんですか。今日も休んじゃったらさん連休ですよ、三連休。ハッピーマンデーじゃないんだから。学校というものは好き好き大好き愛してるってほどじゃあありませんけど、あんまり休んじゃうのもどうかと思うんですよね、僕」
「……はて、庵さん、昨日は学校に行かれなかったのですか……?」
 ぎく。
 電話越しに棘が飛来する。
 何が嫌かって、知っているくせにわざわざ訊いてくるところだ。
 あー。
 しかしだな、昨日休むことになったのは、遅刻確定の時刻まで眠ってしまった原因は、仕事にもあるわけでだな。
 その上現に呼ばれたら仕方ないというか。
「……ご自分の選択には責任をもたれた方がよろしいと思いますよ……結局帰ってくるのは自分の胸の中ですからね……脳でもいいですけど……グロテスク……」
 電話からぼそぼそとみゃこさんの声が漏れる。
 そう言われると返す言葉もない。
 あーもー。
 全部冗句だったらいいのに。
 そう都合のいいことは、僕の人生に起きはしないのだった。呪われてるから仕方ないか。
「わかりましたよ。向かえばいいんでしょう、向かえば。それで、何時に、どこですか。今から向かいましょう。場所を教えてください」
 やっと話が戻ってきたような気がする。紆余曲折あって仲直り。じゃあないんだよな。僕が一方的に妥協している。
 当然とも言う。
 妥協だらけの人生だよ。くそったれ。
 ――みゃこさんは市内中央区に位置しているファミレスだと教えてくれた。そこに十三時までに到着していれば良いのだという。
 自分の時計を見ると七時を回ったところだった。ざっと見ても五時間は時間がある。中央まで行くのに、ここからバスで一時間もかからない。
 だからといって学校に行くわけにもいかないのが非常に残念な点だ。一度でもこの国の学校教育に投身自殺したことのある人であればお分かりいただけるだろうけど、朝から夕刻までってのが基本だ。
 いったん登校して昼頃抜け出すというのも一つの手ではあるけれど、それはそれで中途半端というか。大きく遅刻したりサボタージュしてしまうくらいなら、最初から休んでしまった方がいいと考えるのが僕なのだ。自分のことながら損をする考え方だと思うが、もはや止められない。
 うーむ。
 まあ三連休に突入するのはいいとしても、どうやって時間を潰そうか。
 そういえば和菓子を買ってくることを観夕と約束していたような記憶がある。ぼんやりと。あれは東区の方にあるから、一旦そっちに行って、お菓子を買って支部に戻るのもありか。観夕が起きていれば和菓子で色々頼めるかもしれない。
 自宅に帰ってないなぁ、とは思うけど。
 しかし、あれは自宅なのだろうか。
 ……誰も待っていないことだし、自宅でなくとも全く問題ない。
 よし。
 行動指針は決まった。
 一旦現の家に帰ってもいい気がしたが、そうすると彼女をぬか喜びさせてしまうだろうし、『一時滞在』で済む気がしない。これでいいのだ。
 と思いつつも、僕は背後の巨塔を振り返った。
 今日は天気が悪いらしく、四十階は雲のような霧の中だった。まるで雲の上にあるようにも見える。
 雲の上。
 天国か。
 成程、確かに。
 僕は歩きだした。






 おかしい。
 何かがおかしい。
 サイゼリヤの禁煙席、角のソファに座った僕の脳裏に誰かが囁く。
 これはおかしいぞ。
 いや別に今現在も咀嚼を続けているミラノ風ドリアが冷えて不味くなっていることは関係なくて。腹に溜まれば問題ないのだ。それで安いのなら尚更良いことだ。
 食費を節約せねばならないほど困窮しているわけではないけれど、無駄遣いはしないに限る。ここに来る前に和菓子を購入し冷蔵庫に入れてきたのは無駄遣いなのかどうかちょっと考えるところがあるけれど。
 そうじゃなくて。
「十三時五十分だ」
 約束の時間を大いに超過している。
 この腕時計の長針と短針がストライキを実施しているというのならまだしも、店内に設けられた壁掛け時計もほぼ同じ時間を示している。
 壁掛け時計の長針たちも過労社会に対して警鐘を鳴らす存在として覚醒してしまっている可能性もなくもないけれど、それはもう、なんというか。ないだろう。冗句じゃなくて、普通に。
 冷えて不味くなったドリアを食べ終える。米って冷えると何であんなに美味しさの反対方面に全力疾走しちゃうんだろうね。
 制服のまま昼食をファミレスで済ませているので、嫌でも店員の視線が刺さる。平日に学生がいれば僕だって奇異の視線を向けるだろう。ドリンクバーでも頼もうかなぁと思うけど、あれこそ無駄遣いの代表みたいなもので。
 だいたい僕は炭酸が飲めんのだ。だからドリンクバーの半分は飲めない。その時点でかなり損をしている。時々損得勘定がおかしいとみゃこさんなんかに言われたりするけれど、放っておいてくれ。
 しかし品物もなしに居座るのもなんだか居心地が悪い。砂利の上にそのまま座っているかのような気持ち悪さがある。
 佐藤さんがいたら、まだ間が持ったかもしれないというのに。
 というか、そうだ、佐藤さんだ。
 待ち合わせなら店員の視線も気にする必要もない、のだろう。たぶん。
 昼時というにはちょっと人が足りない感じがする。席もそこそこ空いているので問題なかろう。
「我ながらくだらない思い悩みだった」
 くだらないことに溢れた人生だから仕方ない。いつもそんなくだらないことばかり頭に詰め込んでるってのも、原因のひとつか。
 くだらないこと。冗句とか。
 まあ、これも冗句ということにしておけ。
 ひとまず自己解決。
 解決していないのは、待ち人の存在ではあるけれど――
 制服の上着が震えた。
「…………」
 正確には、内側のポケットの中に仕舞っている携帯が。
 みゃこさんか佐藤さんか、と一瞬二人の名前が脳裏をよぎる。
 理由を思考するまでもなく液晶画面には「佐藤さん」という発信者名が表示されていた。
「もしもし」
 あれ、電話番号とか交換してたっけ、と己の記憶力に対してゆるやかな詰問をかけつつ通話ボタンに触れた。
 若い男の声が響いてくる。
「あっ! 隠居さんですか!」
「…………」
 こういうときに違いますって言ったらどうなるんだろう。
 僕は好奇心に駆られた。
 好奇心は猫を殺す、という諺も同時に頭に浮かんだけれど、僕の口は勝手に開いていた。
 まったく、相変わらずコントロールの効かない奴だ。
「あの、もしもーし?」
「コチラ火星。ワレワレハ宇宙人ダ」
 喉をとんとんと叩きつつ発声すると、声が震えた。ありきたりな宇宙人の物真似。
「えっ? もしかして番号間違えてた……?」
「何ヲ言ッテイル。佐藤一郎。我々ニハ全テオ見通シダゾ」
「え? え?」
 混乱の色が耳に流れてきた。
 ちょっと愉快。
 だけども早くも左手が疲れかけている。でも一度始めたことなので、やり通さねばならない。架空の父親も敵の矢に倒れるまで、僕にずっとそう教えてくれていた。まあ冗句なんだけどね。
 ここらで畳み掛けて終わりにするか。
「佐藤一郎。隠居庵ハ我々ノ大切ナ友ダ。彼ノ機嫌ヲ損ネルノハオ勧メシナイ。君タチノ惑星ヲショウメツサセルコトナド、我々ノ文明をモッテスレバ、赤子ノ手ヲ捻ルヨウナモノ。外交問題ニ発展サセタクナケレバ、今スグニサイゼリヤヘ向カイタマエ。急イデ。サア早ク。全力疾走用意、始メ!」
「はっ、はい!」
 つーつーつー。
 あれ。
 何であの人素直に返事して電話切ってんだ。
 まあいいや。急いでくれるなら。
 そんなことより喉が痛くなった。ちょっと水をもらおうじゃないか。
 席を離れて給水コーナーへ。半分ほどの大きさと量になっていた氷を補充し、グラスに水を注いだ。
 テーブルへ戻り、腰掛けてから硝子杯に口をつけ、含み、嚥下する。
 今日も水がうまい!
 お世辞のような冗句だけどね。水なんてどこも全く変わらないと思っている。日本なら水道水美味しいし。
 愚にもつかぬ冗句を考えているところに、からんからんとドアベルの音色が店内に小さく響いた。目をやると若い男が立っている。深い藍色の背広に白のワイシャツ、赤紫のネクタイ。日本人らしい長くも短くもない黒髪が左右に移動。
 来店に応対する店員を余所に、きょろきょろ辺りを見回している。僕は身を屈めて彼の視線から隠れたけれど、遅かったようだ。
「隠居さん!」
 男性にしては高い声。まるで少年みたいな。
 童顔だと声まで高くなるんだろうか。
 背広の男性はずんずんと歩いてきた。そして僕の正面に腰を滑り込ませるようにして掛ける。
「どうも。佐藤さん」
「どうもじゃないですよ! ひどいじゃないですか!」
「刑事のくせに騙される方がいけないんですよ。僕だってまさか本当に信じて電話まで切っちゃうとは思いませんでした。どこで我に返りましたか?」
 佐藤さんは額の汗を取り出したハンカチで拭いながら、嫌そうな顔をした。
 心から。
 うーん。
「走ってる最中に気づきました……そういえば隠居さんはこういうことをする人だって……」
「随分と遅いことで」
 二重の意味でな。
「庵さんに友達なんかいないですもんね……」
「なにげに失礼ですね!」
 佐藤一郎。
 その単純すぎる名前(全国の佐藤一郎さんには深く謝罪申し上げる。今後はこのようなことがないようにしっかりと指導を行っていきたい)に反して、職業は刑事。見た目でわかるけれど、まだまだ若手である。
 僕ごときに騙されているようでは出世も見込めないかもしれない。才能が、ちょっと、ほら。冗句に包もうと思ってもなかなか思うようにいかない。それが人生である。ほっほっほ。
「はー。すいません、ちょっと仕事が終わらなかったもので、遅れてしまいました」
 まずもって最初に謝罪か弁明をしろと思わないでもなかったけれど、まあ結果的にオーケーか。
 佐藤さんは店員召喚の儀を行った。単純にボタンを押しただけである。
「お疲れ様でした。お忙しそうですね」
「そーうなんですよーお! まったく、最近の忙しさときたら仕事で殺されてしまうような気さえしてきます。あっ、すいません、日替わりランチひとつ。はい、以上です」
 お昼は食べていなかったらしい。仕事がどうのと言っていたので当然と言えば当然か。
 一度席を離れて、ドリンクバーに向かう。戻ってきたときには、硝子杯にジュースが注がれていた。
 色から察するに、爽やか白ぶどう。セレクトが大人っぽくない。
 勝手にイメージを押しつけながら、僕は言葉を垂れ流すことにした。ただし、流すものは厳選する。
「みゃこさんから言われて来たんですけど、佐藤さんには連絡がいっていたんですね」
「ええ、まあ、はい。先にメールが来まして。そういえば隠居さんとはだいぶお久しぶりですよね。何ヶ月ぶりかな……あの時以来ですよね」
「懐かしいですね。もう随分前な気がしてしまいます。どのことを言ってるのかわかってませんけど。……そんな嫌な表情しないでくださいよ。冗句ですから。で、今日はどんなお話をするつもりでいらっしゃったんですか。実は僕は何も聞かされていないのです。聞きそびれたってのもあったんですけどね」
 会って情報を収集しろとは言われたけれど、具体的にどうしろという命令は受けていない。そんな命令するだけ無駄であることを互いに理解しているがゆえ。
 だから僕は手っ取り早い手段を採用することにした。
 相手から情報を引き出したければ黙ること。自分の手札を隠すこと。
 佐藤さん相手であれば、有効だろう。きっと僕を疑うこともしていないはず。
 ……甘く見積もりすぎかな?
「交換ですよ、交換。情報の交換だとか何とか。美彌湖さん、でしたっけ、彼女とはこれまで何度か情報を提供していただいたり、提供したりしてるんです。本当はちょっとよろしくないことなんですけど……まあ、助かってます。良くないことに」
 本当はちょっとよろしくないこと。
 佐藤さんは現代では絶滅危惧種の心からの正義漢だ。本来なら、情報の交換がよろしくないことだと自覚している。
 しかし、必要なことは必要なことだと理解している若者でもある。だから、適当な刑事を脅迫するより楽に扱える。
 そんな話を、みゃこさんから聞いていた。
 人間じゃないね。やることが。
 今更か。
「そうですか。じゃあ、今日は僕が代役を努めて務めることにしましょう。佐藤さんが情報を欲しがるような事件と言えば、最近の連続行方不明事件でしょうかね。話題的に。警察の人たちからはなんて呼ばれてるか、知りませんけど」
「ああ、それそれ。それなんですよねー、ほんとに。マジで困ってます……死体はないのに致死量としか思えない量の血液が残されていたり、DNA検査では行方不明者の大半と一致したり……被害者ははっきりとしているのに、被害者であるかどうかも判然としなくって、どうしようもなかったり。そりゃそうですよね。どこを探しても肉の欠片さえ存在しないんです。血液だけが残されてる。肝心の遺体は、どこに隠されているのやら」
 ふうん。
 やっぱり警察としても困惑してるわけか。
 しかし、佐藤さんは続ける。
「あっ、でもつい先日の事件では被害者のものと思しき痕跡があったんですよねー。全部かき集めても全然人間の体には足りなかったんですけど。ばらばらにされている可能性があるということはわかったのですが、それだけっすね」
 痕跡。
 それはつまり僕らの回収した肉片たちの残り物。僕がお持ち帰りドライブスルーした量も決して多くはない。だから足りなくても僕らのせいではない。
「ほほう、その大変可哀想な方は、どこのどなたですかな」
「……その手には乗りませんよ」
 佐藤さんは柔和だった表情を強張らせた。
 おっとっと。流石にブロックは固めてある。
 ここまでぺらぺら喋ったのも、先に手札を見せて後はお前次第だと。
 そう言いたいようだったし。
 だけれど、飛び出た言葉は「その手には乗らない」。
 ということは。
 持っているんだな。どこの誰だかわかっている。警察はわかっている。
 身許がわかっている。判明している。
 ふうん。
 でも僕もその情報を知らないという手札を見せてしまっている。これがフェイクかもしれないという、『隠居庵のはったりかもしれないと疑っている可能性』も排除しきれないけれど、佐藤さんはそこまで裏の裏まで読んでいくような人じゃない。多分。
 逆に佐藤さんの『その手には乗らない』と虚偽(かもしれないはったりの情報)を言うことであたかもこちらは有利な情報を持っていますよとアピールする狙いもあるかもしれない。しかしやはり、佐藤さんはそこまで考える人ではないように思う。というか、そういうアピールをするメリットがほとんどない。たぶん。
 多分ね。
 いまいち自信がないのは、隠居庵という者がそもそもこういう交渉事に長けた人間ではないからだ。言葉を垂れ流すことにかけては僕の右に出る者は《サナトリウム》の中でもなかなかいない、とは思うけれど、たくさん喋るからと言っても言葉の駆け引きに明るいというわけではない。
 というか頭を使うのが厳しい。
 肉体労働もできないのに頭脳労働もできないのでは脳なし扱いされてしまうので、頑張らざるを得ないけれど。
 とりあえず手札を出してみるか。あちらもオープンしているわけだから。
「ここから先の視聴は有料ですって感じですかね」
 僕は硝子の中の水を口に含んだ。
 無味の液体を舌で転がし、嚥下する。
 僕らしく、回りくどくいこう。
「佐藤さん、今回の事件なーんだか引っかかる気がしませんか? いや、してるはずですよ。引っかかる以前に、確信すらしているはずです。だって、僕らと会っているんですから」
「…………」
 時も金だけれど、沈黙も金だ。
 沈黙は金、雄弁は銀。
 ただしこの隠居庵は生きる詐欺師。
 錬金術でもなんでもない。
 雄弁を金にする。
「僕らが接触してきたこと。僕らが動いていること。僕らが情報を求めていること。これらを総合すると出てくる答えがあるはずなのですけれど、佐藤さんにはわかりますか? 『僕ら』に選ばれるほど『賢い』佐藤さんのことです、きっとおわかりのはずですよ。ね?」
「……まだ疑念の段階という可能性も」
「ないですねえ。僕だって『僕ら』の代表ではないしむしろ末端ですけれど、まあ代表として代役として接触している僕が断言しましょう。ないです。――これは嘘じゃない。くだらない嘘は言わない主義です」冗句だけどね。
「情報を手に入れたいと、ここに来た時点で佐藤さんにだってわかっているはずですよ。いいや、それどころか佐藤さんなら現場の状況や遅々とした捜査、それらを見てわかったはずです。あなたは経験している。経験から空気がわかるはずだ。今回の犯人が『何』なのか」
「…………」
 再びの沈黙。表情は暗い。眉間に皺が寄りつつある。まだお若いのにそんなところに皺を作ってはいけませんよ、と心の中で親切にアドバイスしておいた。意味なし。
 僕は手札を見せたようで見せていない。
 わーい、どんどん余計なことばっかり喋って分量で騙せー。佐藤さんが沈黙すれば沈黙するほど僕が一方的に喋り、言葉を引き出しやすくなるぞー。
 そういう作戦。
 みゃこさんあたりには通じないんだけどね。
 というか、佐藤さんくらいしか通じない。僕の周囲は『人』の枠に収めるには難しい人が多すぎる。
「言葉にしたくないのなら僕から言いましょうか? 公務員というのは大変なお仕事だ。人のために働くのに人から疎まれがちだ。あまり大きな声で言えないこともたくさんありましょう。だから僕が代わりに口にして差し上げましょうか」
 これまでの言葉全てが矛盾していることを僕はわかっている。
 矛盾しまくりだ。言葉の使い方もややおかしい。
 でもそれでいい。ただ紡ぎ続ければいい。
 僕の得意技は言葉を垂れ流すこと。
 だったらそうすればいい。
 ――素直に情報を交換してしまえばいいのに。
 僕もそう思うよ。心からね。冗句なしに。
 けど、そうもいかないらしいのだよね。
 情報を与えることは問題ない。佐藤さんという一介の刑事には何もできないから、情報を与えるだけならば、全く何も問題ない。
 しかし、相手が一介の刑事に過ぎないからこそ。
 おいそれと情報を与えてやるのは、癪だ。
 僕はそんなことは考えたりしないけれど、上司であるみゃこさんや、更にその上に位置する吉原遊女は、そう考えるだろう。
 だから僕だってそんなに簡単には喋ることができないのだ。
 めんどくさい。
 組織に属するってことは面倒臭いことだ。
 本当に。
 心から。
 そう思うね。
 だからこうやって回りくどく相手の不安を煽ってるわけだ。
「今回の事件の犯人が、大体どんな性質の相手かわかっているんですよ、僕ら。僕自身がわかっていることではないんですけど、みゃこさん――美彌湖さんの言葉を聞いていると、どうもわかっているようなんですよ。僕は数年彼女と一緒にお仕事をしていますから、雰囲気や空気でわかります。手に取るようにとはいきませんけれど、わかるんですよ。で、大体どんな性質のあれかわかるって話でしたっけ。この意味がおわかり?」
「それは」
 しばし考える佐藤さん。
 歓迎すべきことだ。
 時間は平等に思考時間を与えてくれる。不平等ほど平等に。
 そういえば嘘を言ってしまったな、と思いながら。
 ま、些細なことだ。そんなことを気にするようでは大きな男にはなれんのだ。
 本当かな?
 杯の中の氷が溶け、からんとバランスを崩した。
「やっぱりあなたたちには敵わないなぁ」
 佐藤さんが後頭部を掻きながら答えた。
 顔には苦いものが広がっている。一応のところ笑みに類されるものではある。
 これが苦笑いか、と感心できるほどにわかりやすい苦笑いだった。
「結局、僕らには解決できないことなんですよねー……前も、その前もそうだったし。抵抗を試みても結局思い通りにされちゃう感じがね……隠居さんも美彌湖さんも決して嫌いじゃないんですけど、得体が知れないっていうか……」
 よくわかってるじゃん。
 全部正解だ。
 佐藤さんはよくわかってる。《異常者》であったり《サナトリウム》であったり、それら知るべきでないとされていることを、彼は知らない。
 けれど、そういった得体の知れない諸物を解決するのもまた得体の知れない諸物なのだと、わかっている。
 彼は正義感の強い人間で、その正義感だけで刑事になった男で、その正義感でハードワークにも耐える人だけれど、必要な道具は不法であっても利用するような人だ。
 ただどうしようもなく頼りないから、どうにもその心得と実際の行動が伴っていない感じがするけれど。
 まあ僕らは得体の知れない存在でいい。都合がいい。
 必要悪。
 うーん、確かに自分たちは悪者に近いけれど、自分を悪者として断定するのは抵抗感があるなあ、なーんて。
「はー……。先日の被害者、と思しき方の身許だけですよ? それ以外はぜーったいに、教えませんからね? 隠居さんであっても。いや、隠居さんだからこそ」
 ええ、それでいいですとも。何だか失礼っぽいことを言われていることには目と耳を瞑るとして。
 それ以前の人たちはこっちでも全部把握してますからね。とは言わない、言わない。
 把握している。書類上のことは、全て。
 警察の上部には確固たるコネクションが存在する、らしい。具体的にどうなってるかはわからないけど。
 だから必要なのは、むしろ末端。現場の書類に上がってこないような情報が必要。
 佐藤さんはそんな丁度いい末端端末。
 最新の情報も欲しいけれど、それ以上に見聞きしたこと感じたこと。その辺を引き出さなければならない。
 佐藤さんは周囲に自分たちの話を盗み聞きしている人間がいないか確かめてから、少し僕に顔を寄せた。
 そういえばまだ佐藤さんの料理が来ていないな。えらく時間がかかってる。何かあったんだろうか。
「被害者の女性はアマタワヨイ。大学生で、商学部に通っていたとか。年齢は二十歳。三回生、いやこっちでは三年生って言うんでしたっけ――三年生に進級したばかりだったようです。漢字ではこう書きます」
 佐藤さんはテーブルの隅からナプキンを一枚取り出して、ボールペンで名前を書いてくれた。
 『天田和良』。
 一見して男性のような名前にも見えるけれど、女性。
 へえ。
 あの肉片は女性のものだったのか。
 全て均等にシンプルな形になってしまっていたので、男性とも女性ともわからなかったんだ。しかし、そう言われれば確かに、皮の感じは男性的ではなかったな。皮膚の細かさというか、なんというか。血に塗れていたのだから、気のせいかもね。
 冗句はさておき。
 佐藤さんはそのナプキンを背広の中に仕舞った。そのままにしておくわけにもいかないし。安易に捨てられるものでもない。
「大学と言うと、どこでしょう。不夜市って結構色んな学校ありますからね。学園都市とまでは言いませんけど、学術都市というか学生都市というかなんというか」
「不夜大学ですよ」
「ふやっ」
 反芻して復唱しようとしたところで、驚いてジャパニメーションの萌えキャラみたいな声が出た。恥ずかしい。水を飲んで誤魔化そう。
 いやしかし。
 不夜大学とは。
 帝国大学の系列じゃねーか。公に帝国大学令に基づいて設立されたものではないけれど、縁命グループ――当時は縁命財閥か――が不夜市を創り上げるに際して無理やりどかんと便乗し捻じ込み引っ張りなんやかんやして設置した大学。公立ではあるけれど、半ば私立。
 由緒は正しくも、その出自は公然の秘密。
 勿論その血統に見合うだけの学力を必要とされる。しかし不夜大学の卒業生の多くは、いわゆる政界財界へと旅立ったり突入したりする。僕の想像もできない世界への入り口となっているのだろう。
 まあ学部とか学科にもよるんだろうけどね。
 勉強のできない僕にはどこまでも関係のない世界だ。冗句かもしれない。
「ってことは、天田さんって人は結構なお嬢様であらせられたりするんでしょうか」
「実家はそうみたいですね。一人暮らしだったらしいので一度彼女の住んでいたマンションを訪れてみたのですが、なかなかご立派でしたよ。学生が住む部屋だとは思えないほどに。まあそもそも学生向けの部屋ですらなかったんで、当然と言えば当然なんでしょうけど。オートロックにカードキーに指紋認証ですよー? 学生向けの住居じゃないですよね。まあ県外から来て一人暮らしさせる娘だから、安全に過ごさせようってのもわかる気はします。ああ、費用は親御さんが全て支払っていたそうで。ただ、本人の素行は、その、あまり良くなかったようですねー」
「素行? ああ、もしかして」
「大学デビュー、って言えばいいんですかねー。結構派手に遊んでいらしたみたいですよ。美術部に所属したりしてたみたいですけど、あの大学のサークルって大体真面目なところが多いですからねー。それに嫌気が差したのか、数ヶ月幽霊部員を続けてから、辞めちゃったみたいで。あとはずーっと無所属で遊んでたみたいですねー。仕送りの量も、他の学生からすればかなり多くもらっていたようですし。大学に進学するまでは市内でも有数の進学校に通っていらしたみたいですし、親御さんもかなり厳しい方だったようで、その反動? 的な?」
「あー。想像しやすい感じですね。僕がその女の子だったら同じ道を辿ったかもしれないですね。まあ冗句ですけど」
 適当すぎる相槌を打って次を促す。
「夜も出歩いて遊ぶことが多かったみたいです。親の気持ち子知らず、って感じでしょーか」
「どこの大学生もそんな感じな気はしますけどね。いくら住居に気を使っても、外に出られたら意味がないってことで。殺されちゃったら――ああいや、一応行方不明扱いなんでしたっけ、無駄ですよね。将来僕に娘が出来たら、檻よりも教育に力を入れることにしましょうかね」
 子供なんて作る予定も気力もないけれど。
「はっはっは。随分早いことでー。まあ、身許って感じならこんなところでしょーか。一応部屋の住所と実家の住所をお教えしましょう。サービスですよ?」
 ありがとうございます、と返事したところで、ウェイターが料理を運んできた。
「たいへんお待たせいたしました」と言いながらテーブルに皿を並べていく。
 ハンバーグと豚焼き肉。黒いプレートがじゅうじゅうと肉を焦がしている。ライスを置いて、彼は去って行った。
 肉の焼けた香りが鼻腔を突く。
「やっとお昼ご飯です……」
 佐藤さんはナイフとフォークを手に持った。これから戦に行くぞ、という感じか。いやそんなじゃないけど。
 うーん。
 あれぇ? って感じだな。先程もたらされた情報を吟味する。
 微妙に隠してるよねぇ?
 警察の見解とか。どう思ったとか。本当に言葉通り身許だけしか教えてもらっていない。
 引き出せてない。
 僕の訊きだし方が良くなかったか。
 でもまた同じような垂れ流しをするのは疲れるし、何より芸がない。そもそも一つしか芸を持っていないのが問題な気もするけれど。まあそこは無視無視、脳の彼方へとぽい捨てぽーい。
 自分の無能を証明するようだけれど、仕方ない。無能なりに仕事はしないとね。
 やるなら、今か。
 僕は腰を浮かして周囲に人がいないか確かめた。まるでさっきの佐藤さんみたいだ。当の彼は、「どうしたんすか?」といった感じで僕を見ている。
 客は少ない。近くには誰も座っていない。
「佐藤さん、よく聞いてくださいね。一度しか言いませんから」
「お、何です何です? 情報いただけるんですか?」
 まるで疑いもせずに顔を近づける佐藤さんであった。
 阿呆だこいつ。
「…………こほん」
「こほん?」
「みゃ」
「みゃ?」
「――――――――みゃっこみゃっこりーん」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 これさあ。
 めちゃくちゃ恥ずかしくて顔から火が出そうなんだけど。
 思わず三点リーダを口から大量に吐き出してしまうくらいに。
 佐藤さんは沈黙している。
 僕を見たままだ。
 あ、あれ。
 もしかして失敗したか?
 暗示の言葉を出す前に躊躇が頭をもうスピードで駆け抜けていったので、詰まってしまった。それが原因で失敗が起きる可能性も、なくはない。何せ僕は素人なのだから、どんな失敗が起きても不思議ではない。
「…………」
 僕は顔を離した。
 試しに、少し右にずれてみる。ソファの上を、腰を浮かして移動。
 佐藤さんは目の前を真っすぐ見つめたままだった。
 直後には気づかなかったけれど。
 こうしてみれば、佐藤さんの眼が明らかに虚ろになっていることがわかる。
「あなたは――佐藤さん。佐藤一郎さんですよね? 佐藤一郎さんなら、フォークとナイフを置いてください。お皿の横に」
「はい、俺は佐藤一郎です」
 一人称が僕から俺になっている。たまに「私」と言っていることも聞いたことがあるけれど、佐藤さんにとっては地は「俺」なのかもしれない。
 フォークとナイフを綺麗に皿の横に並べた彼は、しかし依然として目の前の虚空を見つめていた。
 僕は右手の中指と親指をこすり合わせ、小さく指を鳴らした。
「あなたは今、人形になっています。次に僕が指を鳴らしたら、この――人形状態は解除されます。これから質問することと答えたこと、人形になっていたことは全て忘れます。わかりましたか?」
「はい、わかりました」
 虚ろを見つめながら佐藤さんは素直に言った。瞬きもなし。微動だにしない。
 これで、彼女に教えてもらった準備はオーケーか。
 いやはや。
 やはりみゃこさんはすごい催眠術師だ。表に現れない暗示をかけておいて、それを術者本人以外も利用できるとは。
 規格外だ、《嘆き女》――バンシィ――って奴は。
 訊ねたいことを頭の中でリストアップして整理する。佐藤さんは人形のようにただ時間を貪っている。
 なるべくシンプルに訊かねばならない。下手をすると彼の精神に傷を負わせてしまう可能性もある。みゃこさんから注意するようにと言われたことだ。
 『これ』は、人の心や記憶に直接手で触れているのと同じなのだから。
「あなたは、天田和良さんの現場を見ましたか?」
「見ました」
 どうでしたか、といつものように訊きそうになって口を押さえる。
 曖昧な質問は良くない。
「遺体はありましたか?」
「ありました」
「それは一人分の遺体として十分なものでしたか?」
「十分ではありませんでした」
 確認、先程の情報に嘘はない。
「天井は見ましたか?」
「見ました」
「文字はありましたか?」
「ありました」
「あなたは、他の現場も見ましたか?」
「全てではありませんが見ました」
「それは全て同じ言葉でしたか?」
「はい、全て同じ英語が書いてありました」
 Simplicity is the ultimate sophistication.
 シンプルさとは究極の洗練である。
 ふーん。全て書いてあったんだ。
 どの現場にも不可解な英語が書いてあるという情報が、あれから読んだ報告書にはあったけれど、まさか全部同じだとは。
 えらく気に入ってんだね、犯人は。プロポーズの言葉にでも使えばいいのに。僕と君はシンプルになるのさ、みたいなね。
 冗句だよ、いつものね。
「天田和良さん以外の現場、直近の三件では、あなたの直接の上司はどんな判断を下していましたか?」
「ただの悪戯書きか、あるいは犯人の犯行声明か、と迷っていました」
「犯行声明とは、殺人犯の、ですか?」
「違います。誘拐犯の、と」
「天田和良さんの現場では、加害者はまだ誘拐犯として扱われていましたか?」
「いいえ、殺人犯として扱われることになりました」
 へえ。
 当然と言えば当然だけれど。
 行方不明者が遺体となって出てきたわけだし。ようやく殺人事件として捜査が行える、といったところか。
「これまでの事件と比べて、進展はありましたか?」
「ほとんどありません」
「行方不明者が遺体となって出てきただけ?」
「はい」
 成程。
 じゃあ僕が調査するにあたって必要なヒントを頂こうか。それで終わりにしようっと。
 これさえ聴ければ後はやっつけ仕事なわけだし。
「あなたたちが怪しいと思っている容疑……被疑者は?」
「いません」
 ……。
 ん?
 ――いない?
 えっ。
 いないの?
 マジで?
「な、何故、被疑者がいないのですか?」
「どの被害者も行方不明者も、ほとんど共通点がないからです」
「それにしたって限度はあるでしょう?」
「共通点がないんです」
 共通点が、ない?
 それで被疑者がいないということは。
「共通点が、なさすぎる?」
「はい」
「共通点があっても、他と繋がらない?」
「はい」
「通り魔的犯行と見られていますか?」
「はい」
 うーん。
 みゃこさんから見せてもらった資料によれば、発生件数は五十件前後だったっけ。必ずしも《破壊魔》の仕業であると言える事件ばかりではないけれど、数年前から着実に行方不明者(仮)は一定の割合で増えていってるわけで。
 共通点があったとしても、それは個人個人の繋がりであって、全員に共通するものはない。サンプル数が多すぎる。
 そんな感じなのだろうか。
 まあ確かに、冷静に考えれば、これだけの人数が行方不明(疑)になったのだから、通り魔的な犯行だと考えられてもおかしくはない。
 あるいは集団失踪とか。
 問題なのは致死量と思われる血液が残されていることと、天井のメッセージ、か。
 ……待てよ。
 天井?
「行方不明の痕跡が見つかったのは、全て屋内だったりします?」
「はい。いずれも廃墟やテナント募集中の空き部屋といった、人気のない場所でした」
 うーん。
 どうやって連れ込んだのだろうか。《破壊魔》の全ての異常を把握しているわけではないけれど、廃墟はともかく、空きビルや空き部屋には。
「何か――壁が壊れていたとか、そういうことはありましたか?」
「全く、何も」
 廃墟などへの侵入は想像するよりも難しい。案外しっかりと施錠されているし、入口以外の場所から忍びこもうと思うと、それなりの労力を要する。
「…………」
 不可解だ。
 殺害方法は明らか。
 破壊する。《異常者》である《破壊魔》であれば、人間など簡単に破壊できてしまうだろう。
 それこそ《殺人鬼》と同様に、赤子の手を捻るかのように。
 しかし、どうやってそれに至ったかが謎すぎる。
 背後から近寄って昏睡させて運びこむ?
 馬鹿な。
 血痕が見つかった現場は、被害者の通勤帰宅ルートから大なり小なり離れた場所だった、はず。
 近いところもあれば、遠いところもある。
 彼は。
 あるいは彼女は。
 どんな手品を使ったんだろう。
「…………」
 まあ。
 とりあえずはここらでいいか。あまり長く続けていても危険だ。
 ファミレスの中という、決して静寂に包まれることのない場所で催眠状態を維持し続けるのも危険だ。
 訊くべきことは全て聴き終わった。もう催眠状態を解いても良いだろう。
 佐藤さんの知っていること全てを知りたいという欲求を必死で抑える。今の彼に訊けば、全て教えてくれるだろう。
 それこそ、全て。彼のこれまでの人生。
 彼自身が覚えていなくても、彼の脳が記憶していること、全てを。
 なかなか、いけない誘惑だ。
 いつだったか、みゃこさんも言っていた。知識欲は危険だと。
 知識欲と、知的好奇心。
 たとえば。
 たとえばここで、人形の彼に『死ね』と言ったら、どうなるのだろう。
 僕の邪悪な好奇心がみるみるうちに膨らんで行く。
「佐藤さん、死んでください」
「はい」
 彼は皿の横に置いていた肉用のフォークを手に取り、首に押しあてた。調理された肉を裂くための、切れ味の鈍いそれを皮膚に突き立て、力任せに引き裂いていく。頸動脈も巻き込まれて一気に裂かれていく。
 無言のままに首の肉を裂いた彼は、多量の血を卓上にぶちまけて、倒れた。
 ところで、僕の悪趣味な想像を終える。
「…………」
 目の前の他人をぶっ殺すなんて悪趣味な。
 実に悪趣味な冗句だ。
 実際の僕は何もしていないし何も言っていない。
 佐藤さんは相変わらず虚ろな目を虚空に漂わせている。
 悪影響が出る前に終わらせよう。まだご飯の途中だったしな、と僕は思い出した。
「佐藤さん」
「はい」
 右手の中指と親指を接吻させてから滑らせ、あくまでも小さく鳴らした。
 ぱっちん。
 佐藤さんは突然目が覚めたような顔をした。
 目を開いたまま眠っていて、それで突然起きてしまったような、まさしくそんな表情。
 驚きに近い。
「…………あれ?」
「おはようございます、佐藤さん」
「俺、寝てました?」
「ええ、ぐっすりとお休みになっていたようでしたので、僕はただひたすらにあなたの寝顔を観察していました。いやぁ、本当に羨ましいくらいの安眠でしたね。寝言まで言っていましたよ。おうちに帰られてしっかりとちゃんとした休息を取られてはいかがです? もしくは休暇とか」
 僕は何事もなかったように答えた。
 事実、何事もなかったし。僕の冗句以外は。
「どうしてすかぁ!?」
 慌てて左腕に巻いた腕時計を確認する佐藤さん。安物っぽい。
 どうやら休憩時間自体は超過していなかったようで、安堵した表情を見せた。ちっ。
「正直なお話をすると、お疲れのようだったのでそっとしておきました」
「……隠居さんって親切なのか意地悪なのかわかんないとこありますよね……」
「失礼な」
 これでも正々堂々冗句を嗜む紳士としての自覚があったりなかったりするんだぞ。ないけど。
 不機嫌そうな彼はほとんど手を付けていない料理に向かった。
 うわっ、冷えてる!
 そんな声が聞こえたけれど、僕は無視することにした。他に考えるべきことがある。
 とりあえず天田和良の方から調べていくことになるのだろうか。
 しかし。被害者行方不明者たちに共通点があるようでないこととか。共通するものがある人と、ない人がいる。
 うーん。厄介だ。そうなってくると、天田和良を調べる意味もないように思えてくる。
 これが《破壊魔》の目的である可能性も、ないではないけど。
 考えることは重要だけれど、考えすぎるのも駄目か。
 みゃこさんに報告して、指示を仰ぐのもひとつの手、というか。この会合を予定していたのもみゃこさんなのだから、とりあえずは報告に戻るべきか。
「そういえば隠居さんにフォークとナイフを置けとか言われたような記憶があるんですけどー」
 ぎくり。
「そんなこと言うわけないじゃないですか。気のせいでは?」
「っすかね……」
 そういえばフィンガースナップで忘れる範囲に、そのことを含めるのをすっかりと忘れていた。
 ふーむ。
 《嘆き女》の催眠術、誰にでも扱えるようでいて、そうではなく。
 結局のところ、他人に扱えてもそれは借り物で、他人が催眠術や暗示や人形を上手く扱えるわけがないんだ。今回は良かったけれど、重大な過ちを犯してしまえばとりかえしのつかないことになるだろう。
 単純に気軽に使うものではないな。特に素人中の素人は。
 僕は完全に氷の溶けてしまった、生ぬるい水を飲み下した。





「というわけなのですよ」
「……というわけなのですか……」
 離しているうちに寝汗はすっかりと乾いてしまい、肌寒く感じるほどだった。今夜も春には似合わぬ寒風が吹いているのだろか。
 報告を聞き終えたみゃこさんは、マフラーの中でぼそぼそと言葉を紡ぐ。
「……共通点がなさすぎるというのは奇怪ですね……」
「そうでもないと思いますけどね」と言うとみゃこさんは、「どうぞ続けて」といった感じの視線を向けてきたので、言われていないけど言われた通りに続けることにした。「ここまで共通点という共通点を排除しているということは、《破壊魔》は何か意図があってやっているんじゃないかって思いますよ」
「……そこまで共通点を見出されたくない、何かがある……」
「若い男性、な気がします。それか所帯を持っている人間。家族のいる人。そんな感じです。ばれちゃいけない、発覚してはいけない。発覚したとしても自分のところまで辿られてはならない――そんな感じが」
 それにしてはメッセージのようなものを残したり血液を残したりと謎な行動が目立つけれど。
 大体肉体をほとんど破壊できているから、血液が残っているわけで。おそらくだけれど、彼(推定)の手にかかれば、肉も骨も皮も、ほとんど分子レベルとか原子レベルとか、その辺りまで破壊できるはずだ。
 だったら血液も同様のはず。
 いやむしろ、限界まで小さく破壊したから血液のような形で残っているのか? 人間ジュースみたいな。それにしたって質量保存の法則から逃れられるわけでもないし。
 ああ、いや、「質量保存の法則」って、科学反応の前後の話だったっけ? 必ずしもこれに当てはまるわけではないとかそんな話も聞き覚えあったりなかったり。つまりうろ覚え。
 ……うーん、理科とか科学とか生物とか、その辺は昔から苦手だったし今でも苦手だし学校での成績も全く振るわないというか今の時点で次の試験のことを考えるだけで憂鬱になるからさっぱりわからん。幽霧さんにでも訊けばいいんだろうけど、彼は今支部を離れているし、そもそも僕が彼を苦手としている。あまり近づきたい人ではない。物理的に。
 ちなみに物理も苦手だ。完全に文系の僕なのであった。
「……天田和良のことはわかりました……他の被害者の発見……でよろしいんでしょうか……まあ、そういう場所のことも、あとで携帯に送っておきましょう……」
「僕がそういう現場を調べた方がいいんですかね? だって共通点を排除しまくっているのなら、あんまり意味がないわけじゃないですか。警察屋さんだって人員を割いて調べているのに、僕一人が調べたって」
 みゃこさんは口――マフラーの前で、人差し指を立てた。ちょっとかわいい。目は相変わらず下を向いているけど。
「……庵さんはこないだ、現場を目撃してきました……そのときは肉片が残っていた……つまり、破壊の途中……おかしな話です……仮に《破壊魔》であるのなら……最初から最後まで一度に壊せるはず……ということは……?」
「あの日あの時、僕らが訪れたから途中でやめてしまった?」
 あの疑惑の人物を《破壊魔》であると定義しなくとも。現場そのものがひとつの証拠のようなものに。
「途中――ということは、彼にとっては『破壊すること』が一つの愉しみであり悦びであった可能性も高い?」
 これまでの《破壊魔》もそうだったし、彼(疑惑)が《破壊魔》であるならば当然、そういうことだろうとは思っていたけれど。
 改めて指摘されると、確かにそれは、有力なヒントになりそうに思えた。
 それだけ破壊にこだわりを持った異常者なら、破壊相手にもそれなりの美学があるだろう。
 最初はそうでなくても、ここ十件くらいはそうなっていそうだ。
 恥ずかしげもなくダ・ヴィンチの言葉を引用するような、自意識過剰で芸術家肌な人物のようだし。
「だろう、に、そう、か」自分の思考が仮定や推定ばかりで萎えそうになる。もっと頭が良ければいいのに、とは思うけど、努力しようとは思わない。来世に期待。
 冗句かもしれない。
「……結局何が言いたいのかといいますと……貴方が調べるべきは今までの被害者のことではなく……」
「天田和良」
「……正解です……」
 みゃこさんはにっこりと笑った。
 鼻や口は黒の柔布に覆われているから見えないけれど。目は笑っているように見えた。
 美人だなぁ。
 これは冗句じゃなかったりね。
「共通点を排除しきった今だからこそ、油断がありそう、ってのもありますしね」
 これも推定だけど。
 まあ間違っていたら消しゴムを使って、またやり直せばいいのだ。
 殺されるのは僕じゃない。無辜の市民たちだ。
 ……あれ? もしかして僕って矛盾してる?
 矛盾こそが人間の本質なのである、ということにしておけ。きっと冗句だ。
「しかし天田和良のことを調べると言ったって、警察屋さんがそこそこ調査しているでしょうし、あんまり意味がないような気もしますよ?」
「……貴方は《異常者》の存在を知っている、という視点を持っている……それだけでも、改めて調査する意義が生まれると思うのです……彼らには見えないものが見えるはずですよ……きっと……たぶん……おそらく……」
 いやに予防線を張ってくるみゃこさんなのであった。
 まあ、確かに。
 自信はないけれど、彼らにはないものを持っているのもまた確かなことであるし。
 やるだけやってみようかと思う。
「どうしますかね。大学だから、潜入そのものは簡単だとは思いますけど。流石に授業なんかに紛れ込むのは難度が高い。彼女の所属していた美術サークルは……うーむ、規模にもよるけど顔を覚えているだろうしなぁ」
 返事を期待していない独白。
 思考をまとめる。
 調査するなら美術サークルが適当だろうけど、十七歳の僕に応えてくれる人はいるだろうか。サークル、部活動。
 閉鎖的な環境。学校と言うのはどれもこれも閉鎖的だ。閉じ籠めているかのように。大学はまだマシな方だけれど。
 閉ざされた環の中で、合法的に、ぺらぺらと喋らせる手段、行動。
「あ」
 ひらめき、というよりも。
 思い出すことがあった。
「……なんです……?」
「オープンキャンパス」
 みゃこさんはクエスチョンマークを頭上に浮かべたままだ。
 僕は思い出した。
「確かうちの学校で募集されてたんですよ。ポスターなんかが来たりして。うちの学校としても、行事の一つとしてカウントされてたり」
 学校での募集に応募すれば交通費を出してくれたりしたはずだ。そのかわり団体行動になるようだけれど。
「……庵さん新二年生でしたよね……時期としてはかなり早いですね……」
「一年のうち、何度もやってるんですよ。年々減少してる学生の確保のためじゃないですか? そもそもあの大学って入学試験のレベル高いから、そんなことしたって増えないような気もしますけど。ああ、だから一年生や二年生のうちに募集かけてアピールしてるんだ……成程ね」
 少子化と高齢化ってこえーな、と未来の我が国を憂えつつ。
 いつでも、どれでもいいから一度は行けと担任に言われていることだし。
 担任は受験へのモチベーションアップのため、とは言うけれど。
 まあ、とにかく。
 行けばいいんだろう?
 明日の行動は決まった。



了。