2.応力破壊

作:宴屋六郎


どくどくと毒を口に含んだまま生きていく。





 まあ、いいか。
 ロボットの玩具『だったもの』を池に投げ捨てながら、僕はそう判断した。勿論というか、自分のものではない。近所の池には、僕のものもたくさん眠っているが。
 止め時というのも重要だ。
 引き際。
 退き際。
 幼いながらにもわかっていたからか。
 幼いからこそわかっていたのだろうか。
 少しは成長した現在となっては、何を思っていたのか思い出すのは難しい。さすがの僕と言えど、ぼんやりとした記憶しか残っていない。
 ――壊すことが好きなのだと気づいた僕は、ある時から「他人の物を壊すこと」を止めていた。
 それまでは高島くんや山寺くんや高野さん天田さんやその他大勢友人一同の所有物を壊していた。もちろん無断である。最初こそ壊させてくれないかと純粋無垢な願いを申し出たりしたものだが、人間というのは他人に自分の所有物を壊させることに強い抵抗を感じる生き物らしく、どうにも誰からも了承を得ることは出来なかった。今でこそ当然だと思えるが、当時は共感能力が低かったもので。子供の頃のお痛は誰にもある記憶だろう。
 だから、本人がみていないところで壊すことにした。
 本人どころか誰もみていないところで、だな。
 ロボットの玩具や可愛いお人形や、彼らの大事にしていたクレヨンや色鉛筆を壊すのは実に楽しかった。非常に愉快だった。とても充実した時間だった。
 もちろんそれまで「壊させてくれないか」などと馬鹿な質問をしていたせいで、何人かの友人には疑われもした。
 しかし僕は普段から優しく親切な幼稚園児として生きていたので、あまり強く疑われることはなかったし、そもそも目撃者がおらず、証拠もなかった。
 だから面と向かって糾弾されたことは一度もなかった。
 友人達も教師達も、証拠がないから断罪できない。
 手段としては悪くないが、あまりシンプルでスマートな方法ではない。
 無自覚ではあったけれど、自分はかなり嫌な子供だったと思う。今ならもっと上手くやるだろう。相手に紛失したと思わせるとか、まあ色々ある。
 話を戻そう。
 壊すことをやめようと思ったのは、ある時だ。
 『ある時』というのはまさしくある時で、具体的な時間までは覚えていない。小学校に入学した後で、卒業する前だったことは覚えている。
 理由は先に述べたようなこともあるが、単純明快。
 不利だからだ。
 生きることに不利になる。
 生存するということに不利。
 全てにおいて不利。
 社会生活を円満に送るには、不利すぎる。
 僕の欲望は。
 リスクとリターン。この世のルール。
 たとえ「うまくやった」としても、いつかはボロが出る。人生経験はさほど豊富ではなかったけれど、僕にはなんとなくの感覚でそれがわかっていた。
 だから抑制することにした。
 自分の欲望に忠実になるのは子供の特権である。それも幼子の。
 僕は子供であることをやめて、我慢することを覚えた。
 しかしながら、無理に我慢しているだけではいけない、ということもまたわかっていた。
 だから最低限の欲求消化として、自分の物を壊すことにしていた。
 己の物だから、満たせる欲求は大きくない。それでも何もしないでいるよりはマシだった。
 よくやっていたのは鉛筆やペン、シャープペンシルや消しゴムといった、文房具の破壊。これは小学生という生き物が必ず利用するものであったし、少しやんちゃな小学生ならば日常的に消費が激しくとも疑われにくいものだった。
 このころは自分で金銭を稼ぐ手段がなかったので、自分の所有物とは言う物の、実際は両親の所有物だったわけだけれども。
 それでも自分の物として買い与えられたものであることは間違いない。だから僕は頻度と時間と期間を考えて、じっくりと壊すことにしていた。
 まずは折る。半分に折る。半分に折った物をさらに半分に折っていく。
 そうなるとだんだん折るのが難しくなってくる。だから次は粉砕する。なんでもいい。力任せに自分の手でやるのなら、痛みという感覚で壊しているという実感を得ることができるが、あまりテンポ良く壊すことができない。リズムよく壊すことができない。
 それはいけない。
 だから大抵は道具を使った。
 道具とは言っても、ハンマーのように、破壊に特化したものでなくていい。兎に角重たくて、鉛筆やペンなどを効率よく壊すことができれば、何でも良いのだ。
 僕がよく利用していたのは、父が土産に買ってきた硝子製の『重り』だった。本来は本のページ止めとして使用するものらしいのだが、手に掴みやすく、丁度いい重たさがテンポの良い破壊を生み出す。少なくとも文房具相手であるならば、全く問題ない。
 砕けた鉛筆は鉛色の芯と木色の軸を晒し、ペンはケースとプラスティックとインクを跳ねて散乱させ、消しゴムはその真っ白な体を何十もの欠片へと変貌させた。
 それらを壊している間は心が落ち着き、また、興奮し、確かな快楽を感じた。
 壊したものを眺めているのもたいへん愉快だった。やはりシンプルなものは良い。心の落ち着きや平穏を感じることができた。
 小学生前半の記憶と言えば、平々凡々な『一般的な小学生が得るであろう思い出』と、ささやかな楽しみである破壊だった。
 それと少しばかり強く記憶に残っていて、今も忘れられないのは、母親と妹と共に訪れた美術館でのことか。
 そのとき初めて本格的な絵画というものを目に納めたが、ある一枚の絵は、観た瞬間に言いようのない感覚に囚われた。
 実に、シンプルで美しい。
 無名な作家による、一枚のみの展示ではあったが、非常に美しいと思った。
 展示室の端に追いやられるように飾られていたその絵は、一人の人間が描かれているだけだった。
 ただし、体のパーツは、現実の物と一致しない。
 頭が股間にあったり、腕が足の部分に生えていたり、足が肩から生えていたりする。
 それだけでなく、欠けた部分もあった。目や耳や鼻や、片方の腕や。
 シンプルになっていた。
 人間がシンプルになっていた。
 母や妹にとっては奇怪極まりない、あまり子供に見せたいとは思えない代物だったらしく、足早に去らざるを得なかったが、僕はその絵のことが忘れられなかった。見つめ直したいと思い、小遣いを握って一人で美術館を訪れたこともあった。それも、数え切れないほど何度も。
 それから僕は、自分でもその絵を描いてみたいと思い、自分でも真似してみることにした。見よう見まねで絵を描いてみた。最初のうちはまったく上手くいかない。それでもだんだんと偽物らしくはなってきた。僕はそれでも満足できなかった。
 だから、絵を練習することにした。幸いにして描くことは楽しかったし、少しずつ上達するのは快い感覚だった。
 ただ、あまり奇怪な絵を描くと間違いなく両親から怪しまれてしまうので、念入りに処理して廃棄しなければならないのは残念だった。
 今から考えると、子供のころはずいぶんと安穏とした生活を送っていたものだ。
 平穏ばかりの人生であれば僕としても歓迎したかったところなのだが、そうもいかないようだった。
 高学年へ登る頃、両親から「学習塾に通わないか」と提案があった。
 彼らはどうも、僕に英才教育じみたものを与えたがっていた。
 いや実際英才教育となれば、学習塾などほんの些細なものなのだろう。きっかけに過ぎないものだったのだろう。
 彼らは強制するような口振りではなく、勧めるような語調だったので、両親にとってはそれが一種の優しさだったのかもしれない。いや、きっと彼らなりの優しさだったのだ。
 自分の頭脳が同世代の人間よりも柔らかく、回転も速く、おそらく勉学という行為に向いた脳になっている、そして学年でも一番の成績を維持している、ということに少なからず自覚があった。だが、正直なところ、その提案を気に入りはしなかった。
 自分はもっと、絵を描いたり工作をしたりといった、『そういうこと』に興味があったからだ。
 さりとて彼ら両親に逆らうわけにはいかない。
 別に、彼らが暴力的であったとか高圧的であったとか、ネガティブな事実はない。
 むしろその逆であり、彼らは僕や妹に優しい親だった。客観的に見て、非常に理想的な親として振る舞っていたように思う。
 だが、僕は。
 彼らが優しいからこそ、逆らうわけにはいかなかったのだ。
 これは自分の人生である。
 けれど、自分だけの人生でないこともまた、理解していた。
 特に、我が家のような家庭は、長子である己が立派な人間にならなければ、家族親族が悲しむことになるだろうということはよくわかっていた。
 なんといっても父親はそのころから警察の幹部を任ぜられていたことだし。
 我が家系は元々ちょっとした資産家でもあったことだし。
 親族のほとんどが一般的に『立派』だと言われる立場にあったことだし。
 だとすれば、僕もそうなってあげないと。
 父や母が悲しむだろうと。
 そう思ったのだ。
 僕は期待されていたことを知っていた。
 彼らは期待を悟られないようにしていたようだが、僕にはわかっていた。彼らの視線が、特に勉強をしなくても勉学行為に向いている自分に対して期待の色を帯びていることを、感じ取っていた。
 だから、僕は、彼らの提案を聞いて、素直に頷いたのだ。
 『学習塾』に通って具体的にどういう教育を受けさせるつもりだったのか一切わからなかったけれど。それなら家庭教師の方が良いのではないかとも思ったけれど。
 彼らがそう望むのなら。
 僕ができることの範囲なら。
 叶えてあげようと思ったのだ。
 僕が期待をかけられている一方で、妹はからきしだった。
 容姿は整っているが、あまり賢い子ではない。頭が弱い子、というわけではないが、成績が良い子ではなかった。
 希望を抱かれていない妹。
 妹は僕によく懐いた。
 お兄ちゃんお兄ちゃんとよく慕ってくれた。
 僕は彼女とよく他愛のない会話を交わした。喧嘩はしたことがなかったと思う。ただの一度も。僕は早くから心に老人じみたところがあったし、妹は他人に悪くできる性格をしていなかった。
 仲の良い兄妹だったと思う。仲良くしていたと思う。
 そうしながら、僕は彼女のことが羨ましかった。
 何も期待されず、ありのままの自分で生きることができる、妹が。
 羨ましくて羨ましくて、仕方がなかった。
 何も期待されたくなかった。
 そんなことを、小学生が考えていた。今から考えるとなんと老成した子供だ、と笑いたくなるが、当時の僕は真剣だったし、その真剣さが今も尾を引いている部分もあるので、単純には笑えない。
 真剣に考えていたからこそ、ストレスは蓄積されていく一方であり、年月を経るにつれて現実への認識が高まり、僕は軽い頭痛に苛まれるようになった。
 無視できるようで、できない。
 存在感があるようで、存在感がない。
 風邪のときのようなずきずきとしたものではなく、ちくちくと小さな針で微細な穴を穿つような。
 そんな頭痛がずっと頭の中にあった。
 ――学習塾では小学校よりも早く勉強が進む。だから学校でやっているのは既に時代遅れで、学校での勉強がつまらなくなった。だからといって学習塾での勉強が楽しいわけでもない。英語の家庭教師なんかもつけられて、僕は勉学という行為に囲まれているような気分になった。
 内心は嫌であったが、親に向かってそんな態度を表出させるわけにもいかない。
 家族のこと。
 親族のこと。
 一族のこと。
 母のこと。
 母の視線。
 父のこと。
 父の立場と期待。
 妹のこと。
 妹の自由な生き方。
 許されていること。
 自分のこと。
 自分の勝手な欲望で、誰かを悲しませるわけにはいかないこと。優しい誰かを、失望させるわけにはいかないこと。
 考えると。
 ちくちくと痛みだす。
 小さな棘が、脳にびっしりと小さな穴を開けていく。
 ストレス。
 ストレス。
 ストレス。
 ストレス。
 ストレス。
 そして。
 フラストレーション。
 ああ。
 ああ。
 ああああ。
 壊したい。


失望奇譚集―壊虐奇談2
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「壊したい。果てしなく壊したい。この目の前にある欠陥を壊してしまいたい。ああ、壊してしまいたいよ。本当に。いや、冗談抜きでそう言ってるんだ。マジで。壊したい。いや、いっそ僕の関係ないところで壊れてしまえ。僕が壊すと色々請求されそうだから」
 エレベーターがないのはいいとしよう。実際は良くないけど、良いとする。僕の心は広いのだ。おんぼろでもいいから古いものでもいいからエレベーターを設置してないのはいったいどういう了見なのかと言いたいが、言わない。
 問題は階段にあった。
 六階建の雑居ビルの五階に登るために必要なもの。
 そのビルディングにエレベーターがないのであれば、昇降手段としては階段しか残っていない。少なくとも僕には、他の手段は全く思い浮かばない。ビルの壁面を直接登るとか、現実離れした発想はなしの方向でお願いしたい。
 登る階段は、段差がそれぞれまちまち。しかもどれも普通の階段よりも少し高い。登りにくいことこの上ない。無意識に普通の階段を登る調子で次の段を踏もうとすると、上昇させた足の高さが合わず、足を踏み外しそうになる。
 おまけに電灯が点いていても足下を照らすには薄暗すぎて、足下がよく見えない。今日はマグライトを持っているので照らしているが、いつもは暗闇と大差ない。
 時刻は午前三時、の少し手前である。
 棺桶に片足突っ込んだ老人のごとく弱々しい電灯に加えて、踊り場に小さな窓しかないから、昼間でも、太陽光が入らず、常に暗い。黴が喜びそうな環境だ。
 実際ほこりっぽいような黴っぽいような香りがするのだけど。
 一階から五階まで愉快ではない臭いを嗅ぎながら、細心の注意を払って登らなければならない。
 もし本当に踏み外したなら、階段そのものが狭く急なことも影響して、決して小さくない怪我を負うことになるだろう。
 冗句みたいな話だけど、現実に存在しているので一切笑えない。
 片道二時間の道――交通機関はほとんど眠っているし、肉片を抱えた状態でタクシーに乗るわけにもいかなかった――を己の足のみで踏破した後で、この階段。しかも片手には決して邪険に扱ってはならない鞄を持っている。
 これなら、建設を担当した人間に殺意が湧いても、仕方のないことだと思う。
 胸中で愚痴を垂れ流しながらも、ぼろぼろで手触りの悪い手すりに掴まりながら、なんとか進む。
 あまりだらだらと進行していると、後ろから刺されそうで怖い。
 そう、僕の後ろをついてきているのは《殺人鬼》――伏見山観夕。
 彼女は文句ひとつ零さず軽々と登っている。その足取りは順調そのもの。どうなってやがる。
 僕は強行軍で鉛のように重たくなった足をひきずるようにして段差を越え、踏みしめていく。
 ああ、でもこの場合強行軍という言葉は相応しくないかもしれない。だとしたらどんな言葉がふさわしいというのか。僕は日本語に堪能であるとは言えないので、わからないけど。
 日本語ではなく暴力言語に堪能である女の子が背後にいることはさておき。
 あんまりにもあんまりな階段を登り終えると、右側に扉があった。まるでアパートやマンションで見かけるような、ドアスコープの付いたスタンダードな扉。
 階段そのものはまだ先へと続いているが、あれは天国への階段じゃ。登ってはならぬ。ならぬものはならぬのだ。人生に潤いをもたらす冗句である。
 埃っぽい金属製のドアノブを掴む。ざらりとした不快な感触は錆によるもの。これもいつか変えて欲しいものだ。メンテナンス業者とか、僕が調べてみゃこさんに教えておくとかさ、あの人頓着しなさそうだし……でもそうすると僕の口座からお金持って行かれそうで怖いんだよな。自然と改善しなきゃと思わせる策が必要か。覚えていれば後で考えてみよう。覚えてなさそうだけど。
 ぼんやりと考えながら取っ手を捻ると、若干の抵抗感はあったものの、いつものようにその扉は開いた。開いた隙間から灯りが漏れる。夜道と階段と、暗闇に目が慣れていたので、溢れた光が目に痛い。
 観夕が僕より先に、横を通り抜けて行った。どうやら言葉にはしていなかったが、僕の遅々とした歩みに苛々としていたらしい。
 うーむ、あんまり蓄積させるといつか本当に殺されかねない。今度何か手を打たなければならないな。点数稼ぎが必要か……。
 彼女に続いて中に入った。
 玄関、そこから伸びる廊下。フローリングにベージュ色の壁。灯りは暖色で落ち着きという概念を滲ませている。
 まるで普通のマンションのような理想的で基本的な玄関。
 雑居ビルの薄汚れた外見や階段の様子とは打って変わって、小奇麗な空間。
 廊下の先には灯りの漏れているガラスの嵌められた扉。そして右手と左手に扉が一つずつ。
 最低でも、合計三つの部屋が存在していることになる。
「ただいま」
 靴を脱いでスリッパに履き替えながら。
 観夕が言った。
 無口な少女が口にする。
 帰宅の挨拶。
「……これがギャップ萌えって奴なのかな」
 わからん。
 萌えという概念を理解していない僕が呟くのもなんだけれど。
 普段無口なくせにこういう礼節的なところは外さないのは何なんだろうね。
 心当たりから目を背けつつ、僕は靴を脱いだ。
 スリッパに履き替えて廊下を歩く。
 何度も訪れた場所だけに、勝手は知っているが、勝手をしてはならない。
 観夕は右側の部屋に入っていく。あれは彼女の私室だ。
 横目でも覗くと殺されてしまうだろう。
 それこそ今夜の彼らのように。一瞬で。
 僕を殺すことなど他愛もないこと。
 それは彼女でなくても同じだ。
「僕はどこまでも無力だから」
 独り言を呟き、L字形ドアノブを回す。
 先程の扉とは違って、すんなりと開いた。
「……それは貴方お得意の冗句ですか……?」
 扉の先。
 まるでリビングのようなリビングが広がっている。
 右手にキッチン。
 左手にテレビ。
 そこそこ広い。
 少なくとも一般的な家庭のような光景が広がっている。
 雑居ビルには似合わぬ、一般家庭のような光景。
 オフィスであるということを全力で忘れさせにくる。
「いいえ、ただの独り言ですよ、気にしないでください。僕の病気ですから。どーも、美彌湖さん」
「……『みゃこ』とお呼びくださいと言っているはずですが……庵さんはいつもそうやって女性をからかおうとします……とても悪い癖ですね……女性には優しくした方が何かと便利ですよ……私はそうではありませんが、世には恐ろしい女性もいますからね……」
「別にからかおうだなんて。思ってませんよ」
「……冗句ですけど、ですか……」
 読まれている。
 やはり上司には敵いそうにない。
 僕の場合敵う相手の方が少ないのだが。
 キッチンのテーブルに座った、一人の女性は美彌湖さん、じゃなくて、みゃこさん。姓は知らない。聞いたこともない。
 雑居ビルの主はテーブルとセットになった椅子の一つに腰掛けていた。ノートパソコンを開き、左側に小さく湯気の揺らぐ珈琲杯を控えさせている。
 ラフウェーブの黒髪。黒いワンピースに黒のオーバーニーソックス。二の腕近くまで覆う黒のドレスグローブ。
 黒猫のように真っ黒だ。黒尽くめではあるけど、観夕と違って露出が多いのが特徴かな。白い肌を惜し気もなく晒しているので、たまに目のやり場に困る。十代の少年には冗句抜きで辛い。
 しかし、どうしてこうも黒ばかり身につける女性が多いのか。僕だって黒が好きだというのに、黒い連中が多いから控えざるを得ないんだぞ。
 黒髪って時点で被ってるのに。もっとこう、ジャパニメーション的に極彩色乱舞って感じでもいいんだぞ。
 そうなると目に痛くて困りそうだ。
 みんな《サナトリウム》の人間だから、仕方ないのかね。
「というか、起きていたのですか」
「……夜行性ですからね……」
 みゃこさんがもぞもぞとマフラーの中で口を動かした。
 そう、マフラーである。
 四月であるというのに、それどころか室内であるというのに、みゃこさんは黒のマフラーを着用していた。しかも首回りだけではなく、口周りを覆うように。そのせいで、彼女の発する言葉は聴き取りづらい。もともと小さな声で喋っているせいもあるだろう。
 だから彼女の言葉を聴くときは、できるだけ静かにしていなければならない。
 涼しそうな露出とマフラー。自発的に季節感を狂わせているとしか思えない彼女のファッションは、彼女の体質の問題なんだとか。
 真夏になってもこの格好だもんな。
「夜行性とかいう問題なのだろうか」
「……冗句です……」
 十八番を盗まれてしまった。
 みゃこさんはノートパソコンを閉じながら言った。黒の手で真向かいの椅子を指示してくる。
 座れ、と。
 上司への報告の時間か。
 頭の中で本日の出来事を整理整頓しながら、椅子に腰かけた。
 みゃこさんの真正面。
 自然と彼女を見据えることになるが、みゃこさんは視線を下げたまま。僕がこの部屋に這入って来た時から、ずっと。
 普段からこんなものだ。どういう理由があってか、彼女は視線を常に下向きにしていた。
 机と見つめあったままみゃこさんはこちらに問うてくる。
「……どうです……?」
「どう、と言いましても。とりあえずまあ、やっぱり鷹巣さんの《千里眼》ってすごいなぁって思いました。美術館が妙な場所にあって、思いの外時間を喰ったので、直接対峙はできませんでしたけど。でもほら、色々と持ち帰るものはありました。肉とか骨とか血液とか、手掛かりらしいもの、とか。手掛かりの方はなんと説明したものかちょっと悩みますけどね」
 鷹巣遠見。全てを見通すサーチシステム。《サナトリウム》のレーダー。
 使用条件が厳しいのが難点だけれど、きちんと条件を絞り込めば有用な女性。
「……ご苦労様でした……鞄は私が預かりましょう、その辺に置いておいてください……朝方に鬱子さんが受け取りにくるはずですから……」
「あれ? 鬱子さんが?」
 六分儀鬱子さん。
 《サナトリウム》のエージェント。
 面識のある、とてもかっこいい女性だ。かなり好みのタイプのお姉さんなのだけれどどうにも僕は嫌われているようなので、残念無念。
 人生そんなものだろう。好みのタイプの異性から好かれるわけがない。まあ鬱子さんはどんな人間に対してもそういうところがあるけど。
 えーっと。僕の人生論とか鬱子さんの性格はどうでもいいんだ。そうじゃなくて。
 頭を元に戻した。
「肉とか骨とか、そういうものはまあ鬱子さんというか、本部が担当するんでしょうけど、血液は? 幽霧さんはどうしたのです?」
「……ロアクさんも本部に出張しているのです……ちょっと他に『面倒事』が起きているようで……」
「成程」
 幽霧ロアク。ゆうぎり、ろあく。
 『血液のスペシャリスト』。
 もちろんこの奇人変人百鬼夜行魑魅魍魎も恐れる変態どもが跳梁跋扈の《サナトリウム》に在って、『まともな意味でのスペシャリスト』なわけがないのだけれど、それはまた別のお話。次に彼と遭遇したときにでも。
 鬱子さんも鷹巣さんもね。
「……で、どうなのです……」
「あー、えー、まあ、まことに遺憾なことなのですけど。ほぼ間違いなく《異常者》ですね、はい」
「……間違いなく……」
「ええ、狂いなく」
「……そうですか……」
 僕は詳しく説明しなかった。
 単純に面倒だということもあるけど、僕が判断するまでもなく、みゃこさんにはそれなりの情報があるはずだ。今夜僕らが派遣されたというのは、そういうこと。
 だから僕が《異常者》であると思うのなら、彼女の考えと擦り合わされて判断される。
 みゃこさんは考える素振りを続けていた。
 判断材料が多いのか、あるいは少ないのか。
 考え込んでいても会話していても、絶対に目線を合わせてこない。常にどこか下の方に視線を向けている。
 人と視線を交錯させることが苦手な僕は大いに助かっているからいいか。
 本当に。
 視線を交わすのは苦手だ。
 代わりに言葉を交わすのは苦手ではない。得意ってほどでもないけれど。
 他人の視線というものは基本的に無遠慮だ。その目で誰かを見つめて凌辱する。しかも隠密性が高い。
 視線とは暴力であり、圧力である。
 なんて、コミュニケーションに障害がある人間みたいなこと考えてみたりして。
 とにかく、僕は人と目を合わせることが苦手だということを声高に言いたいのだ。声高に言ってどうする。どうもしないけど。そうか。
 伏見山観夕などは、臆することなく真っ直ぐに他人の顔を見つめてくる。
 大変苦手な視線の一つだ。
 彼女が他人に興味を抱くことはさほど多いことではないけれど、言葉を交わす時は必ずと言っていいほど真っ直ぐだ。猫背なところがひとつとしてない。
 《殺人鬼》の異常を持ち合わせていて絶対に歪んでいるはずなのに、折れるところがない。むしろ、歪んでいるからこそ、なのかもしれない。
 歪みすぎて真っ直ぐか。
 うーむ、それはそれで。
 とにかく。
 人生そのものが猫背な僕としては、その視線は少し、眩しいものがある。
 みゃこさんが思索に耽り、僕が思考を持て余しているところに、かちゃり、と軽い音。
 扉が開く音だった。
 室内に侵入してきたのは――噂をすればなんとやら。観夕だった。
 実際には胸中での独白なので、噂ですらないんだけど。
 黒のジャージ姿に桃色のスリッパ履きの彼女は、こちらに一瞥もくれずにすたすたと歩く。腰まで届きそうな黒髪が尻尾のようについてくる。
 尻尾のように。
 そう、まさにポニーテイルなのだ。
 これまた黒いゴムバンドで束ねられている。
 もうちょっと鮮やかな色を使えばお洒落にも見えるのに。素材は悪くないのに勿体ないことだ。直接言うと殴られるので口に出さないように気を付けておかねばならない。
 観夕はキッチンの中に入っていき、冷蔵庫の扉を開いた。
 扉か。
 こう考えてみると、僕らの生活は扉だらけだ。
 僕の人生に限らず、多くの人間の社会で。
 どこもかしこも扉を作り、扉の中に空間を作る。
 空間は部屋のように大きくても、冷蔵庫のように小さくてもいい。
 開いて閉じる。
 開いて閉じる。
 基本的には開くことばかりではなく、閉じることが目的で。
 ほとんどの場合、扉は閉じられている。
 閉じている。
 空間が閉じている。
 何かを閉じこめるというよりも、中に何かが入ってこないようにと。
 たとえばそれは、冷蔵庫のように暖気を取り入れないようにとか。
 たとえばそれは、オフィスのように部外者が入ってこないようにとか。
 心に他者が入ってこないようにとか。
 心にだって扉はあるのだ。
 扉はどこにでも、ある。
 などと無駄に長い冗句を考えついたのだが、いまいち使いどころに困るね。いつか使う時があるだろうか。
 いや、ないか。
 だから忘れるに限る。行き先不明の思考などというものは。
 閉じられた空間――冷蔵庫から観夕が取り出したのは、小さなカップに収まった和菓子。
 冷水にひたされた、水饅頭。
 ていうかそれ。
 僕の持ってきたやつじゃねーか。
「隠居庵」
「なんでございましょう」
 真っ直ぐに僕の方を見ていなかった観夕は、真っ直ぐに僕を見据えた。
 無表情ではあるが、少しだけ表情の変化が見られる。
 それは眉と眉の間に若干の皺が現れるという、非常に歓迎しがたい変化ではあったけれど。
 平坦な声の中にも、不満げな色が含有されている。混ざって混沌色。
「もうない」
「……ああ」
 買って来ておけ、とお嬢様は仰っている。
 お嬢さんは本当に我儘だなぁと思うが、声に出してはならない。僕は思っていることをついつい口に出してしまいがちなので、それは気を付けなければならない。
 硝子細工のように気を付けて触らなければならない。落としてしまったら割れるのは観夕ではなく僕なのだ。
 こう見えて――いや、どう見えてだ? まあいい、とにかく――観夕は甘いものに目がない。それは洋菓子でも和菓子でも同じことで、甘ければ甘い方がいいようなのだ。
 僕なんかは、しつこい甘さというのはあまり得意ではなく、どちらかというと和菓子や餡のようなしっとりとした控えめな甘さが好きなのだけれど。
 まあ、彼女が気に入っている水饅頭は、甘味よりも食感が重要なのだろう。
「また買ってくるよ。近いうちに、きっと」
「そうして」
 水饅頭のカップと爪楊枝を持ったまますたすたと自室へ戻っていった。
 うーむ。
 あのお店は誰にも教えていないし、教えるつもりもないので僕が買ってくるのは吝かではないのだけれど。
 自腹なんだよなあ。
 せめて自分の食べる分くらいは料金を支払ってくれてもいいと思うんだけど。でもそれを言い出したら痛い目に遭いそうで怖いので、言い出せない臆病な僕なのであった。
 チキンハート隠居庵の名は伊達ではない。
 残念なことに冗句じゃない。
 いつかは伊達にしたいものだ。
「……庵さん……」
「はい、なんでしょう」
 右へと向けていた視線を、正面のみゃこさんに戻した。
 相変わらず机と一人睨めっこを続けている彼女は、ぼそぼそと言葉を紡ぐ。
「……調査、しましょう……」
「そうなると思っていました」
「……《破壊魔》を見つけて、排除しましょう……」
 《破壊魔》と判断されたか。
 その名前には心当たりがなくもなくもなくもない。何度か目にしたこともある。
 それは必ずしも同じ相手ではない。《異常者》で似たような異常を持つことは、決して珍しいことではないからだ。
 だからと言って恒常的にあるというわけではないが、「ある」か「ないか」であるなら、圧倒的に「ある」。
 今は便宜的に《破壊魔》と呼称することになったようだが、実際は違ったりすることもあるだろう。
 まあ、とりあえずは。
 上司が判断を下した。
 部下としては従うしかない。
 この《サナトリウム》第二支部の支部長を務めるみゃこさんの命令には、基本的には逆らえない。そもそも逆らう気なんてないけど。
 だって僕もそこで働いているのだし。これでお金をもらっているのだし。
 それ以外に彼ら彼女らに従う理由はないけれど、よっぽどのことがなければ断る理由なんてない。
 お金をもらってるから。
 うーん、嘘か冗句か自分でもいまいちはっきりとしない。嘘かもしれないし、冗句かもしれない。
 ま、考えて面倒だと思うことはぜーんぶ未来の自分に任せてしまえばいいのだ。
 そうやって先送りにしてきた結果がこの僕だ。
 ルーチンワーク。それが最も僕に近い、と思う。ここから先の思考は製品版でお楽しみください。僕はこれ以上考えるつもりがないしお金を払うつもりがないので中断するしかない。
 みゃこさんがドレスグローブに包まれた手で、ノートパソコンを開いた。何かしらの連絡を連絡するつもりなのだろう。
 キーをタイプしながら口を開いた(マフラーで見えないけど)。
「……もう夜も遅いですし……というか朝なんですけど……庵さんは休んでください……」
 休もう、とは思っているのだけれど。
 どうにも瞼が重たくなってくれない。それでも生き物として睡眠というものは必要不可欠なので、横になって無理やり瞼を閉じることくらいは必要だろう。
「そのつもりでした。明日は学校もありますしね。あー、っというか。こんな時間に眠ってしまったら、明日――じゃなくて、今朝はちゃんと起きられるかちょっと心配ですね。きちんと目覚まし時計をかけるとしましょう」
「……がんばってください……」
 無慈悲だった。
 みゃこさん自身は就寝する様子が見られないのは何なのだろう。
 別にこの仕事は夜行性である必要はない。
 普通に夜眠りに就くのを何度も見ているし。
「今夜は夜更かしですか?」
「……私ももう寝ますよ……」
「ああ、では、仕事はもう終わったのですか」
「……ええ、今終わりました……」
「……もしかして、僕らのこと待ってました?」
 浮かんできた疑問をそのまま口から垂れ流す。
「……庵さんのことが心配でしたからね……」
 みゃこさんは。
 笑った。
 微笑みを浮かべた。
 目がやわらかく笑った。
 視線は相変わらず下に向けていたけれど。
 美人の浮かべる笑みは、直視するのが難しかった。
 だけど。
 他人に顔をじろじろ見られるのは嫌なのに。
 僕がじろじろと見てしまう。
 視線を外すのも難しかった。
 あまりにも魅力的だったから。
 無理やり下に向けた。
 机と睨めっこ。あっぷっぷー。
 なんつって。
「……冗句です……」
 言葉に釣られて視線を戻すと、普段の平坦な表情に戻っていた。
 からかわれていたのだろうか。
 …………。
「美人の考えることは、よくわからない」
「……台詞と心中の言葉が逆になってますよ……」
「おっと」
 やはりこの人には敵わないなぁと。
 冗句ではなくそう思い。
 月並みの挨拶を吐き出して僕は部屋を辞した。
 廊下を歩く。
 五階の部屋の一つは観夕の私室。
 もう一つはみゃこさんの私室。
 六階にロアクさんの私室と、空き部屋。
 空き部屋は主に仮眠室として使われている。
 他の階は――まあいわゆる他の『従業員』によって使用されているのだけれど、それもまた今度で。
 一旦靴を履き替えて階段を登らなきゃあ。これだから第二支部のビルディングはちょっと面倒くさい。
 仮眠室で眠って、朝七時くらいに起きて学校に向かえば間に合うだろうか。
 何と言っても僕は高校生の身であるがゆえ。
 学校というものに価値を見出せていないが、籍を置いているのならあまり欠席するわけにもいかないだろう。
 眠れて三時間か。
 眠れるかどうかもいまいち自信がないし、眠れたとしても次は起きられるかが不安だ。
 不安だらけの人生。
 もっと平穏であれ。
「んあ?」
 玄関に出ようと思っていたのだが、左に違和感。
 扉が開いている。
 観夕の私室。
 いつもは鍵までかけているというのに。
 ちょっとからかってやろうと思ったが、命を懸ける必要があるのかと葛藤があった。
 妥協案。
 考え、思いつく。
 扉を閉める間際に冗句をこぼして逃げよう。
「観夕、きみがこんな――」
 その先は何と言わんとしていたのか、忘れてしまった。
 つい。
 言葉が止まった。
 室内の彼女は。
 彼女は。
 死んでいた。
 なんてことはなくて。
 いやいや嘘だからね。冗句だから。
 ちょっとした混乱で言葉を取り違えそうになった、が真実。
 彼女は眠っていたのだ。
 安らかな寝顔を晒していた。
 無防備に。
 水饅頭の入っていたカップと爪楊枝が、ベッドの傍に置かれている。
 久しぶりに彼女の私室を覗いたが、相も変わらず殺風景な部屋だった。
 ベッドと机と椅子とクローゼットの他にはなにもない。それらだってもともとこの部屋にあったものだし、仮眠室にもあるものだ。
 机の上に置かれた数種類の刃物や、椅子に適当に掛けられたコートが彼女の部屋であることを告げているのみ。
 調度にひとかけらも彼女らしさがないのが彼女らしい。
 前に観夕の部屋を覗いたときは、スローイングナイフが飛んできたのだったか。
 背後のみゃこさんの部屋の扉にはその痕が今でも残っている。大変申し訳ない。いやなぜ僕が罪悪感を抱かねばならぬのだ。
 そんな狂暴が姿を取ったような観夕であるが、驚くべき事に安らかな寝顔を見せている。
「徒歩二時間は流石に疲れたのかね」
 そんな素振りは全く見せなかったけれど。内心というものはわからないものだ。
 特に観夕みたいに難儀な性格と性質をしている女の子なら、尚更なのかもしれない。
 見なかったことにしてそっと扉を閉めようと思い。
 頭に光。
 違う、閃きがあった。
「…………」
 一歩。
 部屋に足を踏み入れた。
 あー。
 良くない、良くないぞ、これは。
 非常に良くない。
 良くなさすぎて良くないぞ。
 突然目を覚ました観夕が僕に刃物を突き付ける様と、そのまま容赦なく肉を裂く図を否が応にも想像させられ、背筋が凍る。
 だけど、僕は歩みを止められない。
 抜き足、差し足。
 息を忍ばせ。
 ベッドの前に立った僕は、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。スマートフォン。別に僕は興味ないから今まで通りの折り畳みの奴でいいと言ったのだけれど、何かと便利だからとみゃこさんに無理やり契約させられてしまった。
 おかげで毎月機種代が絶妙に高い。前のままなら三千円もしなかったのに……。
 ともあれ。
 僕は手慣れぬタッチ操作とスワイプ操作で携帯カメラを起動した。
 ベッドに備え付けられた暖色のサイドライトは点っているので、フラッシュは必要ないだろう。用心してオフにする。
 そう、気付かれてはならない。フラッシュなど以ての外だ。
 彼女の起床はイコール僕の死を意味する。
 彼女の気性を理解していればこそ。
 全ては慎重に。音すら立ててはならぬ。この娘はちょっとした物音ですら聴き分ける獣のような聴力の持ち主なのは、今夜の行動でもわかっているのだから。
 観夕の寝顔にピントが合うのを待って、決定ボタンというシャッターを下ろした。
 よっし、あとはゆっくりと出てい――――
 ――――かしゃっ。
「…………」
 あっ、という声が漏れた。
 気がするが実際どうなのかわからない。判断できる状況になかった。
 僕は空中を飛んでいた。
 すげえ。道具なんかなくても人は空を飛べるんだ。
 一瞬の浮遊感と顎の痛み。
 次の瞬間には背中から床に落ちていた。
 どうやら観夕に蹴りあげられたようだった。
 そういえば盗撮防止のためにシャッター音は消せない上に最大音量に設定されているのでしたね。普段からあまり活用していないので、失念していた。
「何してるの」
 きっ。
 と、そんな効果音が似合いそうな観夕の表情。
 平坦から今は明らかな敵意へとシフトしている。表情の変化は乏しいけれど、視線に含有される成分には、明らかな害意が見て取れる。
 あー、いけません、これはいけませんよ。非常にいけません。
 とても危険で危篤な状態です。
 危篤なのは僕だが。
 どこから取り出したのか、ナイフを手にしている。逆手持ち。
 否が応にも。
 目が合う両者。
 目の合う、観夕と僕。
 視線と視点が交錯する。
 目つきは鋭く、僕を射抜きそうなほどに。
 というか、もう既に射抜かれて殺されてます、僕。お前はメデューサか。助けてペルセウス。人の声に神々は応えない。これだから神話は嫌いなんだ。こんなときにも冗句が止まらない。
 余裕綽々に見えるだろうけどこれでも心中はいっぱいいっぱいなんじゃよ。ほっほっほ。
 動けない。
「とりあえず」
「はい」強制的に返事を引きだされる僕。
「殺す」
 やめんか、と言う間もなく銀色が揺れた。
 えっ、何。
 目の前に銀色。
 うわああおおお、あぶねええ。
 何とか観夕の腕を掴んで静止させることに成功したらしい。偶然の幸運に心から感謝したい。神よ、感謝します。ここから先も助けていただければ。
 ぐぐぐ、とナイフが揺れる。覆いかぶさられて体重を掛けられていることもあって、彼女の力の方が強い。驚くべきスピードで切っ先が喉へ喉へと進む。
 最早凶器と化した眼光で、僕の顔を見据えている。
 瞳が氷点下まで冷えている。
 あ、やばい、これ、やばいって。
「何をした」
「順序が逆じゃないですかね!」
 まず最初にその質問をしろ! そして僕から刃をどけろ!
「答えと遺言を一秒だけ受け付ける。終了。死刑執行」
 うおおおおおお、今まで本気じゃなかったというのか。
 一気に力が強まり、ナイフの刃先が僕の首の皮に触れる。
 と、いうか。
 この娘。
 僕が何をしたのか。
 気づいてない。
 気づいてないのに。
 殺そうとしてる。
 しかも割と本気で。
 いやしかし。
 気づいていない。こいつ、寝顔を盗られたことに気づいていない。
 よし。
 よくないけど。
「待ってくれ僕はきみの開け放した扉を閉めるついでに水饅頭のカップを回収して捨てようとしていたんだその親切心を無下にするというのかきみは確かに無断で部屋に入ったのは僕が悪かったと思う謝るよごめんなさいでもきみだってドアを開きっぱなしにしていただろうだからこう」
 一気にまくしたてる。つぷぷ、とナイフが皮を突き破ってるのがわかる。
 駄目だってそれ以上やったら僕の命が消えちゃう。儚く消えちゃう。
「許してくれ」
「…………」
 力の進行が止まる。
 止まっただけで、引いてはくれない。
 息もできない。
 唾も呑みこめない。
 喉を動かしたら更に深く刺さりそうで。
「今度たくさん和菓子買ってくるから」
「本当?」
 それが決め手だったようだ。
「ああ、嘘は言わない方針」
 冗句は言うけど。
 ナイフが退いていく。
 観夕も僕から離れた。
「……ありがとう」
 僕は礼を述べた。
 殺されそうになった相手に礼を言うのは何となく癪に障るような障らないようなものがあったが、無視することにした。
 ハンカチを取り出し、首に当てる。
「出て行って」
 素直に従った。
 というか、従う以外の方法がない。
 扉の外まで歩く。
 観夕の視線が背中に鋭く突き刺さる。別に許してくれたわけではないようだ。
 交換条件か。
 振り返らずに、声だけ残す。
 返事は期待していない。
 きっと黙ったままだろう。
「おやすみ、観夕」
 僕は。
 保存ボタンを押した。
 音はなかった。





 翌日午前十時過ぎ。
 僕は病院前にいた。
 今日は太陽が恥ずかしがらずに雲から顔を覗かせているので、少し暖かい。
 最近は四月だというのに妙に寒々としていたからなぁ。週間予報によると、また明日から少し寒くなるらしいけど。
 第二支部からバスに揺られて四十分ほど。
 不夜市の中心街から外れた、東区の人工島。
 海岸の沖を埋め立てて造られた島に、地上四十階建の白い超高層ビルが聳え立っている。しかも三つ。トリプルタワー。ところどころで連絡通路らしきものが三つの塔を繋いでいる。
 いつ見ても圧巻。
 宿世総合病院。
 まさに白い巨塔って感じ。
 バベルの塔かもしれないけど。
 病院の形態に特に決まりはないとはいえ、ここまで高くする必要はないだろう、とよく思っていたものだ。超高層にするほどに、金がかかっていくものだし、なにより不便になっていく。
 まあ、そんな心配が無用なのは、流石の僕もわかっている。今ではね。
 広いエントランス。硝子の自動扉を抜けて中へと入っていく。
 正面に受付がある。
 受付専門のスタッフが常駐している。まるで企業の玄関みたいだ。
 その奥には外来の診察を待っている客たちが、思い思いの椅子に腰かけていた。本来なら最初に受付に向かって、それから奥に向かうのだけれど。
 受付には寄らず、右手側へと向かった。
 警備員が詰めている、空港のセキュリティゲートのような関係者用入口。
 立っている守衛さんと、強化ガラスの向こうにいる一人にそれぞれ財布から取り出したカードを見せて、通る。
 そうでなくても何度も訪れているし、カードがなくても恐らく顔パスできるだろうな。僕がここにいるということは。
 まあ正式な手続きを踏むに越したことはない。あとで面倒なことを訊ねられても面倒だ。
 当たり前か。
 関係者専用のエレベーターの前に立ち、ボタンを押した。
 ほとんど時間を空けず、音もなく扉が開いた。
 中に入るとふわっとした感触が足裏に伝わる。赤い、見るからに高級そうな絨毯。
 エレベーターの内部も、どこか高貴なデザインだ。落ち着きを連想させる淡い橙色に、華美すぎない程度の装飾。狭さを感じさせず、かつ広すぎない空間。
 さりげなさとか、侘び寂びってのはこういうのを言うのかな。
 中に入ると、ボタンを押す前に扉が閉まった。
 まあもともとボタンなんてないんだけど。
 普通のエレベーターならボタンが存在しているであろう位置には、液晶タッチパネルが嵌められている。反対側と、両側面にも一つずつ。
「ご利用の階をお申し付けください」
 人間的ではないが、どこまでも人間に近い電子合成された女性の声が天から響く。
 一見するだけではわからないが、どこかにスピーカーがあるのだ。
 電子のエレベーターガールが答えを待っている。
「四十階までお願いします」
 機械だというのに敬語を使ってしまう僕。
 なんだか男らしくない。
 というか、単純に情けない。
「隠居庵様。お手数ですが、指紋認証と暗証番号のご入力をお願いいたします」
 さらりと気づかせぬように行っているのだろうけど、声紋認証は通ったようだ。ということは、顔も。
 まあ『関係者』の顔を全て精確に記憶している守衛さんたちの前を通ることができたのだから、既に一個パスしてるようなものだけど。
 当たり前だ。
 僕本人なのだから。
 風邪で喉が潰れていたとしても、『彼女』なら精確に読み取って認証するだろう。金はかけられているはずだ。
 タッチパネルに一秒ほど人差し指を当てる。
 するとパソコンのキーボードで言うところのテンキーのような画面が現れる。
 テンキーの上には四文字の空欄。
「…………」
 アスタリスクを四回、ではなく十二回きっちりとタッチする。
 すると画面が暗転し、今度はキーボードのような画面と、十二個の空白が現れた。
 これが本命。
 人差し指で、暗記しているパスワードを入力する。アルファベットと数字の組み合わせ。
 ここまでする必要があるのだろうか、と毎回思うのだけれど、あるんだよな。
 この病院なら、網膜スキャンも、とか言って取り付けそうで怖い。そのうち本当に実装されそうだ。
 入力を終え、エンターキーに当たる部分をタッチ。
「ありがとうございます。只今より移動を開始いたします。少々お待ち下さい」
「どうも」
 昇降機は動き出した。全く揺れがないので、重力の変化で移動を感じ取った。
 窓がなく殺風景であることを誤魔化すためか、煩くない程度に穏やかなクラシック音楽が流れている。
 これ、クラシック音楽が嫌いな人だったらどうするんだろう。『エレベーターガール』に言えば変えてもらえるんだろうか。
 ロックとかクラブミュージックとか。
 僕はあんまり音楽に明るくないのであった。
 うーむ、ちょっと興味が湧いてきたぞ。試してみようか。
 いやしかし。このエレベーターに監視カメラが設置されている可能性もなきにしもあらず、というかここまでセキュリティにこだわっているのだからその可能性は大いにあり得る。
 もしこれで質問して答えてくれなかったりそんなことは出来ませんよと言われてしまったら、なんというか、その、恥ずかしい思いをする、だろう。
 ううむ、どうしようか。
 しかしだな……。
「たいへんお待たせいたしました。四十階でございます」
 そんなことを考えている間に目的のフロアへ到達していた。
 扉が開く。
「…………」
 エレベーターが僕が降りるのを待っている。
 こう待たれると早く降りろと言わんばかりだ。昇降機自体は他にもあるので、別段僕が早く降りてしまう必要はないのだけれど。センサーにより人が降りるまで扉が閉まることはないし。
 苦し紛れに頭を掻き、外に出た。
 僕はエレベーターに長く居座ることのできないようだ。
 赤い、しかし落ち着いた絨毯がずいーっと奥まで広がっている。壁は白塗り。照明は暖色。一般病棟の蛍光灯の様な不躾なものではなく、ランプの様な装飾に包まれている。それでいて明るい。
 うーん、まるで高級ホテルだ。時折置かれている花瓶や壺、白い枠にはめられた硝子窓なんかを観ていると、ここが病院の入院棟だなんて思えない。
 廊下は広いが、ここからだとさほど長くないように見える。少し先に曲がり角があるからだ。
 僕は歩く。白い壁に囲まれた廊下を。
 とりあえずの目標は曲がり角。
 スニーカーであることが申し訳なく思えるくらい柔らかで沈み込む絨毯。一生かかっても買えない気がする。
 たぶん僕は、この絨毯の上であれば安眠することができるだろう。
 ……我ながらなかなか情けない想像だ。
 程なく曲がり角に到着。
 右側に少し折れると、受付――のようなものがあった。他には何もない。右側も左側も窓だけがぽつんとはめ込まれている。
 明らかな不自然。外見から考えると、もっと奥行きがあるはずだと、わかる。
 唯一左側に「STAFF ONLY」と書かれた重たそうな扉があるが、あれは開かないことがわかっているし、僕が用事があるのはそこではない。
 受付の強化硝子の向こうに、背広を着た男性がいた。
 硝子の向こう側から、マイクとスピーカーを介して話しかけてくる。
 どれだけ性能の良いものを使っているのか、人工物を介しているとは思えないほど自然な声だった。
「隠居庵さん。お待ちしておりました」
「どうも」
 いつもこの反応を見る度に思うのだけれど。
 たぶんエレベーターでの声とか、絶対、この人が聴いてるし見てるよね……。
 僕は彼の名前を知らない(教えてくれない)ので、受付さんとだけ呼んでいる。もちろんそんな失礼な呼び方を、本人の目の前できるわけもなく、今はただ胸中で独白するのみだ。
「お見舞いですか」
「まあ、そんなところです」
 これもいつもと変わらぬ会話。もはやルーチンワーク。
 お見舞い。
 お見舞いか。冗句みたいだ。
 背広を着ていても、決して鍛錬を怠っていないと主張してくる引き締まった肉体を動かし、彼は手元のコンピュータを操作する。
 三十代くらいで、落ち着いた顔つきをしているけれど、これで彼がサングラスでも掛けていたらメン・イン・ブラックだな、とどうでもいいことを思った。
「十五秒後に開きます。私は中を見ていませんので、くれぐれもお気をつけて」
「自己責任で、ですね」と僕は答えた。
 冗句みたいな台詞だけど、それも本当に契約のうちだから笑えない。
「その通り」
 受付さんは、ふ、と笑みを浮かべた。きっと営業スマイルだ。いつも同じ笑顔だからわかる。
 受付から右側に数歩移動。確かこの辺だったよな。
 自分の記憶が頼りない。
 心中で十五秒数え終わると、ほとんど同時に壁が動いた。
 正確には開いた、とすべきなのだろうけど、ビジュアル的にはどう見ても壁がずずずっ、とずれているようにしか見えない。まるで魔法の壁だ。開けゴマ、ってね。
 中にはこれまでと同じような廊下が広がっているのが見える。
 この『扉』はすぐに閉まることがわかっている。さっと中に踏み込んだ。
 ややあって背後の壁が閉じられた。
「ふう」
 ここにくるまででもずいぶんと疲れた。もう真っ直ぐ帰って眠りたいくらいだ。冗句かもしれないけど、本音かもしれない。
 けれど、見舞いにきたのだから、帰るわけにも行かず。
 だいたい学校もさぼってしまったのだから、帰るわけにも行かない。
 というかそもそも帰るわけにも行かないのだ。
 僕がここにいるということは、そう望まれているのだから。
 さて、やっと目的の入院棟に到着したわけだが。
 ――入院棟、とは言っても。
 このフロアは一人のためのもの、なんだよな。
 んで僕がそのフロアにいるってことは、だ。
 その主が僕の目的であり、僕が目的でもある。
 目の前には木製の扉。
 まるで普通の家のような、玄関扉。
 まるで、というよりも、まさしくここは主のための玄関ではあるのだけれど。
 赤絨毯と白い壁に囲まれて、異様さが満ち満ちているその扉を、僕は引いた。
 中は玄関扉を裏切らず、同様に広めの玄関。外からは考えられないほどに天井が高い。豪邸っぽい感じなのに、あまり悪趣味な感じがしないのは何故だろう。
 単純に訪れ慣れているせいかもしれない。
 悪趣味っぽい感じはしないけど、ちょっと息苦しい感じはする。原因はわかっている。
 僕は靴を脱いであがった。ちょっとした段差に乗り上げる。
 普段置かれている場所にスリッパはない。あいつめ、また散らかしたな。
 靴下のまま歩く。
「んーっと」
 右と左と手前と奥に、と。
 ルートはだいたい四つある。手前の階段は……後回しでいいだろう。とりあえずこのフロア(こう表現するのがだいぶ辛い。理由は各自でお察しください)から探すか。
 時計回りかその逆かを決める程度の問題でしかない。
 今日は腕時計を左手に着けているから、右から行こうか。大体左に着けているけど、たまに右に着けたりする。ただの気まぐれ。
 靴下にフローリングという滑りそうな組み合わせで右手を歩き、一枚の襖を引く。
 畳が十二畳ほど広がっている。和室だ。
 中央には足の低い机。太い木をそのまま縦に割りました、といった感じの重たそうで、趣のあるもの。
 一応机の下も見てみるが、客間には誰もいなかった。
 ふむ。
 入ってきたものとは違う、側面の襖を引く。
 次はリビングのような空間。柔らかそうなソファやテーブル。サイドボードにはグラスなんかが飾ってある。普通の家ならここから庭に出られたりしそうなものだけれど、ここは病院であるし、地上四十階である。
 この『家』には、窓という窓がない。あるはずもない。
 息苦しさの原因は、それだ。
 まあ空を拝みたければ上にいけばいい。
 扉から廊下に出る。
 あと三つほど部屋がある。倉庫やらトイレやら風呂やらを含めず。
 書斎という名の勉強部屋か、遊び部屋か寝室か。
 何となく遊んでいるような気がして、遊び部屋に向かうことにした。
 リビングと廊下を挟んで隣合っているから近いというのもある。
 L字型レバーを下ろして、押す。
「…………」
 電気は灯っているが。
 玩具やゲームの類以外は何もなし。
 しかし、遊び部屋ですら僕の住んでいる部屋全体より広いとは。
 全く羨ましい奴だ。
 実はぜんぜん羨ましくなんかないけどね。
 ここにいないとなると、寝室で眠っているのだろうか。勉強をしているとも思えない。あいつは自由奔放すぎるから。
 十時を過ぎているのに眠っているとは、いい御身分だ。
 高校をサボタージュしている僕が言えたことではないし、あいつの身分は実際高いのだけれど。
 んじゃあまあ、寝室に向かいますか。全くそれなら腕時計をしている左から回れば良かった。こういうときに限って自分の運はめちゃくちゃに悪いんだから。
 と。
 思って。
 歩きだそうとしていたのだが。
 とてとてとてとて。
 そんな感じの軽い音。
 足音。
 考えて振り向く間もなく。
 何かが僕の体にぶつかってきた。
 背後から。
 いや、ぶつかってきたと表するには少し難しいものがある。
 事実、僕は大した衝撃を受けていない。転ばせようという意図を感じさせる体当たりではあったけれども、あまりにも軽すぎる。
 そう、あまりにも体重がなさすぎるのだ。
 よろめくことすらできなかった。
「いをりん! 覚悟!」
「……言うの遅くないか、現」
「てへ」
 僕の腰にまとわりつく者。
 少女、と形容するしかないほどに小さな女の子だった。
 ほとんど白に近い白金色の髪に、妙に白い肌。薄茶の瞳は大きく、鼻は小さい。美しい花弁のような唇に、子供みたいな矮躯に、桃色のパジャマを纏っている。
 まさしく天真爛漫という雰囲気をまとい、無邪気をそのまま抽出して人物の型に流し込んだような無邪気。
「お帰りなさい、いをりん!」
 向き直った僕の腹と胸の中間くらいに、自分の顔を押しつけて、腕を背中に回してくる。
 抱擁、というよりも。
 抱き締められている。
 離れないように。
 支配的に。
「……ただいま」
 その言葉に何と返すか迷っていたけれど。
 まあ、彼女がそう望むのなら。
 そうしてやるべきだろう。
 僕はいまいち背の合わない彼女を抱き締め返したのだった。ううむ、こうも身長に差があると、難しい。添い寝している時ならもっと簡単だったりする。
 冗句みたいな話だけれど、ノンフィクション。事実は小説より奇なり。ストレンジャー・ザン・フィクション。
 宿世現。
 支配者。
 この『家』の、あるじ。





「ねーいをりーん」
「ん?」
「それ、どしたのー?」
「どれのことだ、現」
「ばんそこ」
 ああ。
 首に貼り付けた絆創膏。
 ぶにぶにと指で押してくる。
 これは昨夜――というよりも今朝――不慮の事故により抉られたものだ。
 それをぐにぐにと触られる。無遠慮に。
 正直、かなり痛い。
「猫に噛まれてね……」
 冗句だが嘘ではない。
「ねこ? ねこちゃん飼ってるの?」
「いや、野良猫だよ」
 あれはね。
 誰かに飼われるような奴じゃないだろう。
 まだぶにゅぶにゅと怪我を触られる。痕が残ったらどうしてくれる。
 背丈が圧倒的に足りていない現がどうして僕の首を触ることができるのかというと。
 僕は後ろから彼女を抱き抱えているわけで。
 ここは寝室なわけで。
 お昼寝しようということで。
 寝台の上である。
 触れ合い強化週間なのだ。冗句。
「のらねこちゃんにくび噛まれちゃうんだー。いをりんったらおばかさーん」
「うん、まあ、馬鹿なことをしたよ。でもおばかさんはいただけないな」
 あれはあれできちんと考えあってのことなのだけど。
 手を掴んでやめさせ、前を向かせて頭をぐりぐりぐり。
「あうあうあう」
 腕をじたばたさせる現。
 ぽこすかと拳が僕の顔などに命中するが、子供じみた体つきと適当に振り上げ振り下げられているのでまったく体重が乗っていない。痛くない。
 そもそも体重を乗せていたとしても、彼女は嘘のように軽いので大したブーストにはならないだろう。
 子供。
 言動も。
 行動も。
 体も。
 声も。
 これでも僕と同じ十六歳、今年度に十七歳になろうとしているのだから驚きだ。
 現は僕の脚の間に座っているので、脚が並んでいるけれど、彼女のそれは、明らかに短い。短足というわけではない。彼女全体で見れば、脚の長さは身長相応なものだ。
 男性と女性の身体差がそれなりにあることはわかっている。それでも、やはり彼女の体は小さすぎる。
 幼すぎるのだ。
 抑えたぐりぐりをやめ、頭をぽんぽんと軽く叩く。
「うー、たたくんじゃなくて、なでれー」
「了解した」
 現が望むのなら、叶えなければな。
 髪の毛が乱れないように、柔らかく、優しく。手を絹糸の群れに滑り込ませ、ゆっくりと梳くように通していく。驚くほど滑らかに、滑っていった。何度も繰り返す。
 ふわふわの髪の毛。限りなく白に近い白金色。
 純日本人だとは信じられないけれど、彼女が純日本人であることは家系が証明している。
 明らかすぎる異常。
 しかし、美しい。
 常ではないがゆえに。
「んふーふふー」
 満足そうに姫君は、しかしむず痒そうに僕の胸に頭部をこすりつける。
 ふわりと鼻孔に香りが流れる。シャンプーの清潔な匂い。
 不快なところが一つとしてない、快さに振り切れた香り。
 ――お昼寝しよう、と言っていた記憶が確かに僕の中には残っているのだけれど、現は横になる気配がない。
 無理矢理横たえさせてみようかな、と行動を思案。
 している最中に現の方から声があがる。思考を中断。
 皆の者、静聴せよ。
「いをりん、きょうはいってらっしゃい、しない?」
「しないよ。……どうしてそんなことを?」
「だってー」
 右人差し指と左人差し指をついついと合わせ始める現。
 なんといじましい光景だろう。少し胸を打たれかけるけれど、平静を保たねばならない。まったく、とんだ破壊兵器だ。
 破壊的な光景。か。
 破壊。
「ひさしぶりに、かえってきた、し……」
 少しばかりこちらのことを振り返りながら、一言。
 僕は幼女趣味でもなければ少女趣味でもなく年上の女性の方が好みだと断言しておこう。年上で胸が大きいか、胸は小さくてもいいがスレンダーだったり。そんな感じの女性が好みだ。自分の身で近しいところで言えば、六分儀鬱子さん。
 しかしだ。
 このとき僕は。
 悩殺されそうだ、と思った。
 悩殺というには彼女には艶めかしさや色気が足りず、性的なところは少ない。少女の様な形をしているがゆえに。
 けれど、悩殺としか言いようがない。現の魅力で脳や中枢神経がずたずたにされてしまいそうになっている。
 先程が破壊的な光景だとすれば、こちらは破壊的な言葉だった。まさしく僕の心は破壊されそうになっている。冗句じゃない。
 現は答えを待っている。
 僕の言葉を待っている。
 応えなければ。
「今日はずっと一緒にいるよ。現のしたいことをしよう。何でも言ってくれていいよ。僕ができることならなんでもやろう。現はなにがしたい?」
 そのために学校を自主的に休んできたのだ。
「わーい! いをりんっ、だいすきーっ!」
 僕の質問に対する答えはなく。
 現は感極まったのか。
 もふん。
 突如として振り返ったせいで、頭を愛でていた僕の手は自然振り払われ、代わりに現が胸に飛び込んできた。
 体重を乗せられて、寝台の上に倒れる。
 びっくりするほどふかふかの敷き布団の上に、女の子女の子した淡い桃色の敷布。倒れ込んだ僕の上に、ふわりと現が重なる。
 そしてごろりと僕の右側に転がって、胴にその細い腕を回した。
「うぇへへへー」
「奇妙珍妙奇っ怪な笑い方はやめなさい」
「だって、かってににやけちゃうんだもの」
 ぎゅーっ。
 と。
 抱き締められる。
 僕よりも一回り以上小さな女の子。
 宿世現。
「いをりんいをりんいをりん」
 三回呼ばれる。
「そんなに呼ばなくてもちゃんとここにいるよ」
 僕も腕を回して彼女を抱くことにした。そうすることが自然だと思えたし、普段ならそうしているからだ。
 背中に流れる絹糸のような長髪が、柔らかく腕に触れる。
 腕の中にある現は、子供のように体が熱い。
 僕は強く抱き締められない。
 壊れてしまいそうで。
「えっへへ……すきー」
 ぎゅっと。
 力が強まった。
 しかしだな。
 こうも。
 好きだ好きだと言われると。
 何かが破壊的に破壊されて破壊され尽くされていくような。
 好意の感情に。
 浸食。
 侵食。
 僕の中から好意の感情が引き出される。
「僕も好きだよ」
 心からの言葉を囁くと、現は僕の胸に顔を押し当て、うれしそうに熱い息を吐いた。
 まるで自分の匂いを残すように。
「……あー」
 毒される。
 愛とは緩やかに染み渡る劇薬である。
 などと文豪のような言葉が頭に浮かんだ。
 明日は。
 明日こそは。
 ちゃんと学校に行かなければ。


了。