8.疲労破壊
作:宴屋六郎
何にも終わりなどない。
0
予感は確かにあった。
『晦日くん』に壊された玩具。自分が親に買い与えられた人形。子供らしいの純粋で醜い独占欲と物欲で強請り、義務のように片時も持ち歩いた、ヒトガタ。
それを晦日くんという同級生に壊されたというのに、不思議と怒りは湧かなかった。むしろ、大切にしていた人形を壊されること。美しい人形を壊されたことへの快さがあった。
美しいものが壊れた姿を見ているのは、愉快だった。
彼がやったのだということはよくわかっていた。前に壊させてくれないかという摩訶不思議な質問と希望を述べられたことがあった。
私は断った。
当然だ。
当然だったのだ。少なくともその時は。
晦日くんはびっくりするほど上手くやっていた。彼が弾劾されたことはない。とてもお上手に、自分の欲望を満たしてみせた。私は晦日くんがそれを成し遂げたことをなんとなくわかっていたけれど、証拠はひとつもないし、誰かに訴えかけるつもりもなかった。
晦日くんは私より先生たちに気に入られていたし、いち女子幼稚園児に過ぎない私の言葉なんて、彼らには存在しないも同然なのだから。
それほど彼は上手くやった。誰にも気付かれていない。私以外に気づいた人間はいなかったろう。それほど上手くやったのだ。
だけれど。
自分ならもっと、上手くやる。
そうも思った。
私に気づかれている時点で私以下だ。匂わせてしまっている。きっと自分の欲望に従ったからだ。
欲望に素直な人間。己の欲望のために、己の全てを使える人間。
好ましく思った。
決して恋愛感情という軟弱な発想ではなく、小賢しく可愛く思い、また同時に強い憤りも感じていた。
どうしてそれだけの頭と実行力がありながら、何故私に気づかれたのだと。
もっと上手いやり方があっただろうと。
むかついたのだ。
もっと努力すればいいのに。何故私のようにできないのかと。
何故完璧にできないのかと。
甘えているだけなのではないのかと。
あるいはミスだったとしても、どうして完璧なフォローを行うことができなかったのかと。
私は幼心に考えていた。
一度目の成功であり失敗であった可能性も否定はできない。
だから私は彼について回った。
強く興味を抱いたから。
もちろん晦日くん本人には気付かれないように。
地味に、地味に。
影のように黒く、目だたぬように。晦日くんの行く場所には常に姿を変えた私がいた。
地を這うような低能さを見せながら。ずっと無能な女になり続けてきた。
晦日くんの破壊に託けて、己の破壊衝動を紛らわせ、隠れ、満たしながら。
彼について回ったのは、何も自分の探究心を満たしたいばかりではない。自分なりの打算計算があったからだ。一石二鳥で合理的だと思わなければ、こんなことはしない。
ぎりぎりの点数、ぎりぎりの成績を維持することなど、私には容易いことだった。
そう、自分の才能と能力を他人に見せないようにすること、晦日くんに私の顔を覚えさせないこと。あまりにも簡単なことだったのだ。私には、そうすることができるだけの、能力と才能があった。
晦日籠は確かに天才だ。世の中に言われる秀才、天才という言葉は彼に相応しい称号だ。
溢れる才能があり、頭も回る。芸術に関しても期待できるし、運動だって本気で取り組めば世界レベルに到達しただろう。
けれど、私は更に上を行く。
溢れる才能を晦日くんのように溢れさせて周囲にアピールしてしまうようなことなく、器の中に収めきってしまえる。
自惚れでもなく過信でもなく、ただ単純に冷静に淡白に、自分の中に大器があることを私は知っていた。
自覚があった。
自分のことは、自分がよくわかっている。
晦日が私と同じような力に目覚めた時、私は微かに驚いた。
私もそれを持っていたからだ。
気付けば、という感じだった。
知らないうちに。
生まれ持ってさえいたような。
私は『それ』を持っていた。
触れたモノを壊すことができる。
自らの欲望を満たすためのツール。
自らの欲望を成し遂げるルーツ。
――そう、ルーツ。私にはそれがない。
この力の根源がない。
己の記憶に、不完全な部分があることを自覚していた。私は大抵の記憶を覚えているのに、この『力』を手に入れた経緯を覚えていないのだ。
多くの人は自分の幼少の記憶など、はっきりしていないと言う。私も果たして、大衆と同様なのだろうか?
いつ、どこで?
晦日くんには確かなルーツがあった。
根源の蓄積を私は目撃していた。彼の欲望を高めたのは私だからだ。
彼がどんどん自らの欲望に沈み込んでいくように、考え実行し周囲をそういう色に染めて行ったのは、私だからだ。
実験だった。
目的のない、実験。
ただ観察していたかったから。それだけの理由。
その結果彼が私と同じような力を手に入れたので、利用することにした。彼の影に隠れることで、私は更に自分の欲望を高めていくことができたし、満たすこともできた。
当初から一石二鳥ではあったけれど、彼が私と同じような『力』を手に入れたおかげで、更にやりやすくなった。
晦日籠。
可哀想な子。
才能を溢れさせ自らの欲望に気づいてしまったがゆえに、自らの道を歩む事が出来なくなってしまった男。自分の望む道がわからなくなってしまった男。
自分の才能を、能力を。世の凡愚どもに見せてしまった男。
私は彼を見下し、ずっと見つめていた。
段々と彼を壊したいと思うようにもなっていた。
その人生を、お前自身が望んでいる『破壊』という最良の形で壊してやろう。
美しいものを壊すのは好きだった。あの美しいヒトガタが壊れたときから、私は破壊を好むようになっていた。私は彼の人生を作ったけれど、そんな私を創りだしたのも彼なのだ。
彼の外見は男にしては悪くない。女顔であったし、細いし、無駄な肉がない。美しいとまでは言わなくとも、そこそこ綺麗であることは確かだった。
これまでずっと見つめてきた、観察してきた天才を壊すのは、さぞ気持ちが良かろうという予感があった。
実際にそうだった。
とても気持ちが良かった。
そして、『私がこれから僕になる』のだと思うと、面倒さを補ってこみ上げるものがあった。
私は無駄なことをしない。
一石二鳥、きちんと考えあってのことだ。
僕は肉片を見つめる。既に僕になった僕の僕ではなかったもの。僕は彼に対して好意を抱いていたのだろうか? 改めて自己分析。恋愛感情らしきものはない。昔と変わらない。小賢しい子供、に似た好意と嫌悪の中間、複雑色。
僕が僕に対して抱く感情なのだから、当然の色。
もういいか。
僕は僕でしかないのだから。
シンプルにすることが目的、だから。
以上、振り返り終了。
この辺で今日の日記は終わりでいいだろう。僕は僕になった。それでいい。
いやしかし、あれだけ観察していたけれど、僕が日記をつけるようなロマンチストだったとは。むしろ、僕だからこそ、だったのかもしれないが。
結構まめにつけられているので、しばらくは読んでみるとしようじゃないか。僕の日記を僕が読み返すのは、きっと不自然なことではない。
同じように、書くこともね。
僕は僕でしかないのだから。
失望奇譚集―壊虐奇談8
*******
1
僕は所詮僕でしかない。
何物にもなれないモノが何かになろうとすること自体が間違っている。おこがましいとさえ思う。願いそのものは理解できるけれど。
もっとも、なろうとしたからといって、それが本当に本人の願いであったかどうかはわからないわけだ。
だってもう僕らが殺してしまったし。
晦日籠。
僕らが触れ始めた時には既に死んでいた男。
物語にピリオドを打たれてしまった男。
天田和良。
晦日籠になった女。
自らの物語にピリオドを打った女。
誰かだったかもしれない女。
誰かになったかもしれない可能性。
誰かであったかもしれない可能性。
そんな可能性が僕にあったとしても、今の僕は、僕でしかないわけだ。
なあ、晦日籠。
なあ、天田和良。
くだらないよ。
僕の言葉なんか信じるものではないよ、本当に。冗句ばっかりなんだから。
彼らの『可能性』なんて、知らない。本当に調べたわけでもなし。ただそういう可能性があるってだけ。指摘しただけなのだ。
――たとえそれが僕の『言葉』を使って指摘したという、致命的なものであったとしても。
証拠なんかない。
必要ない。僕らには、必要ないのだ。
誰かであったかもしれないって、みんな誰かであったかもしれないんだよ。
僕は隠居庵だったかもしれないし、口虚歪だったかもしれない。もしかすると隠居庵を名乗っているだけで、本当は口虚歪なのかもしれないし、口虚歪かもしれないと考えている隠居庵である可能性だって十分以上に存在するんだ。
常に同じ人物なんていない。人は変化し続ける。
一秒前の自分と、現在思考を続けている自分が同じ自分であるとは言い切れない。可能性はどこにだってある。
可能性ってのはさ、えーっと……何て言えばいいんだろう。
くだらないもの――そう、くだらないものだ。自分が誰かじゃない可能性。
自分が誰であるか。そんなものは、どうでもいい。くだらないものなんだ。
どうでも、いいんだよ。
今ここにいるということ。
目の前の景色を見ているということ。
それだけで十分じゃないのか。
天田和良はそれから目を背けてしまった。目を離したままぼんやりと忘れていた、忘れることにしていたから、足を掬われることになったと。
まあ、目の前の景色が誰かに作られた偽物だったり、世界そのものへの認識が間違っていたりしたら、どうしようもないけれど。
……だんだん自分が何を言いたいのかわからなくなってきたので、そろそろやめようと思う。
どうせ。
冗句だ。
でも敢えてその話から繋ぐとしたら。
つまり、その。
僕は結局流されるしかない、というわけだ。
可能性という見えないものに、どう抵抗しても無駄だ。抵抗しても無駄だからこそ、自分をゆるぎないものにできるのではないだろうか。
……決して意思薄弱とか、そういうことじゃないぞ。
あれ、意思薄弱ってこの字であってたっけ。意志だっけ意思だっけ。そもそもこの使い方であってるんだっけ。
まあどうでもいいか。全ては冗句なのだから。
とにかくだ、ついに一週間を超えるほどのサボタージュを成し遂げてしまったわけなのだけれど、早く登校しなければならないということはわかっている。昨日ようやく学校から電話があったし。
行かなくてはならない。が、学校とは違う場所――はっきり言うなら病院から求められているのもわかっていた。
どうしようもなく。呼ばれていることだけはわかった。
で、僕の体はひとつしかないわけだ。
学校か現かって言われたらさ。
現しかないわけだよ。
僕が学校に行くという可能性が確かに存在していたとしても、僕の世界は『こうなって』いる。
僕の物語は、こう出来ている。
「おいぴい! おいぴい!」
「小鳥の物真似でもしてるのか、現」
「ぴよぴよ!」
「ひよこ……まあ、小鳥ではあるか」
また病院であるし、現の家であるし、食堂である。
キッチンじゃなくて食堂。
一人しか住んでないはずなのに、大きく取られた食堂。こういうときに金持ちと凡愚の間でギャップが生まれるんだな。
現の大好きなドーナツ――ポン・デ・リングを十個ほど購入してきたので、二人で頬張っている。椅子はたくさんあるのに、何故か僕の上に座っている。まあいいけどさ。
ちなみに現が九個食べる。僕は洋菓子の甘さは苦手なので、これでいいのだ。
現はもっと肥えるべきだ。縦と横に。
もっとも、それは彼女が望まなければ実現しないと、わかってはいるのだけれど。
「もちもちー」
「たいへんもっちりしてゐるね」
現の背中と後頭部を見ながら自分の分を食べ終わったので、手持無沙汰である。
「もちもちー!」
「こら、ドーナツを持った手はやめなさい」
ふにふにぶにぶにと無遠慮に頬をつままれ、つつかれる。両手にドーナツを持ったまま。口にドーナツをくわえたまま。洋菓子が僕の頬に当たる。
べたべたするというのに、お構いなしに触られている。
そのうち一個食べ終えたので、右手に持っていたドーナツをくわえ、空いた手を使って方向転換。僕と対面して抱き合う形に移動してくる。
……恥ずかしい。
他人に見られたら即死する。
どこかに受付さんの監視カメラがあるのはわかっているので、死ぬしかない。僕が訪れている間はカメラから目を離す契約になっているのが、せめてもの救いか。
「もっひもっひ!」
「ひゃからひゃめなひゃいほいっへふ」
現が僕の頬を自由自在に成形するので上手く喋ることができない。日本語からかけ離れた言葉で話すしかなかった。
むぐむぐ。くわえたドーナツを喰い終えた彼女は、僕の顔をじっと見つめた。
せ、せっぷんか?
せっぷんを求められるのか?
いやいや現、僕らにはまだ早いよ。早すぎるお付き合いだよ。冗句ですけれど。
それにしてはいやに真面目な顔をしている。いつも笑顔の彼女は、他人にものをお願いするときにぱっと表情が消える。
これは何かを要求する時の顔だ。
ちょっと嫌な予感がした。
「いをりん」
「ん?」
ふわりと。
ゆらりと。
彼女の白絹のような髪が、やわらかに揺れた。
「笑ってー?」
ああ。
僕、やっぱり不自然なのかな。
「……おう」
現が頬をつまんで伸ばし、僕にお願いした。
望んだ。
そうされると、僕は彼女の望むとおりになるしかない。
僕の頬は。
口は。
目は。
顔は。
笑顔らしい笑顔を形作った、ことだろう。
「あんまりにあいませんねー」
「ひどいなお前!」
「ふへっへっへぇ」
笑顔を見せたので、僕の心には安堵が生まれた。
何かに怯えていたわけでも、何かを恐れていたわけでもない。
ただ彼女の笑顔には、それだけの力があると。
そういうことなのだ。
……ふと。
思い出した。
昨日だったか一昨日だったか。最近は無駄にスケジュールが詰まってて自主ゴールデンウィークという一世一代の大イベントまで実施してしまったので、いまいち曜日感覚というか時間間隔がなくなってしまって、思い出せない。
まあ多分昨日のことだっただろう。
みゃこさんにも、似たようなことを、言われた、ような。
2
あれは報告の時だったかなぁ。
「……庵さん……」
「はい?」
と答えた時には、その黒猫のような上司――みゃこさんは僕の隣に腰掛けていた。
支部の事務所。リビング。小さな机を挟んだソファ。
僕は熱い珈琲を嗜んでいて、考えごとにふけっていた。
みゃこさんを待っていたことも、確かに真実ではあるけれど……。
「向かいに座ればいいじゃないですか」
黒の革張りソファーは、背の低い長机を挟んで、対になっている。
ちなみにこれは二人掛け程度の大きさなので、隣にみゃこさんが座ると嫌でも密着せざるを得ない。いや彼女ほどの美人であれば嫌ではないというかむしろ大歓迎なのだけれど、僕が彼女に遠慮してしまうというか気恥かしいというか控え目な香水の匂いとか今日の短めなスカートの丈から覗く白い白い太股なんかが煽情的といいますか十代の男の子には大変良くないといいますか。
「……貴方の隣が良いのです……」
相変わらずもぞもぞと喋る人だったけど、近いのでいつもより言葉がはっきりとしている。
こんなことを言われたら黙るしかない。初心な男の子なので。初心って自分で言っていいのかな。いやに冗句的になってしまうね。
「……庵さんも待っていたでしょう、私のこと……」
「決して隣に座っていただくことを待っていたわけではないことを念頭に聞いてくださいね。待ってましたよ。報告したかったので」
僕は懐から一冊の本――手帳を取り出した。みゃこさんに手渡す。
あの夜、不審に不審をかけて百倍したような男から渡されたものだった。
「大抵のことはメールで送った通り。これが例の男からプレゼントされたものです。誰も誕生日じゃないのにね」
強いて言うなら佐藤一郎氏の誕生日が五月らしい。僕は六月で、観夕は八月。みゃこさんの誕生日は不詳というか、触れてはいけない話題なので知らない。
今月はまだ四月の第二週だった。まだと言うべきか、もうと言うべきか、微妙。
「……日記、ですか……」
そう。
百面相九郎が投げて寄越したものの中身は、晦日と、天田和良の書いた日記だった。
多くのページは晦日によるものと思われる言葉で埋まっているけれど、途中から天田に代わっている。
天田の部分は文体だけでなく筆跡まで似せてやがったので、誰がどこまで書いたのか、誰がどこから書いたのかいまいち判別に欠ける部分が多い。
でも、はっきりとわかることも、あるにはある。
みゃこさんはぱらぱらとめくっていく。
あんな手袋を嵌めていながら、よくスムーズに紙をめくることができるものだ。僕には到底真似できない。慣れなのだろうか。
ある程度目を通し終えたのか、彼女は目を上げた。とはいっても、いつも通り僕を見ることはないのだけれど。
「……Simplicity is the ultimate sophistication……とは、どういう意味だったんでしょう……」
「意味なんかわかりませんよ。だって僕は晦日籠でもないし、天田和良でもないんですから」
天田にしても理解していたとは思えないけれど。
それとも、全てを模倣して成り代わってしまっていた彼女なら、わかったのだろうか。
今では、もう。
「……えー……」
少し唇を尖らせるみゃこさんは、やっぱり可愛かった。
「ほんとですよ。晦日にしかわからない意味があったんでしょ。外面はわかっても内面はわからないじゃないですか。僕だって、天田だって、観夕だってみゃこさんだって」
外面しかわからない。内面は本人にしかわからないし、本人だって己の内面全てを知っているわけではない。
外面。
晦日は意識を破壊して誘拐していたし、天田は距離を破壊して誘拐していた。
日記帳から新たにわかったことと言えば、そのくらいなもので、大した収穫はない。
あとは裏付けることばかり。ああ、二人のルーツもわかったね。
いやしかし。
まさか二人で一つの日記帳とは。
天田が勝手にやったとしか考えられないけど、これじゃあまるで交換日記みたいだ。どちらも晦日を名乗っている上に、片方は既に死んでいたのだから一方的な交換だったけど。
どちらも晦日として書いているから手に負えない。
「いかに天才と言えど、人の内面までは想像できなかったんじゃないですかね。天才ゆえに、かもしれないですね。天才は他人のことがわからない、とか古代ギリシャとかで言われてそうじゃないですか? 今思いついた冗句ですけど、本当だったら冗句にならないので封印した方がいいですかね」
はっはっは。
何が面白いかわからないって?
奇遇だな、僕もだよ。
「……この『従兄殿』というのは何なのでしょう……」
「文字通り晦日籠の従兄ではないのですか? 確かに書き方は妙ですけれど」
日記帳を眺めて、目に止まった部分があったのか、みゃこさんは質問を投げかけてくる。
僕はほぼ全てのページに目を通したので、適当に答える。
けれど、更に返す彼女の言葉で、思考が止まった。
「……晦日籠に刑事の従兄など、いません……」
「え」
「……彼自身が述べているように、確かに警察関係者の親族は多いですね……でも、いないのです……不夜市警に勤める刑事の従兄など、いないのです……」
それはどういう意味だ?
どんな意味を持ってるんだ?
「晦日籠は幻覚を見ていたってことですか?」
「……それじゃあ他人のアパートになんか入れないでしょう……加えて、天田和良も刑事について記述しています……晦日籠になりきったから見えた、というわけでもないでしょう、流石に……」
だとしたら。
この一連の物語に、当てはまる役者を。
僕は一人だけ知っている。
「百面相九郎――」
「……庵さんにこの日記帳をくださった男性、でしたか……」
晦日のことも天田和良のことも知っていた。
物語、と言っていた。
僕のことも知っていた。
不思議に神出鬼没、彼もまた何らかの《異常者》であったとしたならば。
「……何の目的があって、晦日に方向性を決め、天田和良にも協力したのでしょう……」
方向性。
確かに存在しない従兄が、晦日の方向性を決定づけたように思える。
今なら。
自分が自分を形成していたと思っていたのに、それは全て他人の意図で、最初から計画されていたものだった。晦日籠は最低な《破壊魔》であったとしても、親族に生き方を決められ、『従兄』に《異常者》として歩むことを決められ。
うーん。これって自分にも当てはまっちゃう気がするから目を背けるべきだな。よし背けた。
「――わかりませんね。みゃこさん、本部の方には報告しましたよね?」
「……当然です……」
僕の上司は有能で良かった。
有能。
能があるということ。
僕は無能だと思うけれど、まあ。
百面相のことはしばらくなにも考えないでいいだろう。あれが一体何者なのか、何物なのか。個人的な興味はなくもないけれど、考えることじゃない。
そういうのは、考えるべき人が考えるし、僕が考えなきゃならなくなったら考えればいいのだ。冗句抜きでね。
だから僕が今考えるべきことは、過去の振り返りと整理。
「ま、なんにせよ、今回はスペック頼りな奴で良かったです。単純だからもっと恐ろしいことされるかと思ったわい」
それに、『気付きかけ』、だったしね。
先天的な《異常者》――身近な例でいくと観夕がそうだけど、彼らは生まれた時点で『そう』なってるから、いまいち自分の立ち位置がはっきりとしていない。
観夕みたいになんでもかんでも「どうでもいい」と思えるような娘なら、天田も迷いはしなかったし、自分のルーツを揺らがされることもなかったろう。
名前通りに頭が良くて、頭が弱かったから、気付きかけていたのだろう。日記にはそのことがほとんど書かれていなかったので、いつから、どの程度気付きかけていたのか、わからなかったけれど。
先天性の天田。
美しいものを壊してみたかった天田。
後天性の晦日。
壊れているものが美しいと言う晦日。
どちらも死んでしまったし殺したので、確かめる術は最早ない。
うーむ。
……え、僕はどっちなのかって。
うーん。
内緒で。
「……庵さん……」
「なんで、しょう」
滞りなく答えかけて、途中で言葉に詰まったのは僕の滑舌が悪いわけでも、言葉を発するのが苦手だからでもない。
みゃこさんがこちらに向き直っていたから、というのと。
僕にしな垂れかかろうとしていたからだ。
「……私は……」
動けない。
というか、こんな黒猫美人を、どうやって振り払えというのだ。むしろそんな人類が存在しているかすら疑わしい。
みゃこさんの声は近い。
マフラー越しの不明瞭な声が、耳元で明瞭に聞こえる。
僕は上司の彼女がどんな意図をもってこんなことをしているのか、何をしているのか、全くわからなかった。
本当に?
「……貴方がどのような《異常》をもって、どのように排除をしているのか、知りません……」
みゃこさんは知らない。
観夕も知らない。
僕と遊女さんの秘密。
「……遊女からも知るなと言われています……」
吉原遊女。
《サナトリウム》を統べる者。
みゃこさんの親友。
鬱子さんの仕える人。
「知りたいですか?」
特に意識せず。
何も考えず。
僕は言葉を垂れ流していた。
「……五十パーセント、ありません……」
「残り五十パーセントは?」
「……興味、あります……」
みゃこさんは顔を上げ。
黒い長手袋を嵌めたてで、僕の頬を撫でた。
さらさら、と。
「…………」
沈黙。
僕は言えるわけがない。
僕が言えるわけがないことを、みゃこさんも知っている。
だから何も言わなかったし、何も訊かなかった。
代わりに、みゃこさんは口を開いた。
「……庵さんは笑えません……」
「面白いことがないのにどうやって笑えと?」
「……布団が吹っ飛んだ……」
――ここ、笑うところだったか?
重たい喉を動かしながら、続ける。
「偏見は良くないですよ。人種差別の元です。悲劇の素です」
「……決めつけなんかじゃありませんよ……貴方は笑うことができず、嗤うことしかできません……」
「はあ」
字面では同じですが。
まだ手が添えられていて顔を動かせない僕は、みゃこさんの髪を見つめる他なかった。だって顔あげてくれないし。あげてもらっても、見つめたりできないからいいんだけど。
「……《異常者》を殺す時にしか……絶対……いえ、きっと、過去の出来事が、関係しているのでしょう……?」
「さあ」
その点につきましては現在担当者が不在ですので、またの機会をお待ちください。
「……私、知ってるんですよ……貴方の過去……調べてしまいました……良くないことなのに……」
「この隠居庵、やましいことはひとつもないので、どうぞご勝手に」
微妙に嘘。
嘘は良くない。笑えないから。
「……《破壊魔》……」
「晦日籠と天田和良のことですか」
「……庵さんの過去、貴方の家とご家族を滅茶苦茶にした《破壊魔》と重ねていたのでは……だからいつもより積極的に動いていたのでは……貴方は本来……こんなに積極的な人ではありませんよね……学校まで……休んで……」
言葉は段々と尻すぼみで小さくなっていったけれど。
みゃこさんは唐突に顔を上げた。
久方ぶりに、僕とみゃこさんの視線が交錯する。行き交う。ぶつかる。正面衝突する。
これまでほとんど目を合わせたことがない、みゃこさんの瞳。
他の人よりも、少しだけ瞳孔が縦長だった。
いわゆる、猫目に近い。
彼女がほとんど人と目を合わせないのは、何も彼女がコミュニケーションを不得意としているからというわけではないのだ。
眼球の中にごく僅かな腫瘍があって、昔からそれが原因で『色々』あったんだとか。
しかし、これでは。
……バンシィじゃなくて、メデューサなのかもしれない。
そんな猫目に見つめられて、僕の鼓動が少し早くなった。
でも言葉だけはどろどろ止めどなく出てくる。
「そんなことないですよ。だいたい学校になんか執着ありませんし、大抵の教育は終えてますし。みゃこさんや遊女さんが勧めるから惰性で通ってるだけであってですね。あと、僕と言うものは、どうにも記憶に自信がなくってですね。実のところ、昔のことはもうあまり覚えていないのですよ」
そこで微笑みでもしたら良かったのだろうけど。
生憎、僕は笑えない。
笑えないんだ。
みゃこさんの言う通り、笑えない。
面白くても面白くなくても楽しくても楽しくなくても。
僕は《異常者》を殺すときにしか嗤えない。
僕は《異常者》である。
僕は『嘘つき』である。
僕のツールは『言葉』だ。
僕にはツールのルーツがない。
僕には根源がない。
僕は根源がないということをわかっている。
完璧に理解している。
どこまでも淡白に冷静に冷淡に、わかっている。
全部、嘘だった。
ら、良かったのに。
どうせなら、あの時僕の全てを壊してくれればよかったのに。
なあ《破壊魔》。
なあ口虚歪。
なあ、宿世現。
「…………」
他人のことは誰もがわからないように、僕は僕のことを全てわかっている。自分が狂っていることも人間でない何か曖昧としたものであることも、既に僕と世界との接点が失われていることも全てわかっているわかっているわかっているのに壊れてくれないんだよね困ったことに。天田は羨ましいよ。ルーツがわからなくてわからないだけで壊れちゃうんだから。大抵の《異常者》はそうだ。観夕だってみゃこさんだってみんなみんなルーツを見つけて世界との接点を揺らがせてやれば壊れてしまえるんだから。壊れてしまえるってことは終わりがあるってことだよ。素晴らしいことじゃないか。俺たちの旅はずっと続くんだぜーなんて、ただのロマンチックな台詞。いやいや実際は悲劇だよ。続いてるんだもん。壊れたいけど壊れない。破滅したいのに破滅できない。死にたいのに死ねない。死ぬなって。いなくなるなって。言われたもんな。望まれたもんな。誰かってそりゃあいつにだよ。死んじゃだめなんだってさ。いなくなったらだめなんだってさ。だから僕は《異常者》を殺し続けるしかない。自分から飛び込んで壊れてしまえるまで。僕の接点を奪い去った《破壊魔》なら、なんて幻想を抱くんじゃなかった。期待なんて希望なんて絶望に変わるんだ。あの時確かに壊されたはずだしあの時確かに飛び降りたはずなのになんで生きてるのやら。いやどうしてそうなったのかは知ってるよ。鬱子さんも言ってたし遊女さんからも聞いたし何より誰より歪から教えられたし。死にたいのに壊れたいのに死ねない壊れないってのはびっくりするほど絶望の塊だよ。僕が言うんだから間違いない。そう思ってる割に絶望してないけどね。できないし。はああ。冗句でも言ってないとやってらんないよ実際。自分が笑えない分だけ誰かを笑わせてないとさ。あーあーあー。さっさと壊れてしまいたい。死んでしまいてー。楽になりてー。
…………。
…………。
…………。
…………。
……なああああああんて。
ぜーんぶ冗句冗句ー。
現実のお話じゃないよね。てへへ。
「……嘘つき……」
「まあね」
終わらない。
続く。