6.彼女の奇妙な愛情

作:宴屋六郎


 僕は自分のことが嫌いだ。
 気付けば自分のことを嫌っていた。
 自分のことが嫌いだからこそ、誰にも好かれるはずがないと信じている。
 普通であることが大嫌いだ。
 でも脱却する為の努力をしていない。
 ずっと座り込んで、他人を羨んでるだけだ。
 他人のことを、下から見上げて、見下している。それだけの醜い人間だ。
 僕は普通だけど、その普通から脱却しようとしていないのなら、普通に自ら甘んじているだけだ。
 誰かは、自ら望んで普通でいるのだと言った。
 じゃあ何だ?
 僕はどこまでいっても普通で、平均だ。他人の平均を集めた人間だ。
 僕は他人と何が違う?
 僕のアイデンティティとはなんだ?
 勉強ができるわけではない、運動も特別できるわけではない。
 こんな陳腐な発想しか浮かばないほどに普通だ。
 どこまでいっても普通。
 今の世の中、普通でいるのも難しい?
 そんな屁理屈じゃない。
 胸が痛い。
 辛い。苦しい。
 どうしてこんなことを、こんな辛いことを考えなければいけないんだ。
 どうして、僕が考えることを放棄してここまできたことを、気付かなければならなかったのか
 どうして気づかされてしまったのか。
 どうして前を向かされているのか。
 後ろ向きに前を歩いていたのなら、後ろから刺される前に逃げられたのに。
 このナイフを刺したのは、誰だ?
 当然、彼女だ。ニノマエさんだ。
 彼女が僕の歪みを見つけて、教えた。
 僕は。
 僕は彼女のことが――

******

 とまあ、二日間の休日の間中、そんなことを考えていたわけだ。
 薬を飲んで休み、風邪を倒して。
 月曜日である。
 一週間の始まりである。
 そう、一週間の始まりである……。
 土曜日も日曜日も、ずっと寝込んでいた僕からすると、先週の金曜日からずっと地続きになっているようにすら思えてしまう。
 教室の皆も、テンションの上がり切らない顔をしている。僕も同じだ。
 しかし後に控えていることを思えば、そういうわけにもいかないのだが。
 ただ、ニノマエさんだけは、やはりいつものように楽しげだった。学校に来て皆と会えたのが嬉しいみたいだ。周囲の人たちと談笑している。ちょっと眩しい。
 倦怠感に包まれたような雰囲気の中、いつものように放課後を迎えた。
 ニノマエさんは部活に向かい、僕は図書室に向かった。
 読み終わった本を返すためであり、新しい本を借りるためだった。
 省エネのためなのか、照明が最低限しか点されていない薄暗い図書室。扉を開いて中に入ると、古い紙の匂いが、ふわりと僕を包み込んだ。
 西日が射しているせいか、あるいは暖房が動いているせいか、少し暖かかった。
 図書委員を務める生徒に返却手続きを済ませ、僕は歩いて本を物色した。
 いくつかの図書の中、ふと、目につく本があった。
 空色の装丁の、見覚えのある文庫本。
 いつか、彼女が読んでいた本だ。
 飛行機乗りの、どこか悲しいお話――映画を観て大まかな内容を知ってはいたけれど、実際にそれを読んだことはなかった。
 次に借りる本は、決まった。
 やる気のなさそうな図書委員に本を差し出し、のろのろとした手続きを済ませて、文庫本を鞄の中に仕舞った。
 鞄を手にしっかりと持ち、図書室を出て、歩いた。
 向かう先は決まっている。
 屋上だ。
 途中でラウンジを横目で確認すると、演劇部の活動が見えた。ニノマエさんの姿はない。既に屋上にいるのだろう。
 何も考えず、階段を登った。
 階段を一段踏みしめる度に、心が重たくなっていく気がする。
 前の、ニノマエさんから逃げ出したいと思っていたときのような重みではない。
 単純に、緊張しているだけだ。
 理由は、推して量るべし。
 扉に突き当たると、いつものようにドアノブを捻る。もう慣れたものだ。
 開いた扉の先。夕陽が沈みつつある中、ニノマエさんが待っていた。
「おっす」
「……どーも」
 挨拶は返せた。
 もう流石に慣れたよ。うん。
 だから、緊張はしていても、話したいことを、スムーズに言えると思う。
 伝えたいことを、はっきりと言えると思う。
 二日間、ずっと考えていたこと。
 まとまりきらない中でも、僕なりにまとめた感情。
 すべて、彼女に話してしまおうと思った。
「話したいことがあるんだ」
「うん。わたしもきみに訊きたいことがあるの」
「奇遇だね」
「奇遇だね」
 僕は一息つきたい気持ちになった。煙草でもあれば、一吸いし、一吐きしていただろう。
 しかし残念ながら、僕に喫煙趣味はない。
 僕は彼女ではないから。
 ――僕は歪んでいる。
 彼女も歪んでいるのだと、昨日やっと理解した。
 似通っているけれど、近寄っていない。
「僕はきみの、煙草を吸うところが嫌いだ。正直ちょっと幻滅した。勝手なイメージを抱いて悪いけど、勝手に幻滅した。あと、ちょっと強引なところも嫌いだ。僕のことが少しわかる気がする? 勝手にわかった気にならないでくれ。知った風な口を利かないでくれ。本当にわかっていたとしても、もっと僕のことを知ってから言ってくれ」
「うん」
 僕は彼女に幻滅した。
 勝手に幻滅した。
 本当の彼女を知った。
 あまり変わらないけれど、僕のイメージとは違っていた。
「本当のきみを知ってわかったことがある」
 だからこそ、わかった。
 彼女が勝手にわかる気がすると言ったように、僕も勝手にわかることにした。
 そう、決めた。
「きみは歪んでいる。自分で言ったように、歪んでる。きみの純粋すぎる好意は、毒だ。それを良しとしているきみ自身も毒だ。きみの周囲は、きみの世界は、高純度の好意という毒で満ちている」
「うん」
 二日間考えたこと。
 僕が初めて、最初から最後まで逃げずに、前向きに考えさせられたこと。
 橙色の光が僕らを照らす中。
 黄昏へと影が溶け込んでいく中。
 ぶつけるように言葉にする。
「僕は――」
 僕は。
 僕はニノマエさんのことを。
 僕はニノマエさんのことが。
 息をすうっと吸い込む。
 吐き出す前に。
 言葉に想いを。
 すべてを込めて。
 全身全霊で。
 僕は。
 吐きだした。


「僕はきみのことが嫌いだ。付き合って欲しい」


 嫌いなものなどないと、嫌いな人などいないと言ったきみを。
 僕のことを、嫌いにさせてみせる。
 世界はきみの好意に値しないと、教えてみせよう。
 世界はきみが思っているほど綺麗なものではないと、教えてあげよう。
 僕が伝えたかったのは、それだけだ。
 夕陽の温かな光が、彼女を照らしていた。
 橙色の光に照らされた彼女の腰まである髪も、彼女の長い睫毛も、彼女の黒瞳も、すうっと通った鼻梁の線も、可憐な唇も、すべてがはっきりと見えた。
 ニノマエさんは――
「――ひとつだけ、条件があります」
 なんでございましょうか。
 ここまで来たのなら、もはや何でもござれ、だ。
 覚悟は決まっている。
「あなたの名前を、教えて?」
「……ああ」
 そういえば、自分から彼女に名乗ったことはなかったのだ。
 そうだね。
 安堵して、小さな息を吐いた。
 僕の名前は――――、


おわり。