幻震

作:宴屋六郎


 私は弟と部屋を共有していた。
 家は小さく、古い木造建築だった。私は特に興味もなかったので、祖父が建てたらしいということくらいしか知らなかった。
 父は私たち兄弟に二段ベッドを用意してくれた。部屋の数は少なかったので、個人のスペースの確保が難しかったのだ。
 私は様々な交渉の結果と、兄であったことも関係して、上段を寝床とすることになった。
 依然として私のスペースと弟のスペース、それらの境界は曖昧であったが、父はベッドにカーテンを垂らすことで、問題の解決を図った。
 八畳より、少しだけ小さな室内、中央に置かれたベッド。
 入り口から見ると下段はカーテンに覆われて中が見えず、私の領土である上段に登っても、奥のカーテン一枚に遮られて、あちらを見通すことはできない。あちら側も同じだ。
 ベッドを境界にして私たちはそれぞれの住処を確保していた。
 ところで話は変わるが、その頃、私の趣味は読書であった。進学先である普通科高校の図書館の蔵書が充実していたこともあり、空前の読書ブームが訪れていた。
 帰宅し、ベッドの上段で読書をすると、周囲は見えなくなる。
 なけなしとはいえ、学習のための狭い空間はあるのだから椅子にでもかけて読めばいいのだろうが、私は寝転んで本を読むのが好きだったのである。
 ベッドの上段では扉の方さえも視認が難しくなるので、弟の帰宅を知るのは自然と扉の開閉音、そして見えない下段の揺れだけだった。
 弟はその頃、中学の運動部に所属しており、帰宅部である私よりも帰りはずっと遅かった。疲れた弟は帰るなり、夕飯の時間までベッドで寝ていることが多かった。
 私たちの部屋にエアコンなどという上等なものはなかったので、夏は窓と扉を開け放すという古典的な冷却に頼っていた。
 そのため、扉の開閉音は頼りにならず、私は彼の帰宅を足音やベッドの振動などで知る他なかったのである。
 私は寡黙であったし、弟は兄に懐いているような年齢ではなく、いわゆる思春期であった。
 ゆえに兄弟間の会話は最低限で、一日言葉を交わさない日さえあった。

*******

 その日、私はいつも通り帰宅し、いつものように図書館から拝借した本を読みふけっていた。
 天井に顔を向け、寝そべって、本の世界に浸っていた。
 弟は相変わらず部活動に精を出しているようで、僕より早くに帰ってきた気配はなかった。部屋の蛍光灯は私が灯した。
 夏の虫たちの鳴き声が夜に響く。
 窓から吹き込む風は生温い。
 母の事情から、我が家の夕食は遅く、彼女に呼ばれるまで私が夕食にありつけることはない。だから安心して、読書を続けた。
 本の中に綴られた冒険譚に没頭していると。

 ――ごとり。

 己の身体が、ベッドの震えを感知した。
 弟が帰ってきたのか。
 それにしては。
 足音も何も聞こえなかった。
 私が本に熱中しすぎていたからか。
 瑣末な問題である。気に留める必要もない。ましてや思春期で難しい年頃だ。私としても余計な争いは避けたかった。
 私は本の世界に戻った。
 しかし。
 しばらくすると、再び。
 ――ごとり。
 妙に鈍い音をたててベッドが振動した。
 はて、弟はあまり寝返りを打つようなタイプではなかったはずだが。
 今日は普段よりいっそう疲れているのだろうか。
 それに、妙な音。
 彼は普段から運動をしているから私より大柄ではあったが、決して彼の肌が木でできているようなことはない。
 音は、硬い木材で、同じく硬い木材を打つようなものだったのだ。
 少なくとも、柔らかな布団と人体が生み出す音ではなかった。
 何か、ものでも落としたのだろうか。たとえば、携帯電話を寝相で落としたとか。
 それからもしばらく、ごとり、ごとり、ごろり。
 定期的に寝返りを打っているようだった。
 その振動が伝わってくる度に、私は集中力を削ぎ取られ、とうとうどこまで読み進めていたのかわからなくなってしまった。
 外から吹き込む生ぬるい風が嫌に纏わりつく。
 ああ、このままでは読書を続けられない。
 夏の盛り、私はうっすらと汗をかいていた。
 弟の体調も心配であるし、一言くらい言っても罰は当たらないだろうと、口を開いた。
 その瞬間。
 階下より私を呼ぶ声がした。
 ……母だ。
 母親が私の名前を読んでいた。
 時計を見ると、確かにいつも通り、夕食の時間であることに気がついた。
 挙げた手だか、開いた口だか。
 毒気を抜かれた私は母の呼び声に応じ、居間に向かうことにした。
 部屋に背を向け、階段を降りる。
 背後から、ごどん、というそれまでで最も鈍い音が響いていたのは、気づいていたが。
 知らない振りをした。
 私の脳は既に読書よりも、食欲に向いていた。弟より年上であっても、私だって高校生、食べ盛りだ。
 せいぜい眠って、機会を逃すがいい。母上様が追加で恵んでくださるおかずは、その場にいる者だけが味わえるのだ。
 と思っていたのだが。
 台所に到着した私は、大いに驚いた。
 私よりも先に。
 弟が椅子に腰掛け。
 茶碗を持ち。
 箸で肉をつつき。
 夕食を愉しんでいた。
 弟が、いる。
 私より、先に。
 それは、まあ、いい。
 家族なのだから、弟が自宅にいることは至極自然なことだ。
 だが。
 しかし。
 それでは。
 ――あの、振動は。
 ベッドの上で、『誰か』の存在を知らせる、あの振動は。
 部屋に帰ってきたのは、一体。
 誰なのだ。
 誰が、帰ってきたのだ。
 居間から流れてくるエアコンの冷風が、私の肌を撫で回した。